10倍楽しむ為の旅no心得

海外・国内問わず、旅は楽しいもの。
人の知らないちょっとしたアイデアや豆知識で
より快適な旅を。

日本の100名城!~中国地方3~

2012年05月28日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、中国地方(69番~70番)

 

 

69番 鬼ノ山城

 

 鬼ノ山城

 

鬼ノ山城は、すり鉢形の標高397mの鬼城山に遺る神籠石式山城で、

山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8㎞に渡って取り巻いています。

城壁によって囲まれた面積は約30ヘクタールに及び、

城壁の要所に、門。城外への排水機能を持つ水門を配備していました。

門は東西南北4ヶ所、水門は6ヶ所に確認されています。

城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、

烽火場の可能性が指摘される焚き火跡、水汲み場、鍛冶場、

工事のための土取り跡などが確認されています。

 

【温羅伝説】

 

温羅伝説とは、吉備地方に残る、

桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説です。

 

古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という

鬼が住んでいて、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていました。

吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、

これを救うべく崇神天皇は孝霊天皇の子で

四道将軍の一人・吉備津彦命を派遣しました。

命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えました。

温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれました。

そこで命は2本同時に射て温羅の左目を射抜きました。

温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追いました。

更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので

吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえたのです。

 

それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、

鯉喰神社などが存在しています。

 

温羅は製鉄技術をもたらして吉備を治めた

技術者であり豪族ではないかと推察されます。

また、血吸川の川の赤さは鉄分によるものと思われます。

吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く吉備」と呼ばれていました。

実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡が存在しています。

 

[所在地]

岡山県総社市奥坂

[交通アクセス]

鉄道:JR吉備線「服部」駅から約5㎞、

   JR伯備線「総社」駅からタクシーで約20分。

歩き:備中松山駅から歩く場合は約60分。

   麓の石火矢町ふるさと村から歩く場合は約40分。

車 :岡山自動車道賀陽ICより車で約20分、下車後徒歩約20分。

 

 

70番 岡山城

 

 岡山城

 

岡山城は、戦国時代に備前西部から美作、

備中に勢力を伸ばした宇喜田氏が本拠とした城で、

近世城郭の基礎が生まれ、

その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われました。

 

岡山城は標高が十数mの丘が連なる小高い土地に建設されました。

 

当時、旭川河口部は複数の派川に分岐していて、

その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」、

その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」の3つの丘が連なり、

各時代ごとに要害として使用されたと思われます。

その中の石山にあった石山城に宇喜多直家が入城・改築し、

後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、

石山城を取り込む形で城郭が建造されました。

これが岡山城です。

 

城の縄張は基本的には梯郭式となっていて、

三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっています。

言い換えると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張です。

そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされます。

さらには郭の代わりとして、「後楽」が築かれたともいわれます。

天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が

歪んだ多角形をしているため同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ

安土城天守を模したものではないかと言われていますが、

羽柴秀吉による大阪城天守を模しているという説もあります。

その外観は黒漆喰の下見板が特徴的で、

この印象から「烏城」とも「金烏城」とも呼ばれ、

隣県の「白鷺城」とも呼ばれる姫路城と対比されることもあります。

元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、

南北3.5㎞、東西1.3㎞におよぶ城下町の姿が伺えます。

 

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊されました。

堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められましたが、

街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多くあります。

さらに第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失しました。

現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、

戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建されました。

現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、

「岡山城跡」として史跡にも指定されています。

その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存しています。

城跡は「烏城公園」として整備される一方、

二之丸跡に山陽放送、林原美術館、岡山市民会館が、

三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関があります。

近年本丸御殿の再建が検討されましたが、その目処は今のところ立っていません。

 

[所在地]

岡山県岡山市北区

[交通アクセス]

鉄道:岡山電鉄東山本線「城下電停」下車すぐ。

 

外に出かけると汗ばむ日が多くなってきました。

外に出かける時は熱中症に気をつけて十分な水分補給と

紫外線から身を守る対策を心がけましょう。


日本の100名城!~中国地方2~

2012年05月14日 | 国内旅行

日本100名城とは、財団法人日本城郭教会が2007年(平成19年)に迎える

設立40周年の記念事業の一環として、

2005年(平成17年)に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募したもので、

歴史や建築の専門家などにより、

観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、

復元の正確性などを基準に審査の上選定、

2006年(平成18年)2月13日に発表したものです。

 

ちなみに、認定は4月6日「城の日」に行われました。

 

今回も、中国地方(66番~68番)

 

 

66番 津和野城

 

 津和野城

 

津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの山上にある山城です。

江戸時代には津和野藩亀井氏の居城でしたが、

藩庁は急峻な山城を避け山麓の津和野盆地に置かれました。

 

【見どころ】

津和野城は、津和野盆地を見下ろす城山山頂部に築かれています。

嘉楽園脇のグランド奥から本来の登山道がありますが、

城山まで観光リフトが運行しています。

 

城山のリフトの終点駅から出丸を経て大手口へと至ります。

出丸は坂崎氏によって築かれた曲輪で、

尾根沿いに北からの敵の侵入に備えたもので、吉見氏時代の堀切も残っています。

 

近世山城の津和野城、中世城郭の縄張りを近世城郭へ修築したため、

城の規模はさほど広くありませんが、

最高所の三十間台を中心に放射線状に曲輪が配置された縄張りとなっています。

また、津和野城天守は二の丸に築かれた天守台が残っています。

 

津和野城の石垣郡の中でも、特に、本丸人質櫓の高石垣は見事です。

三の丸から見上げるとその見事さにしばしば見入ってしまいます。

 

現在、麓の津和野高校となっている場所が

寛永3年に平時の居館があったところです。

現在遺構として、馬場先櫓、物見多聞櫓が現存しています。

また、城門が浜田県庁の門として使われた浜田城内に現存しています。

 

【歴史】

津和野城は、永仁3年に吉見頼行によって築かれました。

頼行は、弘安5年に鎌倉幕府より西石見の海岸防備を命じられ

能登より石見に移り、津和野城を築城してこの地に土着しました。

 

9代正頼は、天文20年、陶晴賢が大内義隆に謀反を起こして義隆を自刃させると

大内義隆の姉を娶っていた関係もあり、

大内義長・陶晴賢にいち早く叛旗を翻しました。

天文23年ぶは二本松城を中心に攻防戦が繰り返されました。

 

大内・陶氏滅亡後吉見正頼は毛利元就に従い、

慶長5年の関ヶ原の合戦後毛利氏が防長2国へ減封になると、

11代吉見広長は長門萩に移りました。

 

慶長5年、坂崎直盛が関ヶ原の戦功により備前富山城から4万石で入封しました。

坂崎氏は、僅か16年で改易となりますが、

津和野城は坂崎氏によって大改修されて近世山城へと変貌を遂げました。

 

元和3年、坂崎直盛改易後、亀井正矩が因幡鹿野より4万3千石で入封しました。

亀井氏は、その後11代続いて明治に至りました。

明治4年、廃藩置県により津和野城は廃城となり、

翌年山上の城は解体されました。

 

[所在地]

島根県鹿足郡津和野町後田

[交通アクセス]

鉄道:JR山口線「津和野」駅からバスで「津和野高校前」下車。

車 :中国道山口ICから国道262号、国道9号、県道13号で。

   津和野観光リフト前、嘉楽園の無料駐車場を利用。

 

 

67番 津山城

 

 津山城

 

津山城の城郭の形式は梯郭式平山城です。

津山盆地の中央部に位置します。

城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を

防御線に取り入れています。

城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川を外郭とし、

その内側に城下町の主要部を形成しています。

 

天守は破風を持たない4重5階の独立型層塔式で、

小倉城の天守を模して造られたとも言われています。

築城当初、天守は5重でしたが巨大さゆえに幕府に目をつけられたため、

忠政は4重目を破棄し「あれは庇であって4重である」と言い切り

難を逃れたそうです。

往時は広島城の76棟、姫路城の61棟に次ぐ櫓の多さでしたが、

明治6年の廃城令により天守・櫓など他の建物も破却され、

天守台・石垣のみとなっています。

 

現在は鶴山公園として桜の名所となっています。

別名を鶴山城ともいい、国の史跡に指定されています。

 

[所在地]

岡山県津山市山下

[交通アクセス]

鉄道:JR西日本「津山」駅から徒歩約15分。

車 :中国道津山ICまたは院庄ICから約15分。

 

 

68番 備中松山城

 

 備中松山城

 

備中松山城は、四国の愛媛県松山市にあった松山城との混同を避けるために、

一般的には「備中松山城」と呼ばれます。

日本国内の現存する天守がある12ヶ所の城のうちの一つです。

別名を高梁城といい、国の史跡に指定されています。

 

城のあった臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が

階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構が残っています。

海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1500m、

1時間ほどの道のりの山道を経て至ります。

 

江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、

そこで藩主の起居・藩の政務を行っていました。

 

現在は城跡が国の史跡に指定され、現存する天守、二重櫓、

土塀の一部が国の重要文化財に指定されています。

また、現存する石垣、復元された櫓、門、土塀があります。

現存天守のある12ヶ所の中の唯一の山城です。

 

[所在地]

岡山県高梁市内山下

[交通アクセス]

鉄道:JR西日本「備中高梁」駅から備北バスで10分、

   松山城登山口下車徒歩約20分。

歩き:備中松山駅から歩く場合は約60分。

   麓の石火矢町ふるさと村から歩く場合は約40分。

車 :岡山自動車道賀陽ICより車で約20分、下車後徒歩約20分。

 

例年より紅葉の季節が遅れていましたが、やっと見ごろになりました。

同時に高い山では雪が頂を覆っています。

場所によっては三段紅葉が楽しめる時期でもあります。

紅葉を愛でながら全国に散在する名城旧跡を訪ねてみるのも一興かと思います。