歌猫Blog跡地

漫画「鋼の錬金術師」と荒川弘について語るブログ。更新終了しました。

犠牲なんか無い

2007年09月21日 | ◆小ネタとか突っ込みとかつぶやきとか
(雑誌ネタバレありません)

鋼の錬金術師 1巻冒頭に掲げられた命題。

「痛みを伴わない教訓には意義がない 人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」

これは、真か。偽か。

「痛みを伴わない教訓には意義がない」
それは、そうかもしれない。
けれど。
「人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから」
それは違う。
この言葉は、犠牲の正当化になってしまう。
人の命を犠牲に賢者の石を得ることを、正当化してしまう。

何かを得るためには、犠牲を差し出さねばならない? 犠牲無しには何も得られない?
何という傲慢!

では、エドが犠牲にした右腕を、生まれたときから得ていたのは、何の犠牲によるというのか。
生まれたての赤子はその命を、何の犠牲と引き換えたというのか。
過去から連綿と続く膨大な知恵と知識を享受できる幸いは。
水は。日の光は。畑の実りは。

だから、この命題は、偽だ。
そう。
鋼は全てをひっくり返す。

犠牲なんか無い。
そうだ。すでに兄弟は、誰も犠牲にしない道を、歩み始めているじゃあないか。

痛みの伴なわない教訓には意義がない。
けれど、人は何かの犠牲があって初めて、得ることができるものもある。

兄弟の旅路で得たものが、きっとそれなのだと思う。


私は兄弟の運命を楽観視しています。
持っていかれた身体は罪の証。それでも、取り戻せると思っています。
(今月号のあの台詞は、その前に「他人である私には」が入ると思う)
だって。荒川弘は優しいから。厳しいけれど、甘いから。
兄弟を救わないはずが、無いから。


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