うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

わたしたちは犯罪者じゃない

2012-08-31 | Weblog
岩手県ででた震災がれきを、大阪市此花区で11月に試験焼却、来年2月から本格的に焼却を始めるということ。



わたしも奈良に引っ越してくる前から、大阪市が受け入れに意欲的ということは知っていて、大阪市役所に電話をかけたりしてきたのですが。

人の意見を聞いたりせず、指摘や非難をされればますます依怙地になりそうなハシモトさんのこと。
とうとうここまで決まっちゃったのか。でも最後まであきらめたくない。




昨日は、子ども連れで釜ヶ崎のボランティアに行ったあと、
中之島の公会堂で、大阪市の震災がれき受け入れに関する説明会があったので、行ってきました。


公会堂の中に入れるのは大阪市民だけ。
しかも普段定員1200人ものホールが、この日はなぜか750人という制限。



わたしたちは奈良県民ですから、もちろん入れません。
でも一応、意思表示にいかなくちゃと思って、公会堂前まで足を運んだのですが。

ホール前の広場は、なぜか封鎖され、警察、公安、大阪市の環境局職員らが立ちはだかり
わたしたちと同じように中に入れない大阪市外から来た人たちは狭い歩道で声をあげるしかなかったのでした。



表向きは公会堂に入る人たちのための通路のようになっていましたが
どう見ても参加者はまばらに入ってくるだけ。聞けば、この説明会は周知が徹底していなかったようです。
その通路がなくてもスムーズに通行できますし、説明会が始まれば速やかに撤去して空間をあければよい話です。

頑として広場を受け入れ反対の市民には使わせない、という態度に終始しました。




19時から1時間半の説明会の間、わたしたちは歩道で行われたスピーチや抗議を聞きました。

放射能を含んだ恐れのあるがれきは、現地で処理、移動させない、燃やさないというのが国際的な処理の指針だということ、
放射能だけでなく水銀、ヒ素、クロム、アスベストなどの猛毒も含まれている危険性があるということ、
焼却によって有害物質が放出されれば関西の人、被災地から移住してきた人、被災地から保養に来た人、土や空気や海
水や食料が被曝してしまうこと、
だから受け入れてほしくないということ、
がれき処理のために大阪市に落ちるお金を、被災者や被災地の支援に使うべきだと訴えました。


公会堂の中は空席だらけだと、中に入った人から、外の主催者に連絡がありました。
わたしたちも入れてください、と皆声をあげましたが、声をあげればあげるほど警察、公安、環境局の職員たちがスクラムを組んで
感情を失ったような虚ろな顔でこちらに対峙するのみでした。

そしてカメラ。わたしたちをずっと撮り続ける無数のデジカメ。


わたしたちは犯罪者ですか?


彼らが守るのは、わたしたちの命ではないのです。
野次も、怒号も渦巻いて騒然とする歩道でした。
でも彼らも言われてやってるだけなんだ。
だけど悔しい。




大阪市民である知人女性は中に入れました。
彼女によれば、
会場の中では、ハシモト市長、松井知事、環境省
みんな通り一遍、自然放射能やレントゲンの話を持ち出したり、がれきがなくならないと復興できないとか
大阪市民だけで生きてるわけじゃないんだから分かち合いましょうとか

どこの説明会でも繰り広げられている非論理的な答弁が繰り返されたようですが
会場には反対派の市民が多くかけつけ(ちょっとはサクラもいたようですが)
彼らの発言には拍手が鳴り止まなかったそうです。

市民のほうがよっぽど焼却の危険性を勉強しているので、
ハシモトらは、本当にお粗末だった、と言いました。






動員されたサクラばかりの説明会にならなくてよかった、というわたしに彼女は

「でも、やるんやろな。今日のはガス抜きや。
説明会やなくて、「通告会」やろたぶん」



と言いました。そうかもね。
ほんとうに、このまま進んだら、どうなってしまうんだろう。









ぶどう畠

2012-08-29 | Weblog
最寄り駅、二上山駅から近鉄阿部野橋駅までの通勤で
車窓から見えるぶどう畠を見るのが朝のたのしみです。


ふふふ、これが全部葡萄酒に・・・・と思うから。



羽曳野市駒ヶ谷一帯は、昔から葡萄酒の生産地だったそうです。
ここで葡萄酒から梅酒に力を入れて成長したのがチョーヤなんですって。


わたしの好きな会社は「河内ワイン」
理由はたくさん試飲させてくれるから。
それもそうだけど、おいしいからです。


ここは梅酒も多彩で、行くと楽しいところ。

















晩御飯と女たち

2012-08-28 | Weblog
仕事から帰って
とるものもとりあえず
まずビール!ってちがいます、とるものもとりあえずまず夕飯の支度なのだ。


娘がといでおいてくれたお米を土鍋で炊きながら
せまいちゃぶ台を子どもたちに片付けさせ
並んだのは
御飯
ミズナスとヒモトウガラシの中華炒め
手羽先の唐揚げ
エゴマの葉っぱのキムチ
冷奴
ミニトマト






ミズナスは
訪問先のおばあさんが「やわらこうてええな」と言っていたから買った。

ヒモトウガラシは
A子が無農薬野菜の直売所で買ってきてくれた。

手羽先は
訪問先のおばちゃんが「唐揚げなら手羽先がええで。安うておいしいしな。子どもも大喜びや」と言ったから揚げた。

エゴマの葉っぱのキムチは
訪問先の韓国出身のおばあちゃんがお気に入りだからキムチ専門店で買った。

冷奴は
娘が好きだから。

ミニトマトは
お隣のおばちゃんがくれた。


あと、ビールは先週遊びにきてくれたJ子の置き土産。



うん。すてきな女たちに乾杯。





けっこう前のこと。
その日はつらいことがあって
夜中泣いた。
目が腫れたまま釜のちかくを歩いてた。


あたし、へんな顔だ、と思って、誰にもみられたくなかった。



「なあ、ねえちゃん。ねえちゃん」
と杖をついた、きついパーマをあてたおばちゃんが、大きく肩を揺らしながら思いきりこっちに歩いてきた。

うわあ、なに!?と思いながら、こんにちは。と言った。




あんたな、ええ顔や。きれいな目してんで。



どこの誰かは存じませんが
あのときのおばちゃんにも乾杯。









友ヶ島

2012-08-26 | Weblog
夫が「海水浴に行きたい」という息子のリクエストに応え
昨日は和歌山までドライブにつれていってくれました。


とりあえず、行ったことないけれど、大阪湾よりすこし南にいったあたりの沿岸を目指しました。




助手席で全国地図をひろげながらわたしは
友ヶ島という表記をみつけました。
船で渡れるらしいよ、行ってみない?と提案、岸和田サービスエリアで地図をもらい、和歌山市加太の乗船場へ。

乗船前に近くの淡嶋神社の売店で、さざえのつぼ焼きを食べました。2つ500円。
おいしくて全部食べられました。さざえって甘いんだね、と子どもたち。


船は、観光客であっという間に満員になりました。
一日4便の出航です。繁忙期は7便くらい。




沖合に浮かぶ4つの島、地の島、虎島、沖ノ島、神島、これらを総称して友ヶ島と言うそうです。
役行者が葛城修験道28宿の第一の宿をこの島においたそうです。

船に揺られながらガイドの冊子をみてびっくり。
軍事要塞の島だったのだそう。

これは一人ピースツアー敢行だわ!と急に気持ちが燃え上がるわたし。

一方、子どもたちと夫は「泳ぐ、泳ぐ!」とルンルンで
真っ白い波しぶきや、初めて眺める、大きく横たわる淡路島の風景を楽しんでいました。20分の船旅。



船着場到着。
大きいのから小さいのまで、無数のクラゲたちがお出迎え。
「これじゃ泳げないじゃない!」と悲鳴をあげる息子。
「やっぱお盆過ぎたらだめだよ」と達観の娘。


えへへ、と謝るわたし。


桟橋からしばらく歩いて浜に出ると、家族連れが浮き輪などにつかまって歓声をあげて遊んでいるのをみつけ
わたしの家族も海へ水着で出たけれど、波が高かったのと、クラゲが浮いていたのとで、彼らは急速に興味を失いました。


では、わたしと一緒に戦跡めぐりですよ、と4人ピースツアー開始。



かんかん照りの日差しの中、山道をのぼって行きます。
木漏れ日の下でも、やっぱ暑い・・・・。
こんなの、つまんないよ~、とぼやく子どもたち。
ま、お散歩楽しみましょうとなだめる夫。




友ヶ島の説明です
わかりやすいHPです。


明治時代大日本帝国陸軍により
外国艦隊の大阪湾への進入を阻止する目的で
沖ノ島5箇所と虎島に砲台が造られました。

第二次世界大戦までは機密要塞地帯として
一般人の立入は禁止され地形図にも
記載されていませんでした。

友ヶ島は要塞だったのです。
昭和に入り第二次世界大戦は航空戦主体となり
対艦用に造られた砲台は
一度も使用されたことなかったそうです。

その後は友が島全体が瀬戸内海国立公園になり
第2砲台以外は要塞施設跡が比較的良好な状態で
残すに至っています。

第3砲台は映画や雑誌などのロケで使用される事があり
2003年には土木学会選奨土木遺産に選ばれ
近代化遺産としての価値が高まりました。




だそうです。
わたしたちが遊びにきた沖ノ島には、第一から第五までの砲台の跡が現存しているのでした。
海につきだすような格好でそびえる第二砲台跡、
つい数年前発見された旧海軍聴音所跡、
島内最大の第三砲台跡を見学しました。

一緒に船に乗って島に来た人はたくさんいたけれど、これらを見に来た人はほとんど居なかったようです。



この絵にかいたのは、第三砲台跡です。


第二砲台跡は、あちこち崩れており、これは戦後米軍に破壊されたものだそう。
もとは堅牢に作られたものだったでしょう。レンガ作りです。
鉄条網で一応立ち入り禁止になっていましたが、その針金もよれよれで
人が歩き回って捨てていったごみが至る所に散乱していました。


聴音所跡は、いたずら書きだらけでした。
案内板もなく、ただただ時代の流れのなか、風雨や心無い人たちの破壊にさらされ、朽ち続けているようです。




そして第三砲台。
この絵にかいた入り口の奥には4つの区画にそれぞれ2つずつ砲座がすえられていたそうです。
地下には弾薬庫があり、トンネルをぬけると発電所や将校の宿舎などがまだ残っていました。

この穴のようにまっくらな入り口の向こうからは、かび臭くてとっても冷たい風が吹き抜けてきて
子どもたちが「怖くて泣きそう!」と言うので、あまりゆっくりそこには居座らず、すぐ通り過ぎてきてしまいました。
懐中電灯があれば、中にもはいることができたようです。

でも、不気味。
がっしりした建造物でしたが、居心地のいいものではありませんでした。





友ヶ島の砲台は、明治政府が紀淡海峡防衛のために由良地区(淡路島)、友ヶ島、加太、深山地区(和歌山市)に構築した由良要塞のひとつなのだと
第三砲台跡の案内板にはありました。


「土木学会選奨土木遺産」に選ばれたという記念碑には
「日清戦争以前の明治期日本の四砲台(東京・対馬・下関・由良)の一つであり、
大阪城、姫路城、五稜郭などと同じく専守防衛の施設である」
「先人の偉大な発想・技術・努力」や綿々と続けられてきた維持、管理に敬意を表して、
その意義や素晴らしさを多くの人に伝えることを目的として、友ヶ島にある5ヶ所の砲台が土木学会選奨土木遺産に認定されました、

とあります。



でもわたしはどうしても、先人の素晴らしさ、なんて風には感心できなくて。



着工が明治23年10月。
竣工が明治25年5月。
こんな大規模で堅牢な施設をたった2年たらずで完成させるなんて、どんな労働力をどれだけ投入したんだよ、とか

将校の宿舎の跡にある
「建物内部は純日本式間取りとなっており当時の将校たちの憩いの場でありました」なんて看板には薄ら寒いものを感じてしまうのです。





先人の偉業を伝えたい人たちの努力によって保存されているものを見学して反対側の視座からものを言っているわけですから
いい気なものですが
でも、戦跡は残すべきでしょう。


戦後生まれのわたしたちや、わたしの子どもたち、またその子どもたちの想像力を助けるために必要なものです。
































菊次郎さんの写真パネル展

2012-08-21 | Weblog
ハシモト大阪市長によって廃止の危機に遭っている
浪速区にあります大阪人権博物館で、福島菊次郎さんの写真パネル展が開催されており、行って来ました。

南河内で農業をされているaogebaさんもいらっしゃいました。


博物館の中の小ホールですが
思ったよりも多くのパネルが展示されており、コンパクトにまとめられていました。






順路の順に紹介します。
入り口には、人権博物館常設の、ヒロシマの被爆者であり、福島菊次郎さんの報道写真家としての道を決定した
中村杉松さん一家の三枚の写真。




そして「日本の戦後を考えるNOー19 天皇の親衛隊」。

1942年、謎の爆沈をとげた戦艦陸奥から後年引き揚げられた
変色した頭蓋骨や無数の日本刀。

侵略戦争の末路、と名づけられたタイトルのパネルには
「2500万人殺した侵略戦争の正当化と東京大空襲や原爆被害のみが強調され
アジア諸国への加害の歴史が抹消されているのである」

という導入文とともに、菊次郎さん自身が現像し、製作した写真と文章が並びます。



自分を看取ってくれる家族さえ無くし、ひっそりと最期を迎える戦争孤老たち。
愛する息子や夫を奪われ一家の支えを喪った戦死者の家族たち。

戦争によって孤児となり、瀬戸内の無人島にある施設で身を寄せ合う子どもたち。
赤ん坊のころ、幼児のころ、戦後の混乱によって親の手から離れ、中国人の家族に迎えられ育てられた「残留孤児」たち。
国策によって奨励された内鮮結婚によって韓国に渡り、戦後日本に戻る「在韓日本人妻」たち。


創氏改名を強制され、日本人として育ち日本語しか話せず
外国人登録法の適用を拒み、登録証を法務省の前で焼き捨てた宋斗会。


広島の原爆投下後基町にでき、平和公園化、緑地化計画によって真っ先に行政によって処分された韓国人たちのバラック。





「日本の戦後を考えるNOー1 原爆と人間の記録」。

ケロイドでひきつった男性の横顔。

原爆症の発作に苦しむ杉松さんの姿。

病院のベッドからじっとこちらをみつめる眼帯をされた幼児。




「日本の戦後を考えるNOー8 全共闘運動の軌跡」には

「歴史の教訓は、反体制運動が政治基盤を脅かし始めたとき、無能な政府が選ぶ唯一の手段は、
警察や軍隊による無差別な大弾圧であり、
そのことが国家国民の前途をさらに危うくすることを訓える。」
という文章とともに、
機動隊の暴力によって徹底的に殲滅され、また悲惨な内ゲバによって支持を喪い、崩壊してゆく反体制運動の一部始終が写し出されていました。
そしてグループ闘う女というタイトルのパネルには
セックスも出産も堕胎も男のものではない、と女性の主体性を訴え行動する若者たちの姿がありました。



どれもみんな、わたしの知らない時代の出来事で
どれもみんな、この国や政治が教えない、知らせたくない、なかったことにしたい歴史であり、人びとの生きた軌跡でした。


重く、苦しい写真ですが
なかったことにはしたくない。


これらはみんな、この国がたどってきた道であり、いまに未来に続いているのですから。





仕事の休憩中にきたので、じっくり見られなかったのですが、また足を運ぼうと思います。



大阪近郊の方、ぜひいらしてくださいね。入場料大人250円、高校生大学生150円、
中学生以下、65歳以上、障がいを持つ人(介護者も含む)は無料です。



9月9日までやっています。
24日金曜、27日月曜、9月3日月曜は休館です。


大阪人権博物館のHPです。






平さんの天空の棚田

2012-08-19 | Weblog
おとといも昨日も贅沢に映画など出かけてしまい
財布の中身はからっぽ


きょうはおとなーしく家で寝てるべえ、と10時ごろまで布団で子どもとごろごろしていたら
メール便が郵便受けにとどきました。




那須さんからでした。
こんな素敵な偶然は、何度あってもうれしいけれど
そうそう起こることではありません。


開けたら、祝島の風景がいっぺんによみがえりました。

「写真絵本・祝島のゆるがぬ暮らし第1集 平さんの天空の棚田  那須圭子 写真・文」



那須さんの出版された、祝島の平さんというおじいさんを撮った写真絵本でした。
那須さんに棚田を案内していただいたのは2010年の12月。



あのとき
ふうふうと息をはずませながら訪れた棚田。

まだ少年だった平さんが、おじいさんと牛とで積み上げた石の棚田は
これまでにみたこともない風景でした。

啞然、というか一瞬なにも考えられなくなるような
圧倒的な風景だったのを、今でも鮮やかに思い出せます。



写真絵本のページを繰るたびに、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。
そうそう、この道を登ってきたんだよ。
この写真、見せてもらったなあ。


宝物のような旅の思い出を
また味わうことができました。



文章も那須さんの手によるもので
すべてルビつき。子どもたちや、漢字が読めない人にも読んでほしいとの思いからだそうです。
平さんによりそって、島の空気を吸い込んできた那須さんの優しい心遣いが伝わってくる、あたたかい文章です。


どうしてこんな高いところに、というような
遠く眼下に海を見下ろす棚田は、今は平さん一人が管理しています。
田起こしも、代掻きも、田植えも稲刈りもはざ掛けも、80歳の身には厳しいものでしょう。

大正時代から石を積みあげた平さんのおじいさん、亀次郎さんは
「なにごとも、三代続けばそれでええ」とよく語っていたそうです。
平さんは
「私がその三代目。
私が死んだら、この棚田もあとは原野に還るだけよ」
と言うそうです。




なんとかして残せないか、と考えるわたしに那須さんの文章は

「なんとかして保存しましょう、などと野暮なことを言うのはよそう。
どれだけの年月が経とうと、草の下には揺るぎない石垣があるのだから」
と、こたえました。




平さんのお父さんが40歳の若さで亡くなり
亀次郎さんは一時石を積むのをやめてしまったこと。

平さんは都会への憧れもあったけれど島に残ることを決め
中学を卒業してからは亀次郎さんと、平さんのお母さんと3人で石を積み続けたこと。

お母さんが20リットルもの下肥を背負って片道1時間以上もの山道を登ったこと。

字の読めない亀次郎さんのために、孫の平さんがカンテラの灯りで「宮本武蔵」や「太閤記」を読むのが日課で
それを亀次郎さんはとても楽しみにしていたこと。

平さんの娘さんは重い障がいを持って生まれ、早くに亡くなったこと。

奥さんは長患いの末、平さんの顔もわからなくなり、本土で亡くなったこと。





優しく、穏やかな平さんの表情や島の風景からはうかがうことのできない
家族の歴史もこの棚田の石垣に積まれているのですね。

小さな家族の物語かもしれません。
どこにでもあるような営みかもしれません。

でも、こんなふうに島に生き、島の恵みをいただいて生きる人々の人生と
突如降ってわいた原発建設計画への30年にも及ぶ反対を重ね合わせてみれば

どんなにこの島の人たちが、自分たちの生き方に誇りをもっているか
いまの命、そしてあとにつづく命を大切にあつかっているかを感じ、胸があつくなります。



興味をもたれた方、ぜひ注文なさってお手にとってくださいね。


みずのわ出版HP



以前わたしがかいた記事「平さんの棚田」



























ニッポンの嘘みてきました。

2012-08-18 | Weblog
本日
大阪梅田での公開日でしたので
初回上映に母子で行ってきました。


混んでる混んでる。ほぼ満員。

でもやっぱり、若い人の姿はすくないかな・・・・
例によって、慣れっこですが、わが子たちが最年少。
それはわたしが連れまわしているからです。

小学生中学生はいなくて当たり前だけど
もっと学生さんとか、20代から30代の人にも観てほしいなあ。



映画のなかの菊次郎さんは
やっぱり実際お会いしたときとおんなじで
するどく、この国がずっとうそをつき続けて
過ちに過ちを塗り重ね続けてきていることを告発しているのでした。





それでも、どん底の絶望感や怒りを抱えた悲壮な男、というのではなく
なぜか、どこかしらチャーミングで、女性に愛されるのです。


映画を観た母も
女友達も「とってもすてきな人!」と口をそろえます。
なんでだろう!?


「菊次郎さんってさ・・・」と話しはじめた娘も映画の感想を言うかと耳を澄ましたら
「若いときもすっごいかっこいい!」だって・・・。



映画にでてくる、菊次郎さんのまわりの女性たちも
それは魅力的でした。



とっても、いい女たちでした。


弟子の那須さんも
娘さんの紀子さんも
一緒に離島にくらし、菊次郎さんより早く亡くなった紗英さんも。


菊次郎さんの愛も、厳しさも
体いっぱい受け止めてきたひとたちなのでしょうね。


プログラムに書かれた
那須さんの言葉がほかのコメントよりも一番印象に残ったので
最後のほうだけ引用します。



「・・・・
福島さんは自分の格好悪い所、弱い所、ズルい所を隠さない。
出来ないことを出来るように見せかけたりしない。
それは子どもたちに対しても、愛した女性たちに対しても同じだった。
それが父親としての、男としての福島さんを私が信じている所以である。


進むべき道を見失いかけた時、母として、女性として迷いが生じた時、
死んでしまいたいと思う時、私は福島さんを訪ねた。
改まって相談などしなくても、福島さんと話して帰る頃には、迷いは消え力が湧いている。
もしいつか、訪ねていくべきその人が居なくなったとしても、
福島さんの撮ったたくさんの写真が、私に進むべき道を示してくれるだろう。」




小田原の市民政治グループ@あしがら 映画感想by加門さん




わたしの以前かいた記事「那須圭子さん」



























映画と酒饅頭

2012-08-17 | Weblog
きょう「は」
って
きょう「も」わたしは一人でお出かけ。


阪急十三駅まで映画観に。
じゅうさん、て読まないのよ。じゅうそう、なのよ。大阪市淀川区です。


第七芸術劇場まで
「死刑弁護人」観に。


なんでダイナナ芸術かというと
こういうことだそうです。


ところで、みなさまは「第七藝術」という言葉をご存知ですか?
名づけ親はイタリアのR・カニュード(1879~1923)。映画はその最初期、大衆娯楽でしかなく、「芸術」としては認められていなかったのです。そこで彼は、音楽・舞踏・文学という「時間の芸術」と、建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」をつなぐ「第7番目の芸術」として、“映画”を定義づけたのです。
つまり、「第七藝術」は「映画」のことなのです。この言葉を冠したナナゲイでは、これからも良質の作品を上映できるよう、またお客さまに上映作品を心から楽しんでもらえるような温かいサービスを提供できるよう、スタッフは一丸となって前進します!
ぜひナナゲイへお越し下さい。みなさまのご来場を心よりお待ちしております。


HPより。
すてきな映画館ですね。
扱っている映画もとても魅力的でした。



予告編でみた
「隣(とな)る人」児童養護施設を撮った作品・日本
「これは映画ではない」反体制的なプロパガンダ活動を行ったとして20年間の映画製作禁止を言い渡された監督の作品・イラン

これらもとっても興味ある!
また出かけてこようとおもいました。




本編、「死刑弁護人」は
弁護士、安田好弘さんを追ったドキュメンタリーでした。
和歌山カレー事件の林死刑囚
オウム事件の麻原死刑囚
光市母子殺害事件の死刑囚などの弁護を担当しています。

安田さんの語る
「人は必ず更正する。変われると信じている」
という言葉。

自身が非難にさらされ、逮捕までされても
どこまでも人間を信じる姿勢に感銘を受けました。





映画おわって、十三駅ちかくの商店街をぶらぶら。
有名なのかな。老舗らしいお店で酒饅頭を買いました。

子どもたちを川遊びにつれてってくれたA子におみやげ・・・・。






帰宅途中A子よりメール
夕飯もNさん宅でお世話になって帰りますと


Nさんいつもありがとう。Nさんには酒饅頭買ってません。




一人の晩餐か。
なに食べよう。
どこかで食べてく?


梅田あたりでまたぶらぶら。
カウンターでビール飲ませるお店なんぞ
おしゃれですてき。


でも、こういうところは、いつか友達が来たときに一緒にいこうときめて
再び電車にのりこみ
頭のなかで冷蔵庫の中身を召集してみる。でてこーい。



鶏肉よし。
トマト数個。
バジルいいね。
ナス多し。ピーマン少し。


おっけい。はやく帰ってつくりたい。


玄関開けて
まずビールを冷蔵庫に突っ込んで




鶏モモを切って塩コショウ wait a minute.


ニンニクと唐辛子をオリーブオイルで炒めてから
鶏肉投入


焦げ目つけたらナスとピーマンも入れて蒸し焼き
飲みかけのビールいれちゃえ(すぐ開けて飲んだ)


トマトのざく切りを入れて
塩、コショウ

あっこの赤ワインもちょっといれちゃえ。


酢と醤油もいれて
再び蒸し焼き。

ふた開けてバジルふりかけて
いい具合に水分とばして、はい、うろ子のいい加減お料理出来上がり。



おほほ、ワインとパンと、いい晩餐。
ひとり酒場と名づけよう!と機嫌よく楽しんでいたら
車のやってくる音。


わらわらとこどもたちご帰還。
「足りなかった!足りなかった!おっ!おいしそう!」と
約1分でいい加減お料理消えました。





うーん、まだまだ、というこどもたちに
ニンニクとナスのパスタをつくりました。



ま、いいんですよ。









































釜ヶ崎の夏祭り・下

2012-08-16 | Weblog
三日間、祭壇にはこの1年間で亡くなった人の名前や写真が飾られていました。
家族や身寄りもなく、ひっそりと生涯を終えた人たちです。
この中には数日前の火災で亡くなり、いまだ西成警察署で検案を受けている人も含まれているということでした。



15日の夕方、慰霊祭が営まれました。
釜で亡くなった、218名の人びと。

でも実際は、把握できていない人
要するに、名前も、存在も、だれにも知られずに
まるで消えるように亡くなっていった人をあわせると3倍にものぼるだろうということでした。


彼らの死をいたみ、
同時に戦争や死刑で亡くなった人々
昨年の3.11の震災で命を落とした人々にも
皆で手を合わせました。

まず、神父さんがミサの一説を
そして浄土宗のお坊さんがお経を唱えます。




お経のあいだ、神父さんは名簿を読み上げます。
でもそれだって、ほんとうの名前かは
だれにもわからないのでした。

おっちゃんは
手を合わせたり、うなだれたりしていました。



お坊さんによると
大阪全体では、引き取り手のない亡くなった方が1年間で1700人おり
阿倍野墓地におさめられているということでした。
また、刑務所で亡くなった人々もそこに眠っているそうです。

慰霊祭の終わりには、みんなで「ふるさと」をうたいました。







この日は最後なので
わたしは盆踊りも見て帰ろうと思いました。


3日間連日やっていたのですが
20時から22時って、2時間もやるのかなー
きっとダラっと音楽ながして終わるんじゃなかろうか、と予想していたのですが。




予想は見事に裏切られ
みんな真剣に踊ってて、びっくりしました。


炭坑節
東京音頭
ドンパン節
河内音頭。

人の数はどんどん増えて
輪は太いものになって。
2時間以上でも踊っていそうな勢いでした。






みんなみんな、基本一人。

家族もきょうだいも一緒には住んでいない。

そんな人たちが寄り集まって
年に一度のこの踊りを踊るのです。


突き詰めればこの世界にいきる人間
すべて一人でうまれ
一人で死んでいくのだけど


釜では、この「一人」という単位が浮かび上がるのと同時に
だから人は人とつながっていたいし
つながれるんだという思いも
強く強く浮かび上がってきます。



こんな盆踊りをみたのは初めてでした。

おっちゃんたちの踊っているのをみて
なんか泣けました。


一人一人のおっちゃんたちが
集まって同じ踊りを本当に真剣に
楽しそうに踊っていました。





初めてみた河内音頭の踊りは
小走りに細かいステップなど踏んだり
横に跳んでみたり
サンバのような複雑さでこれにもわたしはびっくり。


聞けば、同じ唄でも三種類の踊り方があったり
内側の輪と外側の輪と逆向きに回ったりするそうです。


「なんですかこの踊り!」と西成育ちの女性に質問したら
手をたたいて笑われました・・・・。
彼女は炭坑節などは、動きが緩やかすぎて面白くなく、踊らないそうです。

わたしからすれば、盆踊りらしい踊りだと思っていたのに・・・・。


輪になって一周、見物しているわたしのもとに来るたびに
「踊らへんの??」ときいてくるおっちゃんたちでしたが
今年はじっくり、踊っている人たちを目に焼き付けました。






エネルギーの塊が
この3日間
お祭りの中心でもえていました。


エネルギーは何でできているのか。

意地か、誇りか
自分たちを切り捨てた社会への恨みか
怒りか
ふるさとへの望郷か
誰にも踏まれたくない思い出か
人に愛されたい 愛されたかったという渇望か



どれも当たっているような気もするけれど


やっぱり
人は人のそばにいたいという気持ちがもえていたのかな。

やっぱり
愛ですよね。



来年は、誰かを案内したいな。
言ってください。
一緒にいこう。