
肺癌の宣告 組合の熱意で固く決意
「アスベスト労災認定」勝ち取る
「組合に入っていて良かった」
■遺族からの手紙■ 2006/08/11
突然の「肺癌宣告」を受けて戸惑い、苦悩する支部組合員さんとご家族。闘病生活を続けるなかで、「アスベスト労災」を申請。認定を勝ち取るまでの様子を、奥様が綴ってくださいました。
平成17年1月頃から体調が悪く、咳が出、微熱が出る日が続くようになりました。最初は風邪かなと思い、市販の薬を飲みながら仕事をしておりました。一向に回復しないので6月、近くの病院で診ていただき、横浜労災病院を紹介され受診したところ7月22日、肺癌の宣告をされました。私達家族は、言いようのないショックを受け、本人は愕然としておりました。しかも病魔は既に進行しており4段階の3、手術による摘出は無理という最悪の状態でした。「まさかうちの主人が・・・」。今まで病気とは無縁だったのに、信じられない気持ちと、これからどうやって生活をしていけばいいのか、不安で眠れぬ日々が続きました。夫は抗ガン剤と放射線の治療を受け、髪は抜け、身体は放射線をあて上半身両面とも焼け、痛々しい姿になりました。
そんな時、浜建労の方から一本の電話をいただきました。それは夫の土木作業という業務内容から、「アスベスト関連の可能性があり得るということ。そしてセカンドオピニオンを受けませんか」ということでした。はっきり言って信じられませんでした。夫がアスベスト? セカンドオピニオンなんて主治医に失礼な話。---否定的な思いしかできませんでした。しかし、組合からの熱い説得に家族で話合い、セカンドオピニオンを受けてみることにしました。そのころの夫は、歩くことにも疲労を感じており、それを察して組合の方が病院まで車で案内してくださりました。先生は今まで何人ものアスベスト患者を診ている名医、しばぞの診療所の海老原先生です。レントゲン、CT等を診て即、八割の確率で労災認定されるでしょうと診断されました。「もしも労災で国から認定されれば、夫の補償、家族の補償」。私達には、思いもよらぬ助けが--。組合の熱意に、夫も私達も認定してもらえるよう、固く決意しました。
その後は、アスベストを受けた可能性のある現場、作業日など、会社の協力もあり、事細かに調べました。そして労災申請の結果は、業務上現場が転々とするため、確かな証拠がなく、白とも黒とも言えないとのことでした。やっぱり国で認定なんてそう簡単なものではありません。もうダメなんだ、とがっかりしました。でも組合の方、先生は諦めませんでした。(最終的手段の解剖まで---。)
11月には、肺にあった癌は腰に転移しました。もう長くはない、とのこと。更にショックを受けました。夫には転移のことは告げず、最後まで悔いのないよう、娘と二人で懸命に看病しました。夫の兄弟も励まし、旅行にも連れて行ってもらい、楽しい日々を送らせてもらいました。
翌年2月17日朝、昏睡状態のまま静かに息をひきとりました。癌と診断され、苦しむ夫の姿を見るのに長く感じ、時々笑う姿に短く感じ、あっという間でした。夫はその夜胸膜皮厚斑が発見され、それを標本にしていただき、組合から再び、労災申請の手配をしていただきました。一緒に悲しんでくださった組合員の方を、「人」として温かさを感じました。葬儀、四十九日とあっという間に過ぎ、夫の居ない生活は悲しみ、不安、いろいろ考えさせられましたが、明るく頑張ってまいりました。新聞、テレビのニュースでも、アスベストに関する報道がされ、多くのアスベスト患者がいることを知り、気長に待つことにしました。
6月28日、監督署から連絡があり、認定されたとの報告がありました。予想以上に早い認定。驚きました。早速、夫の墓前に報告しました。アスベストで命が短くなってしまったことに、悲しみと悔しさが溢れました。
ここまで来られたのも、組合が支えてくれなければ無理だったと思います。特に本部の市川さん、神奈川支部の小川さんをはじめ、支部の方々には、本当に良くしていただきました。私達家族は、心身ともに助けていただき心より御礼申し上げます。組合に入っていて良かった。これからは、夫の分も一生懸命に生きて行こうと思います。
平成18年7月 ○○○○○
「アスベスト労災認定」勝ち取る
「組合に入っていて良かった」
■遺族からの手紙■ 2006/08/11
突然の「肺癌宣告」を受けて戸惑い、苦悩する支部組合員さんとご家族。闘病生活を続けるなかで、「アスベスト労災」を申請。認定を勝ち取るまでの様子を、奥様が綴ってくださいました。
平成17年1月頃から体調が悪く、咳が出、微熱が出る日が続くようになりました。最初は風邪かなと思い、市販の薬を飲みながら仕事をしておりました。一向に回復しないので6月、近くの病院で診ていただき、横浜労災病院を紹介され受診したところ7月22日、肺癌の宣告をされました。私達家族は、言いようのないショックを受け、本人は愕然としておりました。しかも病魔は既に進行しており4段階の3、手術による摘出は無理という最悪の状態でした。「まさかうちの主人が・・・」。今まで病気とは無縁だったのに、信じられない気持ちと、これからどうやって生活をしていけばいいのか、不安で眠れぬ日々が続きました。夫は抗ガン剤と放射線の治療を受け、髪は抜け、身体は放射線をあて上半身両面とも焼け、痛々しい姿になりました。
そんな時、浜建労の方から一本の電話をいただきました。それは夫の土木作業という業務内容から、「アスベスト関連の可能性があり得るということ。そしてセカンドオピニオンを受けませんか」ということでした。はっきり言って信じられませんでした。夫がアスベスト? セカンドオピニオンなんて主治医に失礼な話。---否定的な思いしかできませんでした。しかし、組合からの熱い説得に家族で話合い、セカンドオピニオンを受けてみることにしました。そのころの夫は、歩くことにも疲労を感じており、それを察して組合の方が病院まで車で案内してくださりました。先生は今まで何人ものアスベスト患者を診ている名医、しばぞの診療所の海老原先生です。レントゲン、CT等を診て即、八割の確率で労災認定されるでしょうと診断されました。「もしも労災で国から認定されれば、夫の補償、家族の補償」。私達には、思いもよらぬ助けが--。組合の熱意に、夫も私達も認定してもらえるよう、固く決意しました。
その後は、アスベストを受けた可能性のある現場、作業日など、会社の協力もあり、事細かに調べました。そして労災申請の結果は、業務上現場が転々とするため、確かな証拠がなく、白とも黒とも言えないとのことでした。やっぱり国で認定なんてそう簡単なものではありません。もうダメなんだ、とがっかりしました。でも組合の方、先生は諦めませんでした。(最終的手段の解剖まで---。)
11月には、肺にあった癌は腰に転移しました。もう長くはない、とのこと。更にショックを受けました。夫には転移のことは告げず、最後まで悔いのないよう、娘と二人で懸命に看病しました。夫の兄弟も励まし、旅行にも連れて行ってもらい、楽しい日々を送らせてもらいました。
翌年2月17日朝、昏睡状態のまま静かに息をひきとりました。癌と診断され、苦しむ夫の姿を見るのに長く感じ、時々笑う姿に短く感じ、あっという間でした。夫はその夜胸膜皮厚斑が発見され、それを標本にしていただき、組合から再び、労災申請の手配をしていただきました。一緒に悲しんでくださった組合員の方を、「人」として温かさを感じました。葬儀、四十九日とあっという間に過ぎ、夫の居ない生活は悲しみ、不安、いろいろ考えさせられましたが、明るく頑張ってまいりました。新聞、テレビのニュースでも、アスベストに関する報道がされ、多くのアスベスト患者がいることを知り、気長に待つことにしました。
6月28日、監督署から連絡があり、認定されたとの報告がありました。予想以上に早い認定。驚きました。早速、夫の墓前に報告しました。アスベストで命が短くなってしまったことに、悲しみと悔しさが溢れました。
ここまで来られたのも、組合が支えてくれなければ無理だったと思います。特に本部の市川さん、神奈川支部の小川さんをはじめ、支部の方々には、本当に良くしていただきました。私達家族は、心身ともに助けていただき心より御礼申し上げます。組合に入っていて良かった。これからは、夫の分も一生懸命に生きて行こうと思います。
平成18年7月 ○○○○○