音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

WAR~闘~ (U2/1983年)

2011-09-20 | ロック (ヨーロッパ・その他)



1983年という年は67年や77年のような「ポピュラー音楽の大きな分岐点」ではなかったものの、重要な作品発表の多い年だったと言える。それはこの前年1982年に、あのマイケルの「スリラー」が発表され、それまでの音楽の記録を軒並み塗り替えてしまったことはポップ音楽の大事件でもあった。個人的にはマイケルのこの作品は前作の「オフ・ザ・ウォール」と比較してそれ以上のものをなにも感じなかったのでそれきりであったが、市場は全く違う反応だった。だが、これはその後のミュージシャンたちにも大きな考え方の変化を生んだ。要はこれはそれまでの、ビートルズの「アビーロード」や、フロイド「狂気」の大ヒットとは全く違う反応、そう「こんなんでいいのか・・・」であったことは相違ない。そんな、1983年は、まさに大きな新しいスタートとなったが、ミュージシャンの作品も然り、同時にヒット・チャートでは、「こんなの」のレベルでもヒットするようになったのは事実であり、それまでの様に「ヒットする理由」がなくなってきたのも事実である。

このU2がアメリカでヒットすることなど、私には全く理解が出来なかったが、最早、チャートはそんな困惑をよそになんでも受け入れた。音楽評論家の質も落ち、いや、世間も然程、評論を必要とせず、みな自らが評論家被りを装う時代となった、最悪の音楽環境であった。欧米、それに日本も異常な急成長へのステップを迎えるが、それは本当の成長ではなく、マネーゲームを伴った虚構の成長であることを一部の人間を除いては分からなかったが、しかし、音楽もその状況に呼応していたのだから、経済で見逃しても、なぜ、私はこの音楽界の異常に気づきながら、翻って世の中の異常に気づかなかったかと思うと情けない。ただ、逆の言い方をすれば、ロック音楽の過去の歴史を辿らなくても、ここからロックをスタートすることを可能にしたのが、このU2であり、このアルバムであることも事実である。それは前作「アイリッシュ・オクトーバー」が秀作で、彼らの多感な情感を惜しみなく披露したことをベースとし、1曲めの"Sunday Bloody Sunday"では、彼らの母国である北アイルランドで起こった1972年の紛争「血の日曜日事件」の悲劇を取り扱った。更に、ポーランドの「連帯」をイメージした"New Year's Day"、核戦争をテーマにした"Seconds"などのメッセージソングを収めたことにより、ロック音楽の起源ともいうべき、政治・社会問題に積極的に関わるという姿勢を前面に出した。これは前述した、マイケルの成功による「なんでもあり」という方針にU2が立った訳ではなく、彼らは自分たちの背景である北アイルランドからの切実なメッセージだったにもかかわらず、音楽プロモーターが「なんでもあり」いう考えであったために、この作品の発表に関して、以前にポリスクラッシュピストルズが味わった「差し止め」が適用されることなく市場に放り投げられたことこそ、彼には大変ラッキーだったのである。ロック・ファン、取り分けイギリスでは、彼らの強いメッセージを受け入れた。そう、1967年と全く同じように、強い、そして頼もしいメッセージとして受容したのであった。

1983年、こういう作品は多く、R.E.M「マーマー」、ニューオーダー、ユーリズミックス、アズティック・カメラがそうであるが、同時にこの流れに嫌気をさしたのが、ポリスであり、彼らはこの年、あの「シンクロニシティー」という名盤を残して解散した。そして、この作品を超えるために、またまた、ロックのミュージシャンたちは自問自答を繰り返すのであり、再び、静かなる停滞に入るのである。


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