うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

渡良瀬遊水池

2011-10-03 | Weblog
日曜日は栃木県に行ってきました。

娘の入ってる中学の吹奏楽部が大会に出ることになったので
応援にです。




現在独身で、日々気ままに暮らしている父も、
過去学生のマーチングバンドの演奏を見たらしく、大変感動したというようなことを
今年父の家で開かれた新年会で言っていたのを思いだし、誘いました。


父の運転で夫、息子、わたしは楽チンで往復したんです。


わたしは数日前、何気なく全国地図をめくり
当日のコンテスト会場になる体育館の場所を眺めていたのですが
近くに渡良瀬遊水池があるのをみつけ
これって田中正造かな?たしか学校の教科書で習ったなーと思いだし、

体育館に行く前に父に頼んで、
遊水池に寄ってもらいました。



首都高から東北道。
日曜日の午前中は渋滞もなく、すいすいとたどり着きました。
地図を頼りにやってきましたが

「え?遊水池ってどこ」



果てしなく続く広い広い、原っぱ。
どこまでも限りがないかのように
夢の中の風景のように見渡す限りのヨシの草原。


ここがかつて足尾銅山から流れる鉱毒によって被害を受けた、渡良瀬川周辺の地域なのでした。

小さな案内板を見落としたことに気づき、原っぱをUターン、
旧谷中村跡と書かれたところまで車を走らせました。


「なんでこんなとこ見たいのよ」と言いたげな表情の父。
わたしにもわかりません!
でもなんか気になる!





駐車場に車を停め、四人でぶらぶら歩き出します。
辺りは芝生とまばらな木々の生い茂る
ただただ広大な公園のようになっていました。
数組の家族は、弁当をひろげたり、バドミントンをしたり
何人かの男性たちは釣りを楽しんだり

穏やかな秋の日曜日といった雰囲気でした。




谷中村跡、といっても、当時を偲ばせるものはほとんど残っていませんでした。


この村は、鉱毒はもちろん、また行政によって強制的に廃村にさせられるという、
二重の被害を受けたところのようです。


役場跡、という一本の角柱に書かれた標識のほかには
きっとずいぶん過去にたてられたものに違いない古い看板だけが
この村の歴史を物語っていました。




「谷中村遺跡を守る会」の建てたこの看板によれば


谷中村は室町時代から開け、開墾によって発展をとげた、肥沃で、
魚介類もよく獲れる豊かな地域だったそうです。
それが、明治18年ごろより、足尾銅山の鉱毒がこの地域にも流れ込み
村一帯は死の沼と化したそうです。

以来、30年間にわたって、衆議院議員であった田中正造を先頭に
谷中村の村民は鉱毒と闘いました。


明治37年、栃木県議会は堤防修築という名のもとに谷中村買収案を強行議決します。
39年には、谷中村議会での反対決議を無視し、谷中村を藤岡町に合併、
翌40年、県当局は、村外への移住勧告に従わなかった村内残留の16戸の住民家屋を
強制破壊し、村民は雨露に晒されることとなったといいます。

大正6年までには全ての村民の移住が完了し、名実ともに谷中村は滅亡したということでした。




パソコンで調べましたが、
政府に「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけられ、多くの村民が村外に出ましたが、
田中正造は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗したそうです。


明治41年、政府は谷中村全域を河川地域に指定。
明治44年、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された、とありますが、なぜ肥沃で住みなれた土地に住んでいた人々が北海道の原野まで移住させられたのでしょう??




こんな悲しくて重要な歴史があるにもかかわらず、朽ちかけた看板や立て札だけしか残っていないのがとても残念でした。
住みなれた土地を泣く泣く追われた人々が、現在に重なってきました。



この絵は谷中湖の風景です。息子が歩いています。
遠くには熱気球が飛んでいました。
この日はトライアスロンレースも行われており、レジャー施設として活用されているようでした。


たしかに公害は、観光の目玉にはならないし、マイナス要素が多いと思いますが
この村の歴史を忘れてはいけないんじゃないかなーと感じました。




再び車に乗り込み、体育館へ向かおうと遊水池から離れかけたとき、
「谷中村合同慰霊碑」があるのをみつけ、再び停車。


「お父さん、タバコ吸ってるから」と、父は河原に上り、タバコをふかしました。





大きな石に彫られた慰霊碑を中心に、石の壁がとりかこむ敷地がありましたが、
そこもまた、草がぼうぼうと生い茂り、手入れする人もない様子でした。


石の壁には、よくみると古い墓石がびっしりと埋め込まれたようになっていて、
江戸時代であろう元号が彫られたものや、「十九夜」と彫られたものがありました。
(十九夜信仰は、旧暦十九日の夜に女性が集まり念仏を唱え、安産や子供の無事成長を祈る月待信仰の一つだそうで、
江戸時代後期になると、「十九夜」の文字だけが刻まれるようになったそうです)

きっと当時の村のお墓を、有志が集めて慰霊碑にしたのでしょう。


その場所は、なんだか言いようもない重い雰囲気がたちこめていて、
夫も「そこには入れない」と言って後ずさりしていました。手を合わせて帰りました。




そのあと手打ちそばを食べ、娘たちの応援をして、再び小田原まで帰ってきました。





娘の吹奏楽の応援がメインだったのですが・・・・、
思いがけずに、とある村の歴史を垣間見ることができました。

娘?よくがんばりましたよ。全国出場は叶いませんでしたが健闘しました。

親の欲目ですが、ピカピカで素敵な演奏でした。






















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2 コメント

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Unknown (Take)
2011-10-07 16:14:35
僕も何気に時間があるとふらっと行きます。
今は東日本一のバードサンクチャリーだそうで、僕らが歩けるところ(谷中湖)は1/4ほどだそうです。
過去の労苦は忘れちゃあいけないし、お上と住民の関係とそれに立ち向かった田中正三翁の尽力も胸に刻みたい一面と同時に、じゃあこの地はどう生かすのか?を考えた時に、未来に向けて自然の宝庫で残すことも『公害』を考えることにつながるかな?と思います。
駐車場の木陰で水面を渡る風を感じながらのんびりすると元気が出る場所です。

ちなみに(もう20年近く前になっちゃうのかな)足尾銅山に行った際、公害の関係の物品は、おみやげ物屋さんの中では売らせてもらえないらしく、駐車場に向けていく途中に仮設の小屋を立てて本などを売っていました。
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Takeさま (うろ子)
2011-10-07 18:38:13
コメントありがとうございます。
東日本一の野鳥の聖地とは知りませんでした。
思いついて立ち寄ったものですから。

うん、今度行くときには、野鳥見たいな~!!
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