スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

スピリチュアリズムと土着的宗教

2012-08-31 00:18:26 | 高森光季>その他

 トド様からご質問をいただきましたので、それにお答えする形で少し。

 「スピリチュアリズムは民間信仰、土着信仰をどのように考えるのか」という点ですが、
 まあ、ぶっちゃけ言えば、ものすごく重なっていると言えると思います。
 それは、まず基本的に次の共通点があります。

 ①死者霊、動植物霊、自然霊など、多様な霊的存在を認める。
 ②そうした霊的存在との「交渉」(通信、コミュニケーション)が可能であるとすること。
 ③霊的能力者(霊媒/巫覡〈ふげき〉/シャーマン)はその交渉を担うことがあるとすると。

 原始信仰や土着的シャーマニズムと言われるものは、皆、要するに「多様な霊との交渉」を中核にしているものだと思います。広義の「シャーマニズム」「アニミズム」ですね。ホ・オポノポノにしろ、インディアンの信仰にしろ、縄文宗教にしろ、神道(近代神道を除く)にしろ、日本民俗信仰にしろ、中核にあるのは同じでしょう。
 そして、スピリチュアリズムもそれはまったく同じだと思います(西洋のものですから、動植物霊や自然霊との交渉はあまり言及されませんけれども)。

 自己引用で恐縮ですが、「【霊学概論】(38)神道とスピリチュアリズム」から。

 《神道は、シャーマニズム・アニミズム型の原始信仰がそうであるように、あらゆるものの中に霊的存在やその働きを見る。祖霊(家族・氏族の死者霊)、夭折者や非業の死者の霊、自然霊(山の神や竜神など)、土地の霊、動植物の霊など、様々な霊的存在を認める。そして、特殊能力者(シャーマン、霊媒)を通したり、特殊な祭祀を行なうことで、それらの霊的存在と交渉する。こういったあり方は、スピリチュアリズムときわめて近いものである。スピリチュアリズムも、死者霊のみならず、自然霊や動植物の霊を認め、それらとの交渉可能性を認めるからである。スピリチュアリズムから見れば、神道を始めとする「シャーマニズム・アニミズム型原始信仰」は、素朴で荒削りであるにしても、正しい霊的営為と言える。また一部の神道は「人間は神の分霊」と捉えており、これはスピリチュアリズムと共通する。》


 だから、スピリチュアリズムを受け止めた一部の宗教家・宗教学者は、「こりゃ古代信仰の甦りではないか」という意見を持ったくらいです。

 でも、「霊的事実」というものはそういうものなんだから、しょうがないでしょう、と(笑い)。

 (もちろんスピリチュアリズムと古代信仰・土着信仰はかなり違うところもあります。たとえば、儀式を重要視しないとか、個人の霊的成長や人類の進化を重視するとか、その他もろもろ。)

      *      *      *

 文明が複雑になって、宗教が社会の中で思想・哲学・制度として構築されていくと、そこに余計なもの(笑い)がくっついていく。単純に「多様な霊的存在の世界」が「他界」だったのが、「哲学的・教学的抽象世界」が「他界」を占領していく。
 また、宗教が社会権力になると、「指導者層」というものができてくる。神官とか神学者とかですね。そうなると、「霊との交渉」は抑圧されていきます。というのは、霊にとって、指導者層の権力とか教理教学とかは「そんなもん何じゃい」という感じで、言いたいことを言いますから、組織の収拾が付かなくなるからです。

 大宗教と呼ばれるもの(仏教・キリスト教・イスラームなど)は、壮大な教理教学を築き上げていますけれども、実は、民衆社会と接する部分は、原始的な「シャーマニズム・アニミズム」を温存している。これはどこでもそうです。キリスト教には聖人信仰や聖遺物信仰があります。イスラームにはスーフィーという神秘主義があり、一部は霊的活動をしています。
 仏教には密教があります(こんなことを言うと密教僧には怒られますが)。「顕密体制」と言われるように、日本仏教は、一方で比叡山に代表される「教学」の殿堂がありますが、一般人に対しては「密教的呪術」で(特に死者儀礼や悪霊鎮撫で)信仰を得てきたわけです(乱暴ですが)。さらに中世の神仏習合になると、そういうシャーマニックな部分を「神道と密教のアマルガム」で盛大に盛り上げた。
 ちなみに葬式仏教というのは、この残滓でしょう。あの超哲学的な道元の弟子であるはずの曹洞宗が、密教を援用した葬送儀礼によって全国に教盛を拡げ、浄土真宗と肩を並べるくらいになったわけです。
 (このあたりのことは宗教人類学者・佐々木宏幹氏の『仏と霊の人類学』『ほとけと力』などをご参照ください。)

 ところが、何度も書いてきましたが、日本仏教は明治維新で、徹底的に「脱シャーマニズム・アニミズム」を図ったわけです。神仏分離が行なわれ、仏教は「教理」の宗教に邁進します。奇妙なことに、日本人は西洋の科学主義的唯物論をあっさりと受け入れ(まあちょっとごたごたはありましたが)、日本仏教も「淫祠邪教」のレッテルを貼られることを恐れ、あっさりと「霊的言説」を捨て去った(ちょっと乱暴ですが)。悪し様に言うと、唯物論に負けたのだと思います。

 そうすると困ることが起こります。「死者の御霊」とか「仏菩薩」とか「浄土」とか「地獄」とかは、「事実(実在)」なのかどうか、ということです。近代教学に染まればそまるほど、「無記」とか「心の中に」とか言わざるを得なくなるでしょう。
 でも、そうなると、葬式って何でしょう、ということにさえなる。
 お坊さんは皆悩んでおられるように見受けられます。

      *      *      *

 あ、いや、上記のことは事実(と私が考えているもの)を述べたまでで、人様の信仰を攻撃したり否定したりする意図のものではありません。
 信仰は人それぞれで自由でしょうから。(ちなみにスピリチュアリズムは基本的に霊的事実を伝えようとするもので、「××しなさい」というような命令はしないと思います。「こうした方がいいと思うけどね」という助言はありますけど)

 ついでに私見を言わせていただければ、「土荒神」信仰というのは、実態がわからないと何とも言えませんけれども――同じ名前であっても全然違う信仰が表現されていることがあります。たとえば「荒神」は自然霊を言う場合と未浄化の死者霊を言う場合と祭祀不十分の神を言う場合があります――、たとえば、「ある区域の土地を守る霊的存在」というのは、いると思います。「産土神」とか「土公神」とか「川・山の神」とかいうものです。自然霊の分神なのか、人霊系の高級霊なのか、そのあたりはよくわかりません(混じっているのかも)。西洋のスピリチュアリズムでも、「飛び抜けて美しい風景の地区は、それを守る自然霊がいる」という情報があったと思います。
 (拙ブログの「2ちゃんねるのスピリチュアリズム」にひとつ面白い話があったので、別記事で再録しておきます。自殺したお兄ちゃんが土地の守り神になったという話です。)
 もう少し広い、地方とか国とかを管掌する霊的存在もいないとは言い切れません。こうなると相当な高級霊ということになるでしょうか。一応、天皇という存在は、霊的(宗教的)に見れば、日本国全体を守護する神々(アマテラス、クニトコタチ、アメノミナカヌシなど)に祈願をする(交渉力を持てる)特別職として、崇敬の対象とされているわけですね(つまり神主の頭領)。こういうことは実証できませんけれども、頭から否定するようなものでもないと思います。
 「家神」「屋敷神」というような場合は、自然霊というよりは、祖先霊に近いのではないかと思います。実際「祖先神」を家神としている場合もあるようです。ただ、「稲荷神」などの特殊な霊的存在(霊団)と「契約」を結んで、「奉祭-加護」の関係ができることもあるようです。昔の日本人は、こういう多彩な霊的存在と細やかに関係を持って暮らしていたように思われます。
 仏教でも「護法神」「鎮護神」といった霊的存在を奉祭していたわけですね。叡山の「山王」、高野山の「丹生津姫」、東寺の「稲荷」といった具合に。それは、だいたいは土地神で、そういう霊的存在と契約して、寺院の安全を守ってもらう。
 それから、諸天善神とか諸菩薩というのも、人系の高級霊ないしは霊団なのかもしれません。ある宗派で修行を積んだ人たちが、死後、その信者を守り導く霊的存在になり、その時「××菩薩」とかいう名前で活躍する、というようなこともあるのではないかと思います。そうであるなら、当然、ご加護は戴けるでしょう。
 ただ、スピリチュアリズムでは、あまり複雑に考える必要はない、まずは「自分の守護霊」に祈りなさいなと勧めるわけです。それだったら特別な儀式もお金も要らないし、何より、それぞれの守護霊こそが、一番その人のことを心配して見守ってくれているのだから、と。(もちろん守護霊が「××観音」〔の霊団の一人〕だという場合もあるでしょう。)

 もちろん、そういうことはどうでもいい、正しい行ないをして、人に奉仕すれば、それが一番、というのもまったく正しいことだと思います。


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3 コメント

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感想 (トド)
2012-09-11 01:04:22
早速に回答いただきありがとうございました。
土荒神については、なるほどと思いました。
近代の仏教学と末端の寺院住職のことについては、その通りだと思います。年忌法要についても13仏の考え方をあの世と関係なしに説明するのは難しいことですから。
ただ、ホ・オポノポノについては、霊的なことがどのように関係するのか、ちょっと判りにくい感じがします。
ウィキペディアの説明を張り付けますが、「モナは"ある人が人生の一切について責任を取るとは、彼が見、聞き、味わい、触れるすべてのことの責任を取ることである。そしてあらゆる経験は、彼の人生に存在するが故に、その人の責任が伴う"と教えた。また"全責任とは、万物が人間の内面からの投影として存在し、問題は外部世界の現実にあるのではなく、我々自身と共にあり、現実を変えるためには、我々はまず自らを変えねばならない"と説いた。モナによるホ・オポノポノは、14段階のプロセスを踏むことで精神をカルマの呪縛から解放することを目指す。なお、このプロセスに特定の言葉を唱えることは含まれていない。」
モナの考え方は理解できるのですが、その後のヒューレーン「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」の言葉を繰り返す・・・。はお念仏と同じと考えれば良いのでしょうか。
・・とすると、お念仏は・・・とか考えてしまうわけです。
天台ではお念仏もしますので、フームとまた考えてしまう訳です。
それから、63除けというのがあります。
例えばですが、不幸な先祖が頼ってきて問題を起こした時に、特定の儀式を行って川に流してくると、問題が嘘のように消える・・・・というものです。
最近、その事例を体験してしまったのですが、そうした民間信仰というか迷信と考えられていたことも、説明すればできるのでしょうけど・・。
・・という感想です。
コメントに対して、すぐさまご回答いただき恐縮です。
ありがとうございました。

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トド様へ (高森光季)
2012-09-11 12:33:38
 ごめんなさい。ホ・オポノポノについてはいい加減なことを書いたようです。霊的な問題ではなくむしろ心理メソッドみたいですね(少なくともシメオナ流は)。ウィキを読むとちょっとニューエイジ的香りがいたします(失礼)。

 念仏というのは、外野が言うのも何ですが、いろいろな相というか内容が含まれているようですね。外的な解釈をあえてすれば、超越者への呼び掛け、霊的状態を高める、誓願あるいは思念強化、イメージ瞑想、同一化による自己変革、音・言葉による神秘的交渉術……人により場合により流派により様々なのではないでしょうか。違いますか。
 (ちなみにスピリチュアリズムの祈りについてはhttp://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/2-13..htmlをご参照のほどを。)

 六三除けというのは陰陽道の病気治療術とは違うのでしょうか。除霊術ですか?

 仏教や神道の現場、そして民俗信仰には、様々な「霊的交渉術」がありますね。私もけっこうそういうのが好きで、民俗学なども囓ったことがありますし、神道の実践もちょっとしてみたりしたことがあります。
 でもそこでどういうことが(霊的に)起こっているのかは、よくわからないことが多いですね。反閇とか、灌頂とか、清めの塩とか、九字切りとか、占術とか、そういうのはどういう効果があるのか、何がそこで起こっているのか、よくわからない。けれども単に外国宗教の物まねだとか、勿体付けの演技だとか、効果がないものだとは思えない。何かはある。しばしば効果もある。大まかな見取り図として神降ろしとか未浄化霊との対話説得とかいう理解はできても、具体的に何がどうなっているのかはわからない。謎ですねえ。

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天皇に関して (グスコー地鶏)
2015-01-30 16:23:34
>一応、天皇という存在は、霊的(宗教的)に見れば、日本国全体を守護する神々(アマテラス、クニトコタチ、アメノミナカヌシなど)に祈願をする(交渉力を持てる)特別職として、崇敬の対象とされているわけですね(つまり神主の頭領)。こういうことは実証できませんけれども、頭から否定するようなものでもないと思います。


インドなんかにも生身の人間が「神の化身」として崇められる現象があるようですが(ラーマクリシュナ等)、おそらく一代限りで「崇敬の対象」としての地位が世襲されることはないんじゃないでしょうか?

天皇制の場合は、「崇敬の対象とされている特別職」が、延々と世襲されているところに胡散臭さを感じざるを得ません。

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