行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

護衛

2016-11-28 22:18:23 | Weblog
 今日、何気なく新聞を見ていると、1面の社説欄のような箇所に勝海舟と岡田以蔵の話が掲載されていた。米軍と日本の自衛隊の関係を述べた内容だったが、それは置いておく。

 さて、勝海舟は直心影流を学び、腕前も上々であった。勝は剣の使い手ではあったが、人を斬ったことはなく、逆に、討幕志士から暗殺の標的にされていた。にも関わらず、護衛を付けず京の都を駆け回っていた。

 当時、師弟関係にあった坂本竜馬は、不用心な勝を心配し、せめて護衛を付けて欲しいと訴えていた。坂本が在京の折は、自身が護衛に立てるが、彼も諸国を飛び回っていたため、勝のことが心配でならなかった。当の勝は暗殺を恐れていたら、日本の改革はできないし、身軽に動きが取れるから護衛はいらない、と断っていた。
 京で政変が度々おこり、討幕、佐幕、公武合体など、様々な勢力が入れ替っていた。
 勝を損失するのはこの国の損失だ、と考えた坂本は、京を不在の間、同郷の岡田以蔵に護衛を懇願した。

 当時、土佐藩家中の上士は佐幕または公武合体派であったが、武市瑞山を首領とする郷士中心の土佐勤王党が、藩内の家老暗殺により勢力を牛耳っていた。土佐勤王党は関ヶ原以前の土佐人、長宗我部氏に仕えた半士半農の人々で、山内氏が土佐太守に封じられてから徹底して区別されていた。当然、討幕勢力であった。武市の懐刀として暗躍していたのが岡田以蔵で、通称、「人斬り以蔵」と呼ばれ、京都での天誅騒ぎの中心の一人でもあった。土佐勤王党から見れば幕臣は一人でも多く排除したいところである。

 岡田は同郷の坂本に懇願され止む無く勝の護衛を引き受けた。護衛の最中、二人にどのような会話があったか興味深いが、ある時、勝は暴漢に襲われた。しかし、瞬く間に暴漢を倒したのは岡田であった。岡田は剣術について、自己の研鑽のみで腕を磨きあげてきた。暴漢を瞬殺した岡田に、勝は「君は好んで人を斬ってはならないよ」と言ったが、岡田は「しかし、私がああしなかったら(斬り倒さなかったら)、勝先生は斬られていましたよ」と返し、それには勝も返す言葉が無かったという。岡田は暴漢を倒す際、「土佐の岡田以蔵が相手だ!」と名乗ったらしく、このことを聞いた武市は激怒したという。

 北辰一刀流の坂本も、神道無念流の桂小五郎も実際に人を斬ることはなかった。自らも生き、相手も生かす、これこそが剣の極意だと思う。しかし、岡田の護衛が無ければ、勝は命を落としていたのかもしれない…。

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