高い塀に囲まれた小さな世界。
高い高いその塀は
入るものを拒むのか
出るものを阻むのか。
小さな小さな世界で、小さな世界だけのルールに従い生きている。
疑うことなく王を信頼し、疑うことなく戦へと向かい、疑うことなく送り出す。
そして、疑うことなく明日を語り、疑うことなく自分の役割を果たそうとする。
彼らの日常では、何が起きても、何が起こらなくても、この世界のルール、この世界の在り様は決まっているのだ。
今日と同じ明日は無条件に訪れると、漫然と己の幸福を信じている。
見るもの、聴こえるものは、少し位置が変われば違ってしまう。
右から見たら青くて、左から見たら赤いものが存在したとしたら、
きっと人々は二つの異なったものとして認識するのだろう。
疑うこともなく。
猫と人間の視点の違いは高低さより、寿命によって作り出され、
猫と鼠の意識の差は、被害者と加害者という立場の違いでうまれる。
支配者は情報を操作し、仮想現実と仮想敵を作り出し、
支配される者たちは、与えられる情報を漠然とイメージする。
実態の無い”戦争”に、危機感や緊張は存在しない。
同様に、実在しない巨悪@仮想敵のスペックは、個人の想像力に委ねられる。
何を信じ、何を守るべきなのか。
誰を信じ、誰を守るべきなのか。
自分を信じ、自分と自分の大切な人たちを守りたいと、私は思う。
『夜の国のクーパー』伊坂幸太郎
この作品は、北朝鮮のミサイル攻撃がきっかけで生まれたそうですが、閉ざされた世界は、物理的に隔離されなくても存在するんだな。
北朝鮮は物理的な隔離になるんだろうけれど、例えばこの日本では、何も強制されたりしないのに、自分から小さい世界に入り込む人はいる。
たくさん。おどろくほどたくさんいる。
しかも、それは自分で選択したと思い込んでいる。
それを誘導によるものだと自覚することは、たぶんとても難しいんだろう。
仮想的を作ることで、意識の統一を図る。
これはとても効果的だ。
スローガンは、わかりやすいほど効果的。
単純な対立軸は、理解を必要とせず、空気の流れだけで人の心を動かす。
情動的に、感情的に。
挙句に、自国の政治のために、作り話を刷り込まれる惨めな国民が存在し
傲慢な人種の自己満足のために、自虐的な歴史観を植えつけられた気の毒な国民が存在する。
知ることには、この国では何の障害もない。
能動的情報と、受動的情報の乖離は大きいけれど、それは個人の自由だ。
けれど、知るから考えるに移行すること、
考えるから、議論に発展するには、そこに想像力が介在しなければ不毛な空論にしかならない。
一側面から見た、安易な2択などで解決する事柄など存在しないんだ。
猫には猫の日常があり
鼠には鼠の日常がある。
その日常に変化を齎すのは、いつの時代にも、どこの世界でも、新しい情報と経験が齎す想像力の喚起しかありえない。
想像することの先にあるものは理解。
そして、理解の先にあるのが寛容ということになる。
『寛容』は、コミュニティで唯一必要なものだと私は思う。
体裁とか、表向きとか、一応とか、そういうことじゃなくて、相手を理解することで生まれる関係性。
最近、妄想と想像を同一で語る人がいるけど、ぜんぜん違うものだよ。
個人のバイアスが妄想であり、俯瞰での思惟が想像だと思うんだ。
この本を読んで、昔読んだ村上春樹の小説の中で、主人公が妻が彼女に言われた言葉を思い出した。
『あなたは、靴箱の中で生きればいいわ。』
”僕”はどこへもいけないのだ、良いとか悪いとかではなく。
引き伸ばされた袋小路の中で、時代遅れの音楽と小説を愛し、ささやかだけど手を抜かない食事を作り、たまにSEXをする。
ある種完璧な自己完結である”僕”の生き方を、誰にも否定することはできない。
それは、痛みや孤独を引き受ける自己責任がそこにあるからだ。
いみじくも新宿新二も同様だ。
『侘しさや切なさすら俺のものだ。満ち足りていても俺は戦うことができる、俺はそういう人間なんだよ。』
自己責任においては、コレはいるけど、アレはいらないという取捨選択権は存在しない。
いいとこどりはありえないんだ。
誰かに荷物を預けるなら、盗まれても文句は言えない。
誰かに守ってもらうなら、寝首かかれても仕方が無い。
どこかの誰かという名前の人は、この世界のどこにもいないんだ。