循環型社会って何!

国の廃棄物政策やごみ処理新技術の危うさを考えるブログ-津川敬

SFの未来

2008年12月03日 | 廃棄物政策
◆まさにデジャブ
日刊ゲンダイに面白い記事が載った(注)。いや日刊ゲンダイ自体がメチャクチャ面白い新聞なので面白さの自乗なのである(08年12月2日付)。
 記事は大要、次のようなものだった。
「火葬場はごみの焼却工場と同様に地元にとっては迷惑施設であり、未曾有の金融パニックの中で唯一伸びる産業が葬儀ビジネスといわれている。だが首都圏では火葬場不足で1週間待ちもザラだ。こうした事態を受け、先日オドロキの葬儀場建設計画が明らかとなった。ひとつは海の中に筒型の箱を埋めて建設する『海底型火葬場』。もうひとつは日本財団が計画している『葬祭・火葬船』である」。
 これはまさにデジャブだ。1991年、当時の東京都清掃局(現在は東京二十三区清掃一部事務組合)が年率4%で増え続ける「東京のごみ」に対処するため、①23区全部にひとつないし複数の清掃工場をつくる。それでも足りないので、②東京湾に大きな船を浮かべ、そっくり清掃工場にする(台船方式)、③当時私権の及ばなかった地下(おおむね40メートル以上の大深度地下)に清掃工場を建設するといういわゆる「清掃工場建設計画」を公表した。海底型といい、葬祭・火葬船といい、発想は17年前とまったく同じではないか。

◆大深度地下構想
 地中深くに清掃工場をつくるという構想に思わず絶句し、大深度地下開発研究会(という名前だったと思う)を訪ねて話を聞いた覚えがある。地下は深くなればなるほど却って地震の心配はないそうだが、では排煙はどうするのかと聞いたら、「高いビルの一隅に空間をつくりその内部に煙突を通す」のだという。その無邪気さに頭が真っ白になった。
 大震度地下利用はバブル真っ盛り時代に出てきた構想である。しかし別の専門家にいわせれば(大深度地下は)浅い地下に比べ建設費がベラボウに増加することや、維持管理・施設更新の難しさ、地上部とのアクセス性の低下など、解決すべき課題が多すぎる、とのことであった。さすがの政府も民間がこれを勝手にやったのでは危ないと思ったのだろう。2002年4月1日、国土交通省は「大深度地下の公共的使用に関する特別措置法」(略称大深度地下使用法)を施行し、対象事業をほぼ公共事業に絞った。しかし阪神大震災被害の反省もあり、現在までに決まった対象事業は、神戸市の「大容量送水管整備事業(奥平野工区)工事」ただ1件である。

◆ほっとけない!
 海底深く筒型の箱を埋める、という発想も大深度地下構想と大差はない。台船方式といっしょでこれらの構想は戦前の少年倶楽部に連載された海野十三(注)のSF冒険科学小説そのままである。そして21世紀の今日、技術屋の頭の中はいまだSFの延長線上にあるようだ。 しかし彼らも日本財団も本気である。医者にかからなく(かかれなく)なる後期高齢者医療制度の効果で葬祭ビジネスの繁盛は約束されたも同然だからだ。
 清掃工場・ガス化溶融炉など大量生産、大量消費の決着点だった次世代型ビジネスがすっかり下火になったいま、100年に1度のビジネスチャンスを見逃すはずはない。さまざまに予想されるトラブルや不具合(この言葉は清掃工場現場でおなじみ)には目をつぶり、「海の底で火葬・船の上で葬式」という風景が日常のものになる日も間近いのか。
 みのもんたじゃないけれど、「ほっとけない!」である。

注)日刊ゲンダイ:1975年10月27日創刊。東京・大阪・名古屋の三大都市で発行(中部版は中部経済新聞社が発行)されているほか、札幌では『日刊サッポロ』として発行されていたが2006年6月より『日刊ゲンダイ』となった。日本新聞協会に加盟を拒否されたため、雑誌扱い(日刊誌)となっている。公称発行部数168万2千部。1975年10月の創刊時には25万部を発行。しかし、1975年11月と12月には実売で10万部を割り、1976年1月には1万部から2万部にまで落ち込む。この廃刊の危機を救ったのが、同年2月のロッキード事件の発覚であった。週刊誌的な紙面作りでロッキード事件の情報を毎日送り出す『日刊ゲンダイ』は一般紙や週刊誌との差別化に成功。この人気により、以後も、田中角栄元首相の動向を追う反権力的な政治記事などが定着して、1977年からは30万部を発行。1983年には公称110万部を謳うようになった。この間の1980年に野間惟道は『日刊ゲンダイ』成功の功績により講談社本社の社長に就任した(Wikipedia)。

注)海野十三:(うんの じゅうざ又はうんの じゅうぞう、1897年12月26日~ 1949年5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、科学解説家。日本SFの始祖の一人と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。太平洋戦争中には軍事科学小説を量産し、海軍報道班員として従軍したものの、敗戦に大きな衝撃を受ける。1946年2月に友人小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ、戦後を失意の内に過ごす。1949年5月17日、結核のため死去。多磨霊園に葬られた。本名の佐野 昌一(さの しょういち)名義で電気関係の解説書や虫食い算の入門書を執筆している。丘 丘十郎(おか おかじゅうろう若しくはきゅうじゅうろう)名で科学小説を執筆しており、また終戦直後は、戦争責任を自ら取るという意味で海野十三名義の使用を一時取り止めた。ペンネームの由来として、麻雀が大好きであった彼は「麻雀は運が十」という考えの持ち主であったため、「運が十さ」をもじって海野十三(うんのじゅうさ)としたと伝えられている。しかし、問われるたびに違った答えを話したため、今なお混乱がある。また、なぜ丘 丘十郎(おか おかじゅうろう)名義を使うのかと聞かれたとき、「オカオカしてたもんで…」と答えたと伝えられている。
〈入手可能本〉
赤道南下 - 中公文庫 - ISBN 412204233X
海野十三戦争小説傑作集 - 中公文庫 - ISBN 4122043964
海野十三敗戦日記 - 中公文庫BIBLIO - ISBN 4122045614 (Wikipedia)
         



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