これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

天皇皇后は伊勢神宮へ、皇太子夫婦はスキー三昧で米国の占領政策「日本人の精神の武装解除」達成!(続)

2014-03-26 | 皇室 

 天皇皇后は伊勢神宮へ、皇太子一家はスキー三昧で米国の占領政策「日本人の精神の武装解除」達成! の続き 

 連合国軍の占領下の日本を巡る動きを取材していたボルチモア・サンの記者マーク・ゲインは、これらの詔勅に関連して、その著「ニッポン日記 上」のを1945(昭和20)年12月15日の部分で記述している。
 著者名のマーク・ゲインはペンネームであり、本名はモウ・ギンズバーグMoe Ginsburg、ロシア系のユダヤ人である。敗戦国、軍国日本にたいする蔑視と尊大な“改革者”根性があふれているが、精緻にわたる記述は、占領初期の記録としての価値が大きい。

 以下、「ニッポン日記」の抜粋である。

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(1945年)12月15日 東京

 今目もまた戦後日本の変革の一里程標を通りすぎた。神道を国家から分離せよという指令が発せられたのである。日本政府にこの指令が伝えられた2時間後にはダイク代将からその発表が行われた。

もし日本人が現在計画されつつある激烈な変革に対して反逆しようというのなら今こそその機会だ、と私はこの発表をきくためにみんなと一緒に会議室にいた時考えた
我々の仲間の誰もが同じような考を持っていたようだ。
その宗教を根底からくつがえされてもなおかつ反逆しないのなら、日本入はもう絶対に反逆しないだろう。
 

 神道は宗教人の発明したものの中でも一番うす気味悪い発明品である。
それは天皇の神格と世界を支配すべき日本人の『使命』に対する信念でおり、神話に基く信仰、天皇の祖先天照大紳をはじめ少くも八百よろずの紙々を抱擁する信仰である。
またそれは祖先崇拝、孝道、愛国主義の宗教であり、国家への忠誠と服從を確保するやや水増しされた儒教道徳の宗教でもある。

 幾世紀もの間顧みられなかったこの宗教は1867年明治天皇即位と共に改訂されたが、それは慎重かつ巧妙に行われた。
近代日本の建設者たちは何か手頃な政治的道具を必要としたが、これを供給したのが神道だった。
神官は国家の監督のもとにおかれた。新しい祭式典録が政府によって書き上げられ、小学校の生徒は神社参拝を強制された。新国教の維持と繁栄のために補助金が与えられた。

 国家主義の成長に件い、神道はその侍女となった。それは矮小な男(注:昭和天皇のこと)の心を、彼自身半神格であり、神は彼に世界支配を期待し、偉大さへの道は忠誠と服從にあるという信念で水浸しするのに甚だ有用であった。
廔次(注: たびたび、しばしばの意)の戦争で戦死者が増えるにつれ、神格名簿は拡張され中世紀的祭式は益々巧妙に近代侵略の道具に採用された。


 今次戦争勃発当時の神道勢力はおそろしく強大で、300の官幣杜(皇祖天照大神に親告するため天皇が廔々親拝する1万3千エーカーの敷地を擁する伊勢大廟もこの中に入る)129箇所の軍人たちのための別格官幣杜、5万の県、郷、村、市町村社、6万の私幣杜が存在していた。神道に注ぎこまれた金額と努力は考えただけでもぞっとするくらいだ。

さて、瘦型ではあるが美男子でまた頗る真面目なダイク代将が会議窒に姿を現し椅子を占めながら、神道からの日本国民の解放を静かに発表しはじめた。

 彼はこの宗教は『日本の戦争犯罪、敗北、苦悩、窮乏、現在の惨状に対して大いに責任がある』と述べ神道を国家圭義の目的に使ったのは『巧妙極まる創作』だったと語った。

 ダイクの傍らには彼同様やせて眞面目なウィリアム・K・バンス海軍中尉が坐っていたが、彼はこの指令の起草者でもとオハイオ州ウェスタヴィルのオッタバイン・カレッジの学長をしていたことがある。
私は2人の方を見やっていたが、一体ダイクにしろバンスにしろ、いまから5年前に古代からの宗致の撲滅を奉って1945年のクリスマスを祝福するなどということを夢にでも考えただろうかと思うとおかしくなった。


日本国民を国定宗致への信仰強制から解放するのが目的であると冒頭して、この指令は、

一 天皇、日本国民および日本列鳥が世界に冠たるものであるとする教義の破棄
二 官公立学校における神道教育の廃止 
三 すべての官庁、学校、公共建造物から神棚その他の神道の象徴の撤去
四 官吏が神社に重大事件を『報告』する公式参拝の廃止を命じた。

 
ここまでは大変結構だ。しかし、ダイクとバンスが説明を終わったとき、我々の心中にはいくつかの疑問が浮かんだ。
神道の核心は天皇神格の信念である。
神道の終焉は果して天皇の人間化を意味するものか? 
ダイクは『目下のところ』答えはできないといった。


『天皇は依然日本の精神的首長である』.と彼はいった。
そこで私は彼とつぎのような問答を交わした。

『この間天皇が戦争終了を天照大紳に報告したような伊勢碑宮参拝は将来とも許されるのか?』
『そのとおり』
『しかし神社への公式参拝が禁止された以上、天皇の公式参拝と私的参拝との判定は一体誰がするのか?』
『それは天皇自身の考え方の間題だ』
『国の役人は天皇に随行できるか?』
『そのとおり、彼等が私的な資格で旅行するかぎり』 
『彼等自身が私的か公式なものかを判断するわげか?』 
『そのとおり』 
『新聞はこうした参拝を報道したり写真をのせたりしてよいか?』 
『然り』  

 神道はまことに重大な打撃をこうむった。
しかし私は、見せかげと素知らぬ顔で押し通そうという策謀に我々が堅固な土台をきずいてやったのではなかろうかという疑問から離れることが出來なかった。
今までずっと行われてことと大差のないことが行われつづける。 


 天皇とその属從-宮内省や政府の役人、市町村長、村の有力者、新聞記者、カメラマンは打揃ってあちこちの神社に参拝した揚句、自分たちは宗致的礼拝の自由を享受する個人なのだとなめらかに説明するという寸法だ。
 また天皇親拝の姿を見慣れた百姓たちが天皇はいまでは天皇としてではたく個人として参拝しているのだということを理解するだろうか? これに対する解答が如何なものであるか私は知らない。 

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(1946年)1月4日 東京への帰途 

 新潟駅でジョージが日本の新聞を買ってきた。元且の勅語とそれに対するマッカーサー元帥のコメントがのっていた。ジョージがどっちも翻訳してきかしてくれた。

 日本に何事もなかったかのように天皇は長々と明治天皇の『五箇條の御警文』を引用して、これが『我が国の政治の基礎』であると述べ、この80年の歳月を経た『五箇條の御誓文』こそは本来の真の民主制度への道をひらくもので、世論と『国事に・・・・・・・高きと低きとを問わずすべての階級』が参与することに信倚するものである、と語っていた。

 総司令部の全部の人が知っているとおり、明治天皇は日本の戦闘的国家主義の支柱とも象徴ともされた人物であり、たとえ彼のいくつかの勅語の修辞がどんなものであるにせよ、彼の明治45年間を通じて民主政治はただの一度も実施されなかったし、またその実現を企図とされたこともなかった。

 明治天皇の下に、日本は清国およびアジアと戦い、台湾を領有し朝鮮を侵し後にこれを併合し、更に満洲に『特殊権益』を確立した。そしてそのいくつかの勅語をもってその治世下の、日本を狭隘な封建的鋳型にはめこんだのも明治天皇であった。
それなのに、裕仁すなわち我々がその民主化を目標にしている国の天皇は、民主日本の指標を19世紀に帰って求めようとしているのだ。


彼の勅語はいう。

詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰え、為二思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。
膝ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、・・・・・天皇ヲ以テ現御神トシ且日本国民ヲ以テ他ノ民族二優越セル民族ニシテ、
延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。』 


マッカーサ元帥は、この勅語に対して次のような感想を発表した。
 『天皇の新年の勅語は、甚だしく私を喜ばせるものがある。この勅語によって天皇が日本民主化に指導的な役割を演ずることは明かにされ、自由主義の線にそう将来の天皇の立場が正当且つ明確にされた』 

 プレス・クラブに帰りついてみるとみんないそがしそうにタイプライターにかじりついていた。
総司令部の中に内輸もめをひきおこした追放令が発表されたばかりのところだった。
勿論それには大きな穴はあったが私は感動させられた。
日本の国家主義の最上層部・・・・・軍人、大政翼賛会に属した官僚、テロ団や秘密結杜を組織し統率し、もしくは雇って人、アジアの占領地を掠講し搾取した諸会社を創立した人、特務機関員、アジア諸国の傀儡を躍らせていた黒幕-が、これによって取除かれた。


またこの追放令、は今後公職に就こうとするものは1931年の行動および所属を調査票に記入して提出し審査を受けなければならぬと規定した。

解散を命ぜられた団体の中には、わが友人石原将軍の東亜蓮盟も含まれていた。 

 しかし陰謀と輿奮と権力の世界である東京をはなれて暫くの間ではあったが我々の成功不成功の真の試練となる田舎に行っていただけ、私は些か賢くなっていた。この指令はその実施を日本の政府機関に委ねている。
 私があって来た人たち・・・・・・あの知事や警察署長や政治ボスたち・・・・・・が、ただ一片の紙にかかれた指令が東京で発せられたというだけで、一体彼等自身を政治的生活から放逐しこの国を支配する邪悪な封建的な全機構の維持を終えんせしめることに同意するだろうか。

 特高警察の連中はいまから丁度3ヵ月前、今日のこの指含と些かも異なるところのない指令によって、その権力から放逐された。しかも彼はただレッテルをかえただけでこの嵐を切抜けて生きのびているではないか。
 昨日の特高の長で今日の公安官憲である連中がこの指令だけで果してその地位を放棄するだろらか? ただ肩書だけかえて涼しい顔をしているのではなかろうか? 日本新聞紙は閣僚の大部分は追放を免れるだろうと予想している。

 実際のところ、誰がいけにえに供されるかを決定するのは、幣原首相と彼の背後にいる陰険な政治家樽橋渡という男の手中に委ねられている。
 誤って『田中覚書』と呼び伝えられる悪評まぎれもない中国征略計画を樹立するのを助けた現外相吉田茂や侵略政策のために二つ三つ働いた『ジャパン・タイムス』の杜長だった現厚生相芦田均を、幣原や樽橋が犠姓にするだろうか、と我々は甚だ疑わざるを得ない。


 この指令は一大痛撃となり得るものだ。それなのに、我々はその打撃の衝撃力を誰がたたかれ誰がそれを免れ得るかということを決定する権限を日本人自身にまかせることによって弱めてしまった。
このあやまりはだれのものでもない。非民主主義的な政府を信頼してその国を民主化しようとする我々自身の政策のあやまりなのだ。 

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(1946年)1月6日 東京
 天皇の神格を放棄した元旦の最初の草案は、実はダイク代将の事務室で調理されたものだということを知った。天皇の口の中に如何なる言葉を突込もうと私は別に口をさしはさまない。ただ私を面白がらせ・・・・・・・・当惑させるのは・・・・・・・・天皇が一度かかる言葉を発するや、我々が時を移さず彼の『自由主義』と『民主的精神』を賞賛する声明を発したということだ。  
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 敗戦後、天皇と日本政府の権能は連合国軍総司令官の下に属することになった。これにより実質的には、天皇の位を総司令官に“譲り”、天皇はその“名代”として機能した。マッカーサーは宿舎としていた米国大使館と第一生命ビルを行き来するだけで、日本人の前に姿を見せることを極力さけた。マッカーサーが“天皇”となり、昭和天皇は“名代”として日本国民を宣撫するため国内各地巡幸された。もちろん、GHQが作成したシナリオに基づいて。 

 マーク・ゲインの“日記”によれば、
●その宗致を根底からくつがえされてもなおかつ反逆しないのなら、日本入はもう絶対に反逆しないだろう。
その後の日本の歩みは、ニュー・ディーラーの予想した通りあった。
昭和天皇は皇太子の誕生日にA級戦犯が処刑されたが何等反応を示さなかった。
国体護持に尽力した近衛元首相の自殺に際してもGHQに睨まれるのを避けるため弔意を示さなかった。

 GHQは旧軍にのみ“犯罪”を押し付け天皇や国民との分断を図ったが、昭和天皇は占領政策に逆らうことなく従順であった。
日本人は占領軍に媚を売り取り入ろうとしたものが多かった。


●ニュー・ディーラーは、神社の私的参拝も禁止したかったが、GHQは、神社を天皇や公務員が公式に参拝することを禁止したが、私的に参拝することは容認した。
 この流れの中で行われたのが、今日の天皇皇后の伊勢神宮への“私的参拝”である。  

「売り家と唐様で書く三代目」
 
平成26年2月21日、東宮御所で行われた皇太子の記者会見で公務に関して下記の問答があった。

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質問3 
 天皇陛下は昨年傘寿を迎えられ,皇后さまも今年80歳を迎えられます。両陛下が始められた「こどもの日」と「敬老の日」にちなむ施設訪問は,来年から皇太子ご夫妻,秋篠宮ご夫妻に引き継がれることになりました。
公務については,殿下は過去の記者会見で「時代に即した公務を考えていく必要がある」と述べられました。
両陛下の公務を引き継がれるにあたってのお気持ちと,新しい公務に対するお考えをお聞かせください。


皇太子殿下
 公務についての考えにつきましては,以前にも申しましたけれども,過去の天皇が歩んでこられた道と,天皇は日本国,そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して,国民の幸せを願い,国民と苦楽を共にしながら,象徴とはどうあるべきかその望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に,これまで行われてきている公務を踏まえつつ,将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて,公務に対する社会の要請に応えていくことが,重要であると考えております。
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 NHKはじめ民放も天皇皇后の伊勢神宮参拝が皇室の重要な儀式であることを報道している。

それに無関心を装うかのように、または“背を向ける”ようにして皇太子一家はスキー遊びをするため長野県へ旅たった。これは、単に子供が小学校を卒業し春休みを満喫するためではなく、記者会見で皇太子が答えた“日本社会の変化に応じて,公務に対する社会の要請に応え”た公務のあり方を実際の行動で国民に示したと見るべきであろう。

 皇太子の妻は、病・療養を理由に外交使節との接見や宮中祭祀を避けているが、愛児を伴った“遊び”に類する私的な行事や物見遊山のときに見せる満面の笑顔、新年の宮中参賀では傍らに立つ皇太子と語り合いながら参賀に集まった人々に笑顔で手を振る姿はいうまでもなくスキーを満喫できる健康体は、とても“病気療養中”とはいえない。
 “療養”の文言が空々しい。


 昭和天皇は自らの命と引き換えに米国の占領政策遂行に最大限寄与した。
その子・今上天皇はGHQが呼び寄せた米国人のエリザベス・バイニング夫人の教育を受けて育った“米国製”である。

 “3代目”は、米ソ対立が激しくなる前のGHQで対日政策を遂行したニューディーラーの夢を“実践”している“無味透明”な人間、周囲の働きかけで如何ようにも“染まる”。 
 このような人物が天皇になるのは、いやだね、真っ平ごめんだ。 

   「親の心子知らず」 悩みは深い。
   天皇皇后は皇祖皇宗に長男一家の”不明”を詫びたのだろうか・・・・。
  
           (2014年3月26日 TBS Nスタ )


 戦後の天皇は、伝統を守りつつ、一方では米国の占領政策に応える形で存続してきた。
 日本人は占領軍によって精神的支柱を打倒され、精神も武装解除されたのである。
皇太子一家の、“ノー天気”な行状は、国民を愚弄するものであり、GHQに集ったニュー・ディーラーが描いた神道の破却、皇室の解体と軌を一にしている。
 「売り家と唐様で書く三代」とはこのことだ。孫の代になると遊び暮らして使い果たし,ついにはお家もパーになる。


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