伊藤剛氏のマンガ評論「テヅカ・イズ・デッド」を読みました。
む、むずかしかったー!そして、すごかった!ここまで「なぜ」を突き詰められるんだ…!
この本を読むきっかけは、いつものごとく鋼のをキーワードにケータイブログサーフしてたとき出会った、このブログです。「手塚前派」
なんか、すごい力入った書評だよなー、そんなすごいんなら読んでみよっかな、と思ったんですが。
手にとって驚いた!だって分厚い…。
そして巻末の索引と文献の多さに「おおお学術書!」
レビューとしては「サルでも描けるまんが教室」の作者、竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」が詳しいです。
さてさて。どんな本かと言いますと。
【90年代ごろマンガ評論家が「マンガはつまらなくなった」と言っていたけれど、それは違う。
そう言う人たちは「手塚治虫」と「手塚を起源とする戦後のストーリーマンガ」にこだわりすぎている。
けれど、評論家がジジイになったから「今のマンガ」が読めないだけ、と言ってしまったら話しが終わってしまう。
マンガを、社会背景とかと切り離して、紙の上のマンガそのものとして読む、という考え方があって(これの先駆者というか推進者が、かの夏目房之助さんなのかー)、マンガの構成は「絵(線)」と「コマ」と「言葉」からできていると捉える。
この「絵」を「キャラクター」に置き換えて考える。
そして「キャラクター」と「キャラ」を分けて考える。<ここがこの本のキモっつかマンガ評論における新視点!
キャラクターとは登場人物=人間。物語の中に生きていて、悩んだり死んだりする。
キャラはもっと記号的で、物語から切り離せる。その絵だけで存在感を与える。
(例えばミッキーマウスはキャラ。で、ミッキーが悩んだり死んだりする存在になったらキャラクター)
ストーリーマンガは登場人物(キャラクター)のリアリティに価値を置く。それは小説などと同様モダニズムの流れ…らしい。(この辺よくわかんない)
『NANA』は「キャラ」は弱いけれど「キャラクター」は立っている。
でも今はキャラとキャラクターの二層を重ねて読まれるマンガや(『ONE PIECE』の素直読みとオタ読み)、キャラだけで読んだりするマンガがある。(萌えマンガとか)
「手塚ストーリーマンガ」の中にいる人は、そういう新しいマンガが読めないし、語る言葉を持たない。
この本は、「キャラとキャラクター」と「コマ構造」というモデルを示し、手塚以前と以降に広がるマンガの大きな流れを見渡し、これからのマンガを語る手段を提示している。】
…んだと、思います。おおう、私の脳味噌の臨界点を越えているー!
ええと、無理ムリ短くまとめていますんで、上記要約は不足短絡しまくりです;(コマ構造のとこなんかすっ飛ばしてるし)
でもね。「マンガとは」を突き詰めて考える人、考えたい人は、これはきっと絶対外せない本だ!と感じました。
難しいところもあるけれど、言葉は素直だし図表もあるし、誰でも読める本ですよ~。
さて。
このブログで記事にするということはもちろん、この本にも「鋼の錬金術師」が取り上げられています。
そしてそれよりもずっと長く大きく取り上げられてるのは雑誌「ガンガン」です!
何と目次にもある!
第一章の4 『少年ガンガン』に見る言説の断絶
「ガンガン」は、マンガ評論が無視する「マイナー」の一例として上げられています。少年マンガはジャンプ・マガジン・サンデーしか存在しないような振る舞いって、確かにあるよなあ。
以下引用。
「だってガンガン系のマンガってくだらなくない?絵はきれいだけど、お話は薄っぺらだし。問題にされないのは当たり前だよ」(中略)
そうした批判的言辞は、すべて「マンガ」の外から「マンガ」に対してなされた紋切り型の反復なのではないか。(中略)「なぜガンガン系のマンガは、より薄っぺらに思えるのか」を説得的に言語化しなければならなくなる。
引用終わり。
つまりガンガンはジジイの読めない「今」マンガ、「つまらない」と言わしめちってるマンガの好例な訳ですよ。(笑) <いや笑っちゃいけないんだけど。
この本の著者は、上手い下手とか良い悪いとかそういう主観の入った(=曖昧な)表現を決して使わないんですよ!敬服!!!
(たとえば私は「ジジイ」と言っちゃってるけど、本の中では19○○年生まれ以前の世代、と表現されている)
なのに「薄っぺらに思える」とハッキリ書かれてるのが…プププ。
そんで、ガンガン系がマンガ本流から排除されているのはゲーム起源のマンガだからと説明し、そして、しかしマンガは子供の娯楽として特権的地位ではすでになく、ゲームの後にマンガに出合うのも当たり前になっている、と続きます。
なるほどなー。
まず物語があって、その上で登場人物が動いていくマンガと。
まずキャラがあって、それが動いてイベントが生まれるゲームと。
以下引用。同じ章のちょっと手前。
たとえば、『鋼の錬金術師』が、ヒットにより「発見」されたとしても、それは従来からの「少年マンガ」の枠で理解され、それ以外の「ガンガン系」とは別個の扱いをされる。
引用終わり。
「発見」!(笑)
なーるほどなー。なんかさ、ハガレン人気が語られるとき「ガンガン発」であることに、ことさら言及する論調にね、ん?と感じたことがあったのよ。ガンガン部数が飛躍的に伸びたとかサードパーティー出自の映画がとかそうゆうの。
雑誌売上低迷の時代に、がばーっと売上が伸びるってのはそれだけニュースなんかなーと思っていたけど、それ以前にさ、視界の外からぼーんとボールが蹴り込まれてびっくりした、みたいな感じだったのかもしれない。
>従来からの「少年マンガ」の枠で
そう。あのさ、アニメ夜話でオタキング岡田氏が鋼の最初の印象を「本当の少年マンガがまだあったんだ」と言ったじゃない?
あの「本当の」っていうのはつまり、岡田氏が「面白い」と思う、「こう在るべきだ」と感じるマンガのこと。それは鋼のストーリーマンガの面。
そして鋼は「大人も楽しめるマンガ」と紹介され、事実大勢の大人読者が楽しんでいるのは、鋼が、手塚発ストーリーマンガの、従来の系譜に属するからなんだ。
うわー!こう考えるとすごい納得!
ガンガンの中で、鋼は他と違う。
極論すると、大人の私は鋼以外は興味がもてない。<あくまでも極論ですよ!
それをただ「鋼は面白いから」としか表現できなかったけど、「なぜ私は面白いと感じるのか」を、その理由っていうか形が、おぼろげながら見えた気がするー!
それから。
ストーリーから切り離されても存在するのがキャラだから。
うん、だから二次創作になったものは二次創作がしやすいんだよ!
私、同人小説書いたマンガって二作品しかないんだけどさ。その二作とも、最初に書いた作品は、他の作家さんの設定借りた、いわゆる三次創作ってやつだったんだ。
なんつか、素材そのまんまじゃ料理の方法もわからないけど、半加工品になったら途端に気楽に使える感じ?小麦粉とパンとか、丸ごとの魚と切り身とか、そういう違い。
アニメ化以前、鋼が原作しかなかったときは、同人誌も少なくてカプものなんて言語道断って雰囲気だったそうですね。>H様
それがアニメになって爆発的に同人になった。
その理由を、アニメ化でメジャーになったからとか、アニメキャラのが腐女子心をくすぐる要素を持ってたからとか、そう説明もできるけど。
もっとシンプルに。アニメという別ストーリーを与えられることで、マンガの「ストーリー上に生きるキャラクター」が「切り離されたキャラ」となって、だから誰もがその「キャラ」を使って遊べるようになったのだ。「切り離されたキャラ」だからカプにもできちゃう、と、そう考えることもできるんだー。
ふむむー。そうするとメディアミックスも視野に入れた「今の」マンガのつくりにおいて、登場人物が「キャラ」であるのは自然な流れなのかもなあ。
さて。
もう一箇所、この本が「鋼の錬金術師」を取り上げる章があります。
それが、最後の章なんだ。
第五章の2 より開かれたマンガ表現史へ
要約
【手塚の『地底探検』がキャラ(亜人間)にキャラクター(人間性)を持たせた。これが手塚ストーリーマンガの始まり。
その終わりとして、キャラクターがキャラであるマンガ『のらみみ』『GUSLINGER GIRL』を上げている。「だっておいらキャラだもん」「偽物ですね」(キャラ自らが人間であることを否定)
荒唐無稽で架空の存在であるキャラに人間性をもたせる(=キャラクターにする)ことがマンガの進歩だったけれど、人間として描くことで逆に生まれてしまう限界もある。(キャラは年齢も性別も無い存在として描くことができるけれど、人間はそうはいかない)
その限界に挑むのが、「人間」を描く浦沢直樹による、手塚の「キャラ」マンガである『アトム』のリメイク『PLUTO』。
すでに現実は「手塚の外」に出ているのだ。】
と、そんな文脈の中で、ハガレンは『のらみみ』『GUSLINGER GIRL』のあと、『PLUTO』の手前に出てきます。
以下引用
同様に、「キャラの自律化」以降の兆候をほかに探すことは比較的にたやすい。たとえば、荒川弘『鋼の錬金術師』に登場するアルフォンス・エルリック。彼は肉体を失い、「魂」だけががらんどうの鎧に定着された存在と言う設定だ。彼の空洞の身体を、「内面」と「描かれた表層」のセットであるとみなすことはできる。もしこれが「モダンな」手塚治虫ならば、アルフォンスの身体にぎっちり機械を詰めてしまったのではないだろうか。つまり、本当はけなげな少年であるアルフォンスもまた、私たちの持つ「キャラそのもの」の表象であるのだ。
引用終わり。
えーと。
引用しときながら、この文の意味するところをあんま理解できてないのですが(<お馬鹿;)
私はむしろ、この位置にハガレンが置かれることに、おお!と思いました。
つまり、ハガレンは「ストーリーマンガ」であるのに、「キャラそのもの」が出てくる。
「古き良き」少年マンガでありながら、その中の準主人公が「今」を体現するキャラなんだ。
ふーむー。
だからこそ、大人「も」楽しめるマンガなのかしらハガレンは。
「今」の子供たちも楽しめるマンガであることはもちろんのこと。
でも「キャラ=亜人間」と「キャラクター=人間」で言えば、アルよりホムンクルスの描き方のが「新しい」と私は思うけどなあ。
亜人間であるのに、亜人間であることに矜持を持つとことか。いかにもキャラなグラトニーとキャラクターなブラッドレイが当然に共に行動してたり、キャラ絵なメイとキャラクターなスカーが同じ画面に収まってたりするとことか。
んー私のキャラ/キャラクター解釈がこの本の言わんとしてるとことズレてんのかもしれないけれど。
すごい深い思索に触れると、自分でもいろいろ考えてみたくなります~。
だからこの本を読めて良かったです!
ところで!
この本は実に慎重に言葉を選び、正確な表現を期している素晴らしい著作ですが、ただ一点、明らかな間違いがあります!
ページ下の註、「鋼の錬金術師」の項。
「魅力的なキャラクターと骨太な展開で小~中学生から大人にまで幅広く支持された。」
違うでしょ!
支持され「る。」でしょ!
まだ終わってないもん!これからいよいよクライマックスだもん!アニメ語りでこの言いようはOKだけど、マンガ語りで過去形はNGだ!ぶーぶーぶー!(<ほっとこうね)
いやー。勉強になりました。
でも、もうこんな厚い本はしばらくはいいや(笑)。だって私は一介のファンだもん。マンガとは何か、をつきつめて考え語るより、「私はここが面白いのよー!」と語るほうが好きだもん。何たってラクだ(笑)
難しい内容にアップアップしてるぎこちない文章を、ここまで読んでくれてありがとー!
もう一つ、面白いなと思ったのに「キャラの強度は『かわいさ』」というのがあるのですが、それはまた次の機会に語りたいと思います。
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む、むずかしかったー!そして、すごかった!ここまで「なぜ」を突き詰められるんだ…!
この本を読むきっかけは、いつものごとく鋼のをキーワードにケータイブログサーフしてたとき出会った、このブログです。「手塚前派」
なんか、すごい力入った書評だよなー、そんなすごいんなら読んでみよっかな、と思ったんですが。
手にとって驚いた!だって分厚い…。
そして巻末の索引と文献の多さに「おおお学術書!」
レビューとしては「サルでも描けるまんが教室」の作者、竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」が詳しいです。
さてさて。どんな本かと言いますと。
【90年代ごろマンガ評論家が「マンガはつまらなくなった」と言っていたけれど、それは違う。
そう言う人たちは「手塚治虫」と「手塚を起源とする戦後のストーリーマンガ」にこだわりすぎている。
けれど、評論家がジジイになったから「今のマンガ」が読めないだけ、と言ってしまったら話しが終わってしまう。
マンガを、社会背景とかと切り離して、紙の上のマンガそのものとして読む、という考え方があって(これの先駆者というか推進者が、かの夏目房之助さんなのかー)、マンガの構成は「絵(線)」と「コマ」と「言葉」からできていると捉える。
この「絵」を「キャラクター」に置き換えて考える。
そして「キャラクター」と「キャラ」を分けて考える。<ここがこの本のキモっつかマンガ評論における新視点!
キャラクターとは登場人物=人間。物語の中に生きていて、悩んだり死んだりする。
キャラはもっと記号的で、物語から切り離せる。その絵だけで存在感を与える。
(例えばミッキーマウスはキャラ。で、ミッキーが悩んだり死んだりする存在になったらキャラクター)
ストーリーマンガは登場人物(キャラクター)のリアリティに価値を置く。それは小説などと同様モダニズムの流れ…らしい。(この辺よくわかんない)
『NANA』は「キャラ」は弱いけれど「キャラクター」は立っている。
でも今はキャラとキャラクターの二層を重ねて読まれるマンガや(『ONE PIECE』の素直読みとオタ読み)、キャラだけで読んだりするマンガがある。(萌えマンガとか)
「手塚ストーリーマンガ」の中にいる人は、そういう新しいマンガが読めないし、語る言葉を持たない。
この本は、「キャラとキャラクター」と「コマ構造」というモデルを示し、手塚以前と以降に広がるマンガの大きな流れを見渡し、これからのマンガを語る手段を提示している。】
…んだと、思います。おおう、私の脳味噌の臨界点を越えているー!
ええと、無理ムリ短くまとめていますんで、上記要約は不足短絡しまくりです;(コマ構造のとこなんかすっ飛ばしてるし)
でもね。「マンガとは」を突き詰めて考える人、考えたい人は、これはきっと絶対外せない本だ!と感じました。
難しいところもあるけれど、言葉は素直だし図表もあるし、誰でも読める本ですよ~。
さて。
このブログで記事にするということはもちろん、この本にも「鋼の錬金術師」が取り上げられています。
そしてそれよりもずっと長く大きく取り上げられてるのは雑誌「ガンガン」です!
何と目次にもある!
第一章の4 『少年ガンガン』に見る言説の断絶
「ガンガン」は、マンガ評論が無視する「マイナー」の一例として上げられています。少年マンガはジャンプ・マガジン・サンデーしか存在しないような振る舞いって、確かにあるよなあ。
以下引用。
「だってガンガン系のマンガってくだらなくない?絵はきれいだけど、お話は薄っぺらだし。問題にされないのは当たり前だよ」(中略)
そうした批判的言辞は、すべて「マンガ」の外から「マンガ」に対してなされた紋切り型の反復なのではないか。(中略)「なぜガンガン系のマンガは、より薄っぺらに思えるのか」を説得的に言語化しなければならなくなる。
引用終わり。
つまりガンガンはジジイの読めない「今」マンガ、「つまらない」と言わしめちってるマンガの好例な訳ですよ。(笑) <いや笑っちゃいけないんだけど。
この本の著者は、上手い下手とか良い悪いとかそういう主観の入った(=曖昧な)表現を決して使わないんですよ!敬服!!!
(たとえば私は「ジジイ」と言っちゃってるけど、本の中では19○○年生まれ以前の世代、と表現されている)
なのに「薄っぺらに思える」とハッキリ書かれてるのが…プププ。
そんで、ガンガン系がマンガ本流から排除されているのはゲーム起源のマンガだからと説明し、そして、しかしマンガは子供の娯楽として特権的地位ではすでになく、ゲームの後にマンガに出合うのも当たり前になっている、と続きます。
なるほどなー。
まず物語があって、その上で登場人物が動いていくマンガと。
まずキャラがあって、それが動いてイベントが生まれるゲームと。
以下引用。同じ章のちょっと手前。
たとえば、『鋼の錬金術師』が、ヒットにより「発見」されたとしても、それは従来からの「少年マンガ」の枠で理解され、それ以外の「ガンガン系」とは別個の扱いをされる。
引用終わり。
「発見」!(笑)
なーるほどなー。なんかさ、ハガレン人気が語られるとき「ガンガン発」であることに、ことさら言及する論調にね、ん?と感じたことがあったのよ。ガンガン部数が飛躍的に伸びたとかサードパーティー出自の映画がとかそうゆうの。
雑誌売上低迷の時代に、がばーっと売上が伸びるってのはそれだけニュースなんかなーと思っていたけど、それ以前にさ、視界の外からぼーんとボールが蹴り込まれてびっくりした、みたいな感じだったのかもしれない。
>従来からの「少年マンガ」の枠で
そう。あのさ、アニメ夜話でオタキング岡田氏が鋼の最初の印象を「本当の少年マンガがまだあったんだ」と言ったじゃない?
あの「本当の」っていうのはつまり、岡田氏が「面白い」と思う、「こう在るべきだ」と感じるマンガのこと。それは鋼のストーリーマンガの面。
そして鋼は「大人も楽しめるマンガ」と紹介され、事実大勢の大人読者が楽しんでいるのは、鋼が、手塚発ストーリーマンガの、従来の系譜に属するからなんだ。
うわー!こう考えるとすごい納得!
ガンガンの中で、鋼は他と違う。
極論すると、大人の私は鋼以外は興味がもてない。<あくまでも極論ですよ!
それをただ「鋼は面白いから」としか表現できなかったけど、「なぜ私は面白いと感じるのか」を、その理由っていうか形が、おぼろげながら見えた気がするー!
それから。
ストーリーから切り離されても存在するのがキャラだから。
うん、だから二次創作になったものは二次創作がしやすいんだよ!
私、同人小説書いたマンガって二作品しかないんだけどさ。その二作とも、最初に書いた作品は、他の作家さんの設定借りた、いわゆる三次創作ってやつだったんだ。
なんつか、素材そのまんまじゃ料理の方法もわからないけど、半加工品になったら途端に気楽に使える感じ?小麦粉とパンとか、丸ごとの魚と切り身とか、そういう違い。
アニメ化以前、鋼が原作しかなかったときは、同人誌も少なくてカプものなんて言語道断って雰囲気だったそうですね。>H様
それがアニメになって爆発的に同人になった。
その理由を、アニメ化でメジャーになったからとか、アニメキャラのが腐女子心をくすぐる要素を持ってたからとか、そう説明もできるけど。
もっとシンプルに。アニメという別ストーリーを与えられることで、マンガの「ストーリー上に生きるキャラクター」が「切り離されたキャラ」となって、だから誰もがその「キャラ」を使って遊べるようになったのだ。「切り離されたキャラ」だからカプにもできちゃう、と、そう考えることもできるんだー。
ふむむー。そうするとメディアミックスも視野に入れた「今の」マンガのつくりにおいて、登場人物が「キャラ」であるのは自然な流れなのかもなあ。
さて。
もう一箇所、この本が「鋼の錬金術師」を取り上げる章があります。
それが、最後の章なんだ。
第五章の2 より開かれたマンガ表現史へ
要約
【手塚の『地底探検』がキャラ(亜人間)にキャラクター(人間性)を持たせた。これが手塚ストーリーマンガの始まり。
その終わりとして、キャラクターがキャラであるマンガ『のらみみ』『GUSLINGER GIRL』を上げている。「だっておいらキャラだもん」「偽物ですね」(キャラ自らが人間であることを否定)
荒唐無稽で架空の存在であるキャラに人間性をもたせる(=キャラクターにする)ことがマンガの進歩だったけれど、人間として描くことで逆に生まれてしまう限界もある。(キャラは年齢も性別も無い存在として描くことができるけれど、人間はそうはいかない)
その限界に挑むのが、「人間」を描く浦沢直樹による、手塚の「キャラ」マンガである『アトム』のリメイク『PLUTO』。
すでに現実は「手塚の外」に出ているのだ。】
と、そんな文脈の中で、ハガレンは『のらみみ』『GUSLINGER GIRL』のあと、『PLUTO』の手前に出てきます。
以下引用
同様に、「キャラの自律化」以降の兆候をほかに探すことは比較的にたやすい。たとえば、荒川弘『鋼の錬金術師』に登場するアルフォンス・エルリック。彼は肉体を失い、「魂」だけががらんどうの鎧に定着された存在と言う設定だ。彼の空洞の身体を、「内面」と「描かれた表層」のセットであるとみなすことはできる。もしこれが「モダンな」手塚治虫ならば、アルフォンスの身体にぎっちり機械を詰めてしまったのではないだろうか。つまり、本当はけなげな少年であるアルフォンスもまた、私たちの持つ「キャラそのもの」の表象であるのだ。
引用終わり。
えーと。
引用しときながら、この文の意味するところをあんま理解できてないのですが(<お馬鹿;)
私はむしろ、この位置にハガレンが置かれることに、おお!と思いました。
つまり、ハガレンは「ストーリーマンガ」であるのに、「キャラそのもの」が出てくる。
「古き良き」少年マンガでありながら、その中の準主人公が「今」を体現するキャラなんだ。
ふーむー。
だからこそ、大人「も」楽しめるマンガなのかしらハガレンは。
「今」の子供たちも楽しめるマンガであることはもちろんのこと。
でも「キャラ=亜人間」と「キャラクター=人間」で言えば、アルよりホムンクルスの描き方のが「新しい」と私は思うけどなあ。
亜人間であるのに、亜人間であることに矜持を持つとことか。いかにもキャラなグラトニーとキャラクターなブラッドレイが当然に共に行動してたり、キャラ絵なメイとキャラクターなスカーが同じ画面に収まってたりするとことか。
んー私のキャラ/キャラクター解釈がこの本の言わんとしてるとことズレてんのかもしれないけれど。
すごい深い思索に触れると、自分でもいろいろ考えてみたくなります~。
だからこの本を読めて良かったです!
ところで!
この本は実に慎重に言葉を選び、正確な表現を期している素晴らしい著作ですが、ただ一点、明らかな間違いがあります!
ページ下の註、「鋼の錬金術師」の項。
「魅力的なキャラクターと骨太な展開で小~中学生から大人にまで幅広く支持された。」
違うでしょ!
支持され「る。」でしょ!
まだ終わってないもん!これからいよいよクライマックスだもん!アニメ語りでこの言いようはOKだけど、マンガ語りで過去形はNGだ!ぶーぶーぶー!(<ほっとこうね)
いやー。勉強になりました。
でも、もうこんな厚い本はしばらくはいいや(笑)。だって私は一介のファンだもん。マンガとは何か、をつきつめて考え語るより、「私はここが面白いのよー!」と語るほうが好きだもん。何たってラクだ(笑)
難しい内容にアップアップしてるぎこちない文章を、ここまで読んでくれてありがとー!
もう一つ、面白いなと思ったのに「キャラの強度は『かわいさ』」というのがあるのですが、それはまた次の機会に語りたいと思います。
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原作ファンの管理人様としては、アニメ化以降二次創作が増えたことをどうお考えですか?
いろいろ考えることも多かったので、この本を読んで、また、考えを整理したいと思います。
軍部大好きな私は、このところの連載を辛くも嬉しく読んでいましたが、エドがやっぱり中心になると画面が躍動しますね、なんだか。
ふふ、ガンガンって、やっぱり買うけど、鋼以外はなかなか読めません。けど、時々、ドキッとするものはあります。そうか、ゲーム会社の出版する漫画雑誌って、格下なのか(笑)。なんか、そういうヒエラルキーって、業界の中にいる人には切実なんでしょうね。純粋なファンの情熱って、そんなものには縛られないのになぁ~。
私は自分が、テヅカ時代的漫画読みとは思わないのですが、どちらかといえば、ストーリー性の高い漫画に親しんでいるのは確か。ただしテヅカ時代と、少女漫画花の28年組はまた、微妙に違いますよね。そこのところもまた、考えながら読ませてもらおうと思ってます。歌猫さま、その情熱をいつもココロひそかに応援しています~。ではでは、またね。
>アニメ化以降二次創作が増えたことをどうお考えですか?
嬉しく思います!
私も二次創作で鋼を知ったので。二次創作は「最大の口コミ」だと思います。好きだからこそ、それで何か書きたく・遊びたくなるのですもの。
かんらん様こんにちは!
うわーご無沙汰しております~。あの、また改めてコメントさせていただきますね!きゃべつ日記でのご紹介もありがとー!
それは、
>鋼が、手塚発ストーリーマンガの、従来の系譜に属するからなんだ。
あああ、それ!その通り! と諸手をあげて賛成します!
手塚マンガとともにストーリィマンガの面白さに浸り、しっかり「花の24年組」の方々にもはまってきた私にしてみれば、なんでこんなに「鋼」に入れ込んでしまったのかの答えを得られたような気がします。
正統派手塚マンガの後継者!
数年前に「鋼」が手塚文化賞にノミネートされて、落選したことがありましたが、(その時の受賞作品は、岡崎京子の「ヘルター・スケルター」でした。まぁ、これも悪魔的な破滅への意志というか、すさまじい迫力あるマンガでしたが、読んで快くはなかったですね。内容から言って、あたりまえですけど)、私はひどく不満でした。
だって、きっと今手塚さんが生きていらしたら、絶対、「鋼の錬金術師」という作品に嫉妬と羨望を抱き、ライバル視なさったんではないかと思うからです。
少年が願いをかなえる途上でぶつかる壁。表面上は少年の視点で、表現もあくまでも少年漫画の形を取りながら、決してさわやかに全面解決するわけではない事件、その奥に秘められた解決不可能などろどろとしたもの。
それを実に小気味よく、洗練された形で実現したのが、この初連載のまだ若い女性作家だということに、きっと手塚さんは本気で嫉妬すると思いますよ。
だから、断固として! 手塚マンガ文化賞は「鋼」が受賞するべきです!(無駄に断言)
深刻な戦争や科学の暴走を暗喩として冒険ファンタジーで描きつつも、あくまでも「少年漫画」という枠組み。だから、常に何が起こるか分からない展開の意外さに翻弄されつつも、安心して楽しめもする。それが「鋼の錬金術師」という作品のような気がします。
手塚マンガで育った私が、今この作品にこんなにもはまりこんだ理由の一つが間違いなくこれだな、と答えをいただきました。どうもありがとうございます!
イロイロあった8月ですが、それなりにゴマカしウヤムヤに何とかなっております(笑)
この価格のこの厚さの本を、クリック一発で即買いとは、さすがかんらん様!!(実は私は図書館…;;)
こうね、新しい道具をもらうと今までの作業手順が変わるみたいな感じ?思考回路のさ。
著者も言ってるけどこれは少年~青年マンガをメインにした話になってます。少女マンガをいれると収集つかなくなるんだと思う(笑) でもコマ構造に見る少年マンガと少女マンガの比較の挿絵は、そうそう!と膝を叩きました。
あとマンガ評論という業界での派閥とか潮流とかも垣間見えてそこも面白かった。マンガ学みたいな新興マイナーなとこでもこういうのあるんだわあとか。
>そういうヒエラルキーって、業界の中にいる人には切実なんでしょうね
うん。でもガンガン編集部にいる人はそういうヒエラルキーをあんま気にしてない、つか気付いてないと思う(笑)外にいるというか。その若さが強みであり、またイマイチなとこでもあるのよね~。
コメントほんとにありがとう!かんらん様の感想もぜひ聞かせてください~v
sengen412様こんにちは!
そうなんですよ。ガンガンのほかのマンガと鋼はどっかちがう、鋼のが質実というかアナログというかそういう…と、私もずっと思っていたんです。
手塚治虫が嫉妬する、とはアエラかどっかで誰かが鋼を評して言った言葉ですよね。あるいはそうかもしれないですが、どうなんでしょう。手塚氏は天才B型ですが、この本の著者もB型です。コダワリのB型って好きだなあ(笑) 荒川先生は何型なんでしょうね。
私も「あくまでも、絶対に、少年漫画」という鋼の姿勢が大好きです。そう、安心できる、なのにドキドキする。枠組みを壊すのではなく、枠組みの中で挑戦する。すごい力量だと思います。
あーまた鋼が読みたくなってきた!早く次号出ないかなあ。
「テズカ・イズ・デット」を読んで、の鋼の扱いがちょっと「?」だったのですが、キャラ=ホムンクルス、キャラクター=人間、の見立てでなんだかすっきりしました。
同時に、14巻を読んだときにグリードにどきどきした
理由もちょっとわかりました。キャラクターとしてもキャラとしても別なのに、グリードなんだもの。笑いだけ残ったチェシャ猫みたい。
以上、通りがかりですが、つい書き込んでしまいしまた。失礼がありましたら、お許しください。
ネタバレでは無いですよ!大丈夫です。コミックスになっている分はご存知、又は知ってもいいという方しか、こんなブログまではお出でになりませんし。
グリード。
>キャラクターとしてもキャラとしても別なのに、グリードなんだもの。笑いだけ残ったチェシャ猫みたい
うわー素晴らしくお上手な比喩!ほんと、笑いだけ残ったチェシャ猫みたい!
人間と亜人間を対等に置き、しかもそのどちらでも「ある」(<無い、じゃないんだよ!)キャラを配する。うーん、鋼はやっぱり、チャレンジャーな作品だと思います。
呼ばれてる気はしてたのですが、休日までまっての書き込みです。
>言語道断って雰囲気だったそうですね。
いや、私も遅れてきたFanなので、真偽の程は定かではないのですが、
確かにまん○らけとか古本で仕入れたTV開始前の発行分の本で
CP要素モノに出くわした事はないです。
(兄弟がシリアスにお互いを想ってるのは
ナチュラルにのろけあってるCPモノと取れなくもない……笑)
そして、アニメ化による認知度の上昇の他に
キャラクターグッズや
あまり物語性の感じられないキャラ羅列イラストが蔓延も、
(バースデーアクセサリーのミニマム化とか可愛いんだけど
せっかく月ごとなのに季節柄すら割振り意識してない orz)
一端、キャラクター設定をある程度白紙に戻して、
CPのみならず、擬獣化~女体化等
>「キャラ」を使って遊べるようになった
のに拍車をかけたのでしょうね。
この定義でいくと、キャラクター(個性)グッズではなく、
キャラグッズと言うべきなのだろうなぁという気がしてきました。
と言いつつも、
『「鋼の錬金術師」のドラマに惹かれたんだ!
だから、イラスト集とかサイド本は必要ない』
とか言ってたのは、もう、はるか彼方ですよ。