「鋼の錬金術師」は、最初は兄弟二人の物語だ。
次は兄弟と周囲の人々の物語となり、
それから人々の中の兄弟の物語になる。
だから、最初のうちは、兄弟のために周りのキャラクターがいる。
タッカーの非道も、スライサーの運命も、スカーの怒りもマルコーの迷いもウィンリィの涙もイズミの許しも、どれも兄弟のためにある。
彼らが何をしたかは重要ではない。それに対して兄弟が何を感じたか、が重要なのだ。
しかし、読者がすでに知るとおり、周りのキャラクターたちは己のために生き始める。
スカーの迷いと悔いと決意はスカーのものだ。マルコーの反撃はマルコーのもの。ウィンリィはウィンリィ自身のために泣く。
ヒューズの死もまた兄弟のために描かれたが、後にそれはマスタングのものになっていく。
兄弟とは関係なしにブリッグズの面々は動き出す。
エドと仲間になろうとも、リンとグリードはリンとグリードの意思だけを基準に動く。
兄弟に何かを感じさせるために周囲のキャラクターにイベントが起こるのではなく、周囲のキャラが彼ら自身のために考え、感じ、行動するのだ。
過去に若きマスタングらを揺さぶったキンブリーは、後にエドともアルとも相対したが、三者は互いに少しも揺らがなかった。誰もがすでに自分の頭で考え、自分の足で立っているからだ。
「自分の頭で考えろ。自分の足で歩け」
かつてエドがロゼに言った言葉を、ありとあらゆるキャラクターが実践してしまう。それが「鋼の錬金術師」
次は兄弟と周囲の人々の物語となり、
それから人々の中の兄弟の物語になる。
だから、最初のうちは、兄弟のために周りのキャラクターがいる。
タッカーの非道も、スライサーの運命も、スカーの怒りもマルコーの迷いもウィンリィの涙もイズミの許しも、どれも兄弟のためにある。
彼らが何をしたかは重要ではない。それに対して兄弟が何を感じたか、が重要なのだ。
しかし、読者がすでに知るとおり、周りのキャラクターたちは己のために生き始める。
スカーの迷いと悔いと決意はスカーのものだ。マルコーの反撃はマルコーのもの。ウィンリィはウィンリィ自身のために泣く。
ヒューズの死もまた兄弟のために描かれたが、後にそれはマスタングのものになっていく。
兄弟とは関係なしにブリッグズの面々は動き出す。
エドと仲間になろうとも、リンとグリードはリンとグリードの意思だけを基準に動く。
兄弟に何かを感じさせるために周囲のキャラクターにイベントが起こるのではなく、周囲のキャラが彼ら自身のために考え、感じ、行動するのだ。
過去に若きマスタングらを揺さぶったキンブリーは、後にエドともアルとも相対したが、三者は互いに少しも揺らがなかった。誰もがすでに自分の頭で考え、自分の足で立っているからだ。
「自分の頭で考えろ。自分の足で歩け」
かつてエドがロゼに言った言葉を、ありとあらゆるキャラクターが実践してしまう。それが「鋼の錬金術師」
「兄弟の物語」から「周囲のキャラが彼ら自身のために考え感じ行動する物語」へ。言われてみればその通りですね。兄弟側の味方キャラはもちろんですが、ホムンクルスやキンブリーのような敵キャラの一人一人にもしっかり「自分の頭で考え」ていますね。このごろアームストロング少将のセリフにもそういった言葉があったような。普通、自分の味方として動いてほしい軍側の兵士達に、「自分たちで考えろ」とは言いませんよね。でも、彼女はそこで、迷う兵士達に「自分で考えて選べ」と言い放つわけで。ここには自分に対する自信と、相手側の人間性に対する信頼が感じられます。
で、同時に思うのは、そうやって、「自分の頭で考えて自分の足で歩く」のは、人間のあらまほしい姿、ということではないかな、ということ。大総統は、「強かにあがけよ人間」と言いましたが(ちょうど前回の「鋼FA」の回でしたね)、どちらの方向を選ぶにしても、そうやって「あがきながらそれでも自分の信じる道を突き進む」というのが人間というもので、そして多くの場合、その行動を最終的に決定づけるのは周囲との関係、というか人と人との絆というか、そういうものが大きなうねりを呼ぶのだと。
最近「鋼」を読んで感じるのはそういったことです。せんじつめれば、「人間って悪くない」ということなのかもしれません。(自分でもあまり整理ついてなくてまとまりない感想ですみません)
いやいや、私も嘆いています(笑)
でも、む~?とか思うのって、他の視点から見直すきっかけになるんですよねv いろいろ理屈をつけて自分を慰めてるだけかも?!なんちゃって。
>「人間って悪くない」
うん、そのとおりだと思う!
荒川先生はものすっごく人間全肯定。だから読者も自分が肯定される感じがして、読んで清々しい。
例えばスポーツ物もそうよね。別の題材で同じことを、少年少女よ元気に行こうぜ!を描いてるんだろうな、なんて思いますv