ボクは女の子
いつの頃からだろう。ボクがボクとは別の性に憧れを持つようになったのは。
憧れ……。違う。憧れなんかじゃ、ない。ボクは女の子で生まれてくるべきだったのに。どうして、なんで男になんか生まれたんだろう。
ボクは……女の子に……なりたい。
現代の医学をもってすればボクを女の子にするのは可能だろう。こんな落書き、毎日のように書かずに済む。
でもボクが欲しいのはそんな作られた性なんかじゃない。
本物の……リアルな性だ。
西に傾いた夕陽を見ると、ボクは精神的に落ち込みだす。なんでだか分からないし、いつの頃からかも分からない。ただ、夕方という時間帯がボクは一番嫌いだった。
この光景を人は綺麗だと言うかもしれない。ボクもそう思う。でも、綺麗なだけだ。ただそれだけ。そこに存在するだけ。ボクの生活には関係のないこと。いわば飾りみたいなもの。
ボクは歩き出す。どこへともなくだ。この世界にボクのような存在を認めてくれるところを探すのだ。いや、認めてくれなくたっていい。ただただ傍観してくれるだけでいいんだ。別に誰かの干渉を受けたいわけじゃないし、むしろその逆だ。誰の力も頼らないかわりに誰にも手出しをしたりはしない。ボクは一人、そこに存在していればそれでいいんだ。
「どうせ……死ぬ勇気だってないんだ」
独り言を言うのはもはや日常のことだった。話し相手なんかいない。いや、話し相手はいた。ボクが拒絶しただけだ。
友達とは名ばかりで、誰も本当のボクを見ようとしない。そんな関係がいやでボクはボクのほうから人間関係を断ち切った。
ボクは一人……。
「こんにちは!」
不意に声がした。周りを見渡してもボクしかいない。
「君だよぉ。君以外、誰もいないからね」
やっぱりボクに話しかけていたんだ。
見上げてみる。女の子だった。ボクがなりたいもの。憧れのもの。
女の子は黒髪でショートのボブカットで、服は派手になりすぎない程度にシックにまとまっていた。スカートから伸びるすらっと真っ白な足は、それはそれは神秘的な魅力を持っていた。
「ボクに、何か用ですか?」
ボクはその女の子に尋ねた。
「死にそうな顔してたからねー。大丈夫かなって思ってさ」
女の子は曖昧に笑った。
「ボクのことなんて、どうなったってあなたには関係のないことです」
「そうね……確かに関係ないわ。それでも、興味はあるわね」
こういう子が一番たちが悪い。興味本位で近寄ってきて飽きた頃にはけなす側に回るのだ。何度こういう子に裏切られてきたか。
「迷惑です」
「つれないこと言うのね。いいじゃない。減るもんじゃないでしょ」
「いえ、減るとか減らないとかの問題ではありません。迷惑だと言っているのです」
「あ、自己紹介がまだだったわね。私は千夏。相川千夏よ。君の名前は?」
「話を聞いてください。ボクは迷惑だといっているんです」
「あら、人が名乗ったのに自分は名乗らないって失礼じゃない?」
全くもって話を聞こうとしない。この子には耳というものがついていないのか? それともバカなのか。どっちにしろこんな変な子を相手しているほど暇じゃない……わけでもないか。
「ボクは名前なんかない」
「嘘よぉ。名前を持たない子なんてこの世にいるかしら? それじゃあ、私がつけてあげようか?」
「いい。別に名前なんか必要ないから」
そう、一人で生きていくのに名前なんか必要ない。呼ばれる必要がないからだ。両親がつけてくれた名前はもう、とうの昔に捨てた。とんだ親不孝者だと思う。でも、ボクを男として生んできたこと、それは今でも許せることじゃない。分かってる。責めたってどうしようもない事だって。でも、誰かを責めないと、当たりようのないこの怒りをどう静めればいいのか、ボクにはさっぱり検討がつかなくなってしまう。
だからといって、面と向かって両親を傷つけたくはない。だから家を出てきたのだ。ボクがボクらしく生きる場所を探して。
「んー……君の名前は若葉! どう? いい名前でしょ?」
「女の子……っぽいな」
「君、女の子になりたいんでしょ?」
はっとした。こいつ、なんでそのことを……。ひょっとして独り言を聞いたのか? それともちょっと目を放した隙にこのノートを見たのか?
「君を見てれば分かるよ。そういう子、少なくはないからね」
「ボクみたいなやつ、そんなにいっぱいいるんですか?」
「んー……いっぱいって訳じゃないわね。どっちかというとやっぱり少数派。でもそういう子たちって、不思議と私の前に現れるのよね。なんでかしらね?」
「そんなこと……ボクに聞かれても分かりませんよ」
「だよね。実はね、私も本当は男の子に生まれたかったの。男の子っていいよね。友達関係も簡単そうだし、毎月のあの苦痛を味あわなくてもすむものね。女の子って意外に大変なのよ? それでもあなた、女の子になりたいの?」
一瞬、何を言われているのかが分からなかった。この子は男の子になりたがっている。顔立ちは決して悪くない。どっちかといえば美少女に近い。なのにどうして男なんか野蛮な生き物になりたがるのだろう。
「人間ね、やっぱり、自分とは違うものに魅力を感じるみたいだよね。ほら、女の子が男の子を、男の子が女の子を好きになるみたいにさ。それぞれ、お互いが持っていないものを求める。不思議なものよね」
「うん……」
「若菜は誰かを好きになったこと、ある?」
「ボクの名前、それで決定なの?」
「嫌なら別のにするよ。どんなのがいい?」
「いや、若菜でいい」
正直、名前なんかどうでも良かった。ただ、名前がないと千夏……だっけ。とにかく彼女が困るだろうから、この際、なんでもいい。
「で、どうなのよ?」
「うん……。あるよ」
「へぇ。どんな子? あ、ひょっとして相手の子って男の子だったりする?」
「いや? 普通に女の子だけど?」
そういうと彼女は目を真ん丸くしてボクを見た。
「案外君ってノーマルだったんだね」
「別に……どっちだっていい」
「そうなんだー。その女の子、可愛かった?」
「うん。生涯きっとあの子より可愛い子になんて出会えない気がするよ」
「告白はしたの?」
「ううん。してない」
勇気がないのだ。ボクに決定的にかけているもの、一つあげろといわれればすぐにでも浮かび上がる。勇気だ。何かを言う勇気、行動する勇気、そして……死ぬ勇気もない。
ボクは常に全てのことをそつなくこなしてきた。可もなく不可もなく。上でもなければ下でもない。常に出来事の真ん中を占めている、以下同文な存在。
「そっかぁ。私もね、言いたいこと、言えないタイプなの」
「君が?」
「そうは見えない? これでも結構繊細なんだよぉ」
「へぇ。人はやっぱり見かけによらないんだね」
「なんか言い方、すごい失礼だけどこの際許してあげる。で? これからどうするつもりなの?」
「質問、多いね」
「癖なの。君、見た感じ十七、八っていったところだけど」
「今年で生まれてきて十九年になります」
「へぇ。じゃあ私の三つ下だ。私二十二だもん」
「二十二って言うと、大学生ですか? 社会人ですか?」
ボクは途中から敬語ではなくなっていることに気づき、修正した。
「敬語じゃなくていいよ。敬語使われるような存在じゃないからね。私は一応、社会人かな。君は?」
「ボクは……大学生、かな」
大学なんてほとんど行っていない。大学に行ったところで先生はボクが求めているような答えをくれるわけではない。今現在、自主休学中だ。
「その口調だと、あんまし学校には行ってないみたいね。大丈夫なの? 単位」
「別に、もう行くつもりは、ないから」
「もったいないわね。大学だけは出ておかないと、この先苦労するわよ」
そんなこと、言われなくたって知ってる。大体、どうして大学を出なきゃ就職出来ないんだろうか。義務教育とされているのはたった九年なのだ。その義務教育を全うしただけじゃまともな仕事に就けない。だからこそ皆は勉強して高校に入る。そしてそこを卒業しても就職率は半分以下だ。皆は頑張って大学に進もうとする。中には浪人なんてものにもなりながら大学生になる。この世の中は狂っている。なんで、そこまでして大学に入らなくちゃいけないんだろう。
「はっきり言って、うんざりしてる」
「ん。君の気持ち、分からなくもない」
「この世界のこと、そしてどうしようもないこの心の闇」
「そうね。でも、私たちは前に進むしかないんじゃないかしら?」
「そんなこと、誰だって言うのは簡単だよ。でも……」
「『進むったって、どう進んだらいいのか分からない』といったとこかしらね?」
この人、すごいと思った。まるでボクが思っていることがすべてこの人の頭の中に入り込んでいるのではないかと思うくらいだ。
実際、本で読んだことがある。エスパーというものは実在するらしい。もし、彼女がそのエスパーだとしたら……。だとしても、ボクにとってプラスに作用するかどうかなんて分からない。
ふと気づく。
今までマイナスな気分だったボクが、プラスなんていうことを考えた。これはひょっとすればひょっとするかもしれない。
「ねえ」
「あら、何?」
「君、何者なの?」
「私? 私はただの通りすがりの女の子。君みたいな男の子にあこがれて、毎日、空っぽの人生を生きてる、ただの可哀想な女の子よ」
「ボクたち、似てるね」
「そうね」
夕陽は完全に地平線の向こうへと沈んでいった。初冬の肌寒さがボクを取り巻く。マフラー、持って来ればよかったかな。
「これからどうするの?」
「ボクは……西へ行く。ここ東京から、大阪を越えて、広島のほうまで」
「なんで広島?」
「平和の街だから?」
「くすっ……何それ」
「な、何だっていいだろう」
「そうね。何でも良いわね」
彼女はそういうと、首に巻いていたマフラーをボクの首に巻いてきた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「これは?」
「お守りよ。私はここであなたの帰りを待つことにする。誰かが待っているって思ったほうがあなたも安心するでしょ?」
そういうと彼女はにこっと笑った。笑うと意外に……というか、相当可愛い。
昔、好きだった子を思い出す。あの子も笑うと相当可愛かった。でも、その笑顔は決して、ボクに向けられることはなかった。情けないことに。そして、ボクのほうから彼女との縁を切ってしまったのだ。チャンスはいくらでもあった。でも、いかせなかった。
ボクには勇気がないから。
「行く先々で色々な困難にぶつかるかもしれない。でも、きっと君なら乗り越えられるわ。君は、不思議な魅力を持っているもの」
そんなこと、初めて言われた。
「いつか必ず、このマフラーを返しに来るよ」
「期待しないで待ってるわね」
ボクはくるりと彼女に背を向ける。旅に出るには軽装備過ぎるその荷物を持って。
旅立ちの日に、彼女に出会えたことは今後のボクにとって、どう作用するかなんて分からない。
ただ、人と話したことによって、少しだけ心が穏やかになれた気がする。
少しだけ……。
ボクは振り返った。彼女はまだそこで手を振ってくれている。ボクも彼女に手を振った。
さよならじゃない。またねだ。
そしてボクは、旅に出た。
いつの頃からだろう。ボクがボクとは別の性に憧れを持つようになったのは。
憧れ……。違う。憧れなんかじゃ、ない。ボクは女の子で生まれてくるべきだったのに。どうして、なんで男になんか生まれたんだろう。
ボクは……女の子に……なりたい。
現代の医学をもってすればボクを女の子にするのは可能だろう。こんな落書き、毎日のように書かずに済む。
でもボクが欲しいのはそんな作られた性なんかじゃない。
本物の……リアルな性だ。
西に傾いた夕陽を見ると、ボクは精神的に落ち込みだす。なんでだか分からないし、いつの頃からかも分からない。ただ、夕方という時間帯がボクは一番嫌いだった。
この光景を人は綺麗だと言うかもしれない。ボクもそう思う。でも、綺麗なだけだ。ただそれだけ。そこに存在するだけ。ボクの生活には関係のないこと。いわば飾りみたいなもの。
ボクは歩き出す。どこへともなくだ。この世界にボクのような存在を認めてくれるところを探すのだ。いや、認めてくれなくたっていい。ただただ傍観してくれるだけでいいんだ。別に誰かの干渉を受けたいわけじゃないし、むしろその逆だ。誰の力も頼らないかわりに誰にも手出しをしたりはしない。ボクは一人、そこに存在していればそれでいいんだ。
「どうせ……死ぬ勇気だってないんだ」
独り言を言うのはもはや日常のことだった。話し相手なんかいない。いや、話し相手はいた。ボクが拒絶しただけだ。
友達とは名ばかりで、誰も本当のボクを見ようとしない。そんな関係がいやでボクはボクのほうから人間関係を断ち切った。
ボクは一人……。
「こんにちは!」
不意に声がした。周りを見渡してもボクしかいない。
「君だよぉ。君以外、誰もいないからね」
やっぱりボクに話しかけていたんだ。
見上げてみる。女の子だった。ボクがなりたいもの。憧れのもの。
女の子は黒髪でショートのボブカットで、服は派手になりすぎない程度にシックにまとまっていた。スカートから伸びるすらっと真っ白な足は、それはそれは神秘的な魅力を持っていた。
「ボクに、何か用ですか?」
ボクはその女の子に尋ねた。
「死にそうな顔してたからねー。大丈夫かなって思ってさ」
女の子は曖昧に笑った。
「ボクのことなんて、どうなったってあなたには関係のないことです」
「そうね……確かに関係ないわ。それでも、興味はあるわね」
こういう子が一番たちが悪い。興味本位で近寄ってきて飽きた頃にはけなす側に回るのだ。何度こういう子に裏切られてきたか。
「迷惑です」
「つれないこと言うのね。いいじゃない。減るもんじゃないでしょ」
「いえ、減るとか減らないとかの問題ではありません。迷惑だと言っているのです」
「あ、自己紹介がまだだったわね。私は千夏。相川千夏よ。君の名前は?」
「話を聞いてください。ボクは迷惑だといっているんです」
「あら、人が名乗ったのに自分は名乗らないって失礼じゃない?」
全くもって話を聞こうとしない。この子には耳というものがついていないのか? それともバカなのか。どっちにしろこんな変な子を相手しているほど暇じゃない……わけでもないか。
「ボクは名前なんかない」
「嘘よぉ。名前を持たない子なんてこの世にいるかしら? それじゃあ、私がつけてあげようか?」
「いい。別に名前なんか必要ないから」
そう、一人で生きていくのに名前なんか必要ない。呼ばれる必要がないからだ。両親がつけてくれた名前はもう、とうの昔に捨てた。とんだ親不孝者だと思う。でも、ボクを男として生んできたこと、それは今でも許せることじゃない。分かってる。責めたってどうしようもない事だって。でも、誰かを責めないと、当たりようのないこの怒りをどう静めればいいのか、ボクにはさっぱり検討がつかなくなってしまう。
だからといって、面と向かって両親を傷つけたくはない。だから家を出てきたのだ。ボクがボクらしく生きる場所を探して。
「んー……君の名前は若葉! どう? いい名前でしょ?」
「女の子……っぽいな」
「君、女の子になりたいんでしょ?」
はっとした。こいつ、なんでそのことを……。ひょっとして独り言を聞いたのか? それともちょっと目を放した隙にこのノートを見たのか?
「君を見てれば分かるよ。そういう子、少なくはないからね」
「ボクみたいなやつ、そんなにいっぱいいるんですか?」
「んー……いっぱいって訳じゃないわね。どっちかというとやっぱり少数派。でもそういう子たちって、不思議と私の前に現れるのよね。なんでかしらね?」
「そんなこと……ボクに聞かれても分かりませんよ」
「だよね。実はね、私も本当は男の子に生まれたかったの。男の子っていいよね。友達関係も簡単そうだし、毎月のあの苦痛を味あわなくてもすむものね。女の子って意外に大変なのよ? それでもあなた、女の子になりたいの?」
一瞬、何を言われているのかが分からなかった。この子は男の子になりたがっている。顔立ちは決して悪くない。どっちかといえば美少女に近い。なのにどうして男なんか野蛮な生き物になりたがるのだろう。
「人間ね、やっぱり、自分とは違うものに魅力を感じるみたいだよね。ほら、女の子が男の子を、男の子が女の子を好きになるみたいにさ。それぞれ、お互いが持っていないものを求める。不思議なものよね」
「うん……」
「若菜は誰かを好きになったこと、ある?」
「ボクの名前、それで決定なの?」
「嫌なら別のにするよ。どんなのがいい?」
「いや、若菜でいい」
正直、名前なんかどうでも良かった。ただ、名前がないと千夏……だっけ。とにかく彼女が困るだろうから、この際、なんでもいい。
「で、どうなのよ?」
「うん……。あるよ」
「へぇ。どんな子? あ、ひょっとして相手の子って男の子だったりする?」
「いや? 普通に女の子だけど?」
そういうと彼女は目を真ん丸くしてボクを見た。
「案外君ってノーマルだったんだね」
「別に……どっちだっていい」
「そうなんだー。その女の子、可愛かった?」
「うん。生涯きっとあの子より可愛い子になんて出会えない気がするよ」
「告白はしたの?」
「ううん。してない」
勇気がないのだ。ボクに決定的にかけているもの、一つあげろといわれればすぐにでも浮かび上がる。勇気だ。何かを言う勇気、行動する勇気、そして……死ぬ勇気もない。
ボクは常に全てのことをそつなくこなしてきた。可もなく不可もなく。上でもなければ下でもない。常に出来事の真ん中を占めている、以下同文な存在。
「そっかぁ。私もね、言いたいこと、言えないタイプなの」
「君が?」
「そうは見えない? これでも結構繊細なんだよぉ」
「へぇ。人はやっぱり見かけによらないんだね」
「なんか言い方、すごい失礼だけどこの際許してあげる。で? これからどうするつもりなの?」
「質問、多いね」
「癖なの。君、見た感じ十七、八っていったところだけど」
「今年で生まれてきて十九年になります」
「へぇ。じゃあ私の三つ下だ。私二十二だもん」
「二十二って言うと、大学生ですか? 社会人ですか?」
ボクは途中から敬語ではなくなっていることに気づき、修正した。
「敬語じゃなくていいよ。敬語使われるような存在じゃないからね。私は一応、社会人かな。君は?」
「ボクは……大学生、かな」
大学なんてほとんど行っていない。大学に行ったところで先生はボクが求めているような答えをくれるわけではない。今現在、自主休学中だ。
「その口調だと、あんまし学校には行ってないみたいね。大丈夫なの? 単位」
「別に、もう行くつもりは、ないから」
「もったいないわね。大学だけは出ておかないと、この先苦労するわよ」
そんなこと、言われなくたって知ってる。大体、どうして大学を出なきゃ就職出来ないんだろうか。義務教育とされているのはたった九年なのだ。その義務教育を全うしただけじゃまともな仕事に就けない。だからこそ皆は勉強して高校に入る。そしてそこを卒業しても就職率は半分以下だ。皆は頑張って大学に進もうとする。中には浪人なんてものにもなりながら大学生になる。この世の中は狂っている。なんで、そこまでして大学に入らなくちゃいけないんだろう。
「はっきり言って、うんざりしてる」
「ん。君の気持ち、分からなくもない」
「この世界のこと、そしてどうしようもないこの心の闇」
「そうね。でも、私たちは前に進むしかないんじゃないかしら?」
「そんなこと、誰だって言うのは簡単だよ。でも……」
「『進むったって、どう進んだらいいのか分からない』といったとこかしらね?」
この人、すごいと思った。まるでボクが思っていることがすべてこの人の頭の中に入り込んでいるのではないかと思うくらいだ。
実際、本で読んだことがある。エスパーというものは実在するらしい。もし、彼女がそのエスパーだとしたら……。だとしても、ボクにとってプラスに作用するかどうかなんて分からない。
ふと気づく。
今までマイナスな気分だったボクが、プラスなんていうことを考えた。これはひょっとすればひょっとするかもしれない。
「ねえ」
「あら、何?」
「君、何者なの?」
「私? 私はただの通りすがりの女の子。君みたいな男の子にあこがれて、毎日、空っぽの人生を生きてる、ただの可哀想な女の子よ」
「ボクたち、似てるね」
「そうね」
夕陽は完全に地平線の向こうへと沈んでいった。初冬の肌寒さがボクを取り巻く。マフラー、持って来ればよかったかな。
「これからどうするの?」
「ボクは……西へ行く。ここ東京から、大阪を越えて、広島のほうまで」
「なんで広島?」
「平和の街だから?」
「くすっ……何それ」
「な、何だっていいだろう」
「そうね。何でも良いわね」
彼女はそういうと、首に巻いていたマフラーをボクの首に巻いてきた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「これは?」
「お守りよ。私はここであなたの帰りを待つことにする。誰かが待っているって思ったほうがあなたも安心するでしょ?」
そういうと彼女はにこっと笑った。笑うと意外に……というか、相当可愛い。
昔、好きだった子を思い出す。あの子も笑うと相当可愛かった。でも、その笑顔は決して、ボクに向けられることはなかった。情けないことに。そして、ボクのほうから彼女との縁を切ってしまったのだ。チャンスはいくらでもあった。でも、いかせなかった。
ボクには勇気がないから。
「行く先々で色々な困難にぶつかるかもしれない。でも、きっと君なら乗り越えられるわ。君は、不思議な魅力を持っているもの」
そんなこと、初めて言われた。
「いつか必ず、このマフラーを返しに来るよ」
「期待しないで待ってるわね」
ボクはくるりと彼女に背を向ける。旅に出るには軽装備過ぎるその荷物を持って。
旅立ちの日に、彼女に出会えたことは今後のボクにとって、どう作用するかなんて分からない。
ただ、人と話したことによって、少しだけ心が穏やかになれた気がする。
少しだけ……。
ボクは振り返った。彼女はまだそこで手を振ってくれている。ボクも彼女に手を振った。
さよならじゃない。またねだ。
そしてボクは、旅に出た。