1995年の4月に東京に出て来て、17年と ちょっと。

東京にきた理由を少し振り返ってみます。

 

大学卒業を間近に控え、大阪の宝飾関係の専門学校に通う事も決まっていましたが、
その年の1月17日、忘れもしない阪神淡路大震災が発生しました。

実家のある兵庫区は、とにかく倒壊と火事がものすごく、隣町の長田は焼け野原。

実家の寺も全壊し、向かいの寺の本堂も屋根だけになっており、周りのマンションも1、2階がつぶれて低くなっている。
何が起こったのか、情報がないのでまったくわからず、東京はものすごいことになっているのかも・・・と思っていました。

結局 寝間着のまま道路に集まってきた人たちの車のラジオで、第一報(最初は関西で地震、大阪で負傷者がいる模様、という報道だったような気がします。)を聞きました。

もうすでに長田の空は火事で真っ黒、下のほうは真っ赤。
倒壊したがれきの中にはまだ人がいるのにガス臭さが充満しており、電気のスイッチはいれるな!ライターつけるな!火が出たら終わりやぞ!の罵声が飛んでいる状況。

生まれて初めて、わけのわからない大変なことが起こって、人々がパニックになっている状況を目の当たりにしました。

自分が1月16日に何をしていたか、どうやっても思い出せず、自分の周りで起こる容赦ない不幸を見て、ただただ「なんでこんな事が起こるんだろう」というやりきれない疑問と不安ばかり。

解決なんかしないのにずっと考え続け泣き続けた日々でした。

テレビでよくやっている、「お涙ちょうだいエピソード」だけではなく、現場にいると人間のどうしようもない情けなさ、汚さ、愚かさも知り、憤慨した事もあります。

実家に避難してきた被災者の方々や、ボランティアの方々との交流で、良くも悪くも「人間は弱く悲しく、そして強い。全部ひっくるめてすばらしい。」事も知りました。

苦労という苦労もせず、自分の未来に深刻な不安や疑問も持つ事もなく、のほほんと育ってきた私。

色々考えたというか、いや、当然のように出てきた欲求が「やりたいことを一生懸命やって生きる」事でした。

やりたい事を思い存分がんばってやって、努力し、すこしでも悔いのないように生きる。
それが、希望の光でした。

今でもそう思っています。
どんな時でも、それが私の希望の光です。

まあ、それから色々経験し、ただ前向きなだけでは私は生きていけない事も実感しているし、悔いなんてどんな生き方をしてもあるのでは?とも思っています。

もともと、何かを作ったり、絵をかいたりすると、いろんな人が褒めてくれたので、自然とやりたいことは決まっていました。
大学も美大に行こうと思っていたものの、エスカレーターに乗っているのも楽だったので、卒業してからどこかに通って習えたら、と。

実家から通学できる、大阪のジュエリーの学校に行こうと思っていましたが、そちらはどちらかというと、ジュエリービジネスのための基本をすべてささっと勉強する、みたいな広く浅くという感じでした。

本当は彫金の設備が整っていて、授業も豊富でおもしろく、そして厳しい、学校として定評のあった東京の専門学校に行きたかったんです。

じっくり「作ること」を学びたかったのですが、なんせ一人暮らしなんてそんな慣れないことをするつもりもなく、しかたなくとりあえず大阪でいいか、という感じでした。

しかし震災が起こり、大阪までの交通手段もなくなってしまい(車も物資優先の交通規制で使えなかったんです。)大阪で一人で暮らすしかないという状況に。

大阪で一人暮らしするなら、東京で一人暮らしするのも一緒じゃない?と。

そして、震災により感じたことも私の背中をおしました。

一生懸命学びたい!せっかく生きているのだから、やりたい事をやって悔いのない人生を送りたい!。

 

連日親を熱く説得し、思い切って上京したのが、被災地を 桜の花びらが舞っていた 1995年の4月。

ながいながい 17年とちょっとの東京生活の始まりでした。 


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コメント ( 4 ) | Trackback ( )



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コメント
 
 
 
思い出すね。 (りこりこ786)
2012-01-12 11:20:48
今の自分があるのは、あの震災を頑張って乗り越えてきたから…と思います。いい意味で強くなれた!17年の経験を抱きしめて神戸に帰って来て下さいね。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2012-01-12 18:31:11
雲井!!じゅっちです。facebookではちょいちょいチェックしてるよぉ。ほんま手先器用やし、美的センスがあるんやな。

ブログ初めてみたけど、私も色々思うことあって、投稿したなりよ!

確かに、私も東京でてきたのが大学卒業後。雲井と同じ17年前!当時氷河期で総合職しか就職なくって、東京希望してなかったのに、、、配属が東京になってね。大阪の夜景と共に涙したのは鮮明に覚えてるよ。

1995年4月大手町配属、虎ノ門営業で、、その年、サリン事件があったりで、その地下鉄乗ってる地下鉄やんって、人生多難やって思って社会人スタートしたの覚えてるわ。

神戸の震災でも私もえらい経験したし、実家大阪やったけど、西宮の隣の豊中には活断層がはいっててね、私自身も和タンスの下敷きになったよ。神戸にある大学の友人めっちゃ心配やったし、テレビの名前がでてくるテロップ心臓の鼓動おさえながらテレビくぎつけやったわ。バリの卒業旅行予定もキャンセルし、その友人、西宮の一人暮らししてたので、地震が怖いって、うちに1週間泊まったりね。

あれから、今回の震災、、、横浜の家にいたけどね。揺れは関西とはぜんぜん比べもんにならんかったんやけど、ピアノを習っていた息子を迎えに、行ったところ、ピアノの先生でもある、大切なママ友を目の前で、心臓マッサージも意味なく、その日の夜に亡くなってね。今だに心痛むんです。。。私もあんなにパニクッた日は初めてで、救急車の電話もなかなかつながらず、知らないおばちゃん、おじちゃんも大声かけてよってきてもらって、いろんな人が助けたい気持ちでいっぱいやったのにね。他にできることなかったんやろうか。。。

だから雲井も神戸の震災で感じたように、私も雲井と同じこと思ったっていうことで、メールをしたくなったよ。
「今を一生懸命生きる、後悔のない人生を!」って

私はやはりラクロスに関わった人生が大きかったし、得たものも、感動もたくさんいい思いさせてもらったので、いつか恩返ししないとなって思ってて、去年関学に17年ぶりにコーチングにグランドに戻って、関西2回みっちりコーチングしに帰って、東京でも試合見にいったり、戦術、メンタル面と後輩にアドバイスしてね。

子供の授業参観にいかず、試合見にいったり、夜中レポート書いたりで、家庭崩壊するぐらい久々にラクロスに燃えました・・
結果がね。なんと!17年ぶりに学生日本一って!!すごい結果がでたのが、去年は最高に嬉しかったよ!!
やっと恩返しができたって肩の荷がおりたような。。

友人の死が何かを後押ししてくれてます。
その友人は、ミュージカルに出演してたり、毎日歌っていて、遠いところ遅くまで練習にいったり。旅行好きで、とてもアクティブな人で、子供も私と同じ小3の男の子、5歳の女の子の母で、やりたいこともこれからたくさんあったやろうになってほんま残念でならんのです。

今私は、3ヶ月未満の「赤ちゃん訪問員」のバイトをちょろっとして、布のカバン作ったり(幼稚園のバザーで出店したり・・)樹脂粘土でミニチュア作ったり、友人とランチいったりする生活だけどね。
あ”っ月1でなんちゃってアラフォーラクロスして、中高生にクリニックしたり。

今年は40歳!!いろいろ考えさせれるね。

とにもかくにも、身体にはくれぐれもご自愛くだされ。

また雲井らしく!!元気でがんばってぇ(^3^)/
 
 
 
りこりこさんへ (kumo)
2012-01-14 03:52:28
思い出すね~。
私、震災後はじめて総代さんのお家にお風呂入りに行ったとき、湯船に浮いた色々な汚れが忘れられへん!
生きてるな~って思った!
あと、その後そこですき焼きごちそうになって、めっちゃ喜んだ後3人で無言で泣きながら食べたよね。
あれがね、すごい忘れられへん。
 
 
 
じゅっち (kumo)
2012-01-14 03:53:12
長いコメントありがとう!!

PCのほうにメールするね!
 
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