日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

勝海舟『氷川清話』(7) 横井小楠の事 

2019-12-30 14:38:51 | 勝海舟

勝海舟 『氷川清話』 (7)  横井小楠の事 


横井小楠の事は、
 尾張の或る人から聞いて居たが、
長崎で始めて会った時から、
途方もない聡明な人だと、心中大いに敬服して、
屢々人を以て其の説を聞かしたが、
その答へには常に 『今日はかう思ふけれども、明日になつたら学ぶかも知れない』 と申添えてあつた。
 そこで、おれは、いよいよ彼の人物に感心したヨ。
 

 大抵の人は小楠は取り留めの無い事を云ふ人だと思つたヨ。
維新の初めに、大久保すら、小楠を招いたけれど、思いの外だ、といつて居た。
 併し、小楠は尋常の物尺では分からない人物で、
且つ一向物に凝滞せぬ人であつた。
 それ故に、一個の定見と云ふものはなかつたけれど、
機に臨み変に応じて物事を処置するだけの餘裕があつた、
からして何にでも失敗した者が来て、善後策を尋ねると、其の失敗を利用して、
之を都合のよい方に遷らせるのが常であつた。

 おれが米国から帰つた時に、彼が米国の事情を聞くから、色々教えてやつたら、
一を聞いて十を知るといふ風で、忽ち彼の国の事情に精通してしまつた。

小楠は能弁で南州は訥弁だつた。

 小楠が春嶽公に用ひられた時、
もつと手腕を振るうことは出来なかつたと云う人もあるが、
あの時は、実際出来なかったのだヨ。
 又、維新の時に、西郷は何故、小楠に説き勧めなかつたかといふ人もあるが、
之は必要がなかつたからヨ。

 小楠は、毎日芸者や幇間を相手に遊興して、人に面会するも、1日一人会ふと、
もはや疲労したと云つて断るなど、平生我儘一辺に暮らして居た。
 だから春嶽公用いられて居ても、又内閣へ出ても、一々政治を議するなどはうるさかっただらう。
 かういう風だから、小楠の善い弟子といつたら、安場保和一人位のものだらう。
 つまり小楠は覺られ難い人物サ。


佐久間象山は、
 物識りだつたよ。
学問も博し、見識も多少持つて居たよ。
併し、層も法螺吹きで困るよ。
あんな男を実際の局にしたらどうだらうか・・・・・。
何とも保証出来ないノ―。
 

 横井と佐久間の人物は何うだと云ふかね・・・・・、
どうのかうのと云いつた所が、それは大変な違ひさ。

 全体横井という男は、一寸見た所ででは、何の変わった節も無く、
其の服装なども、黒縮緬の袷羽織に、平袴をはいて、
まづ大名のお留守居役とでもいふやうな風で、
人柄も至極老成円熟して居て、人と論議するやうな野暮は決してやらなかつたが、
佐久間の方は丸で反対で、
顔附きからして既に一種奇妙なのに、
平生緞子の羽織に古代樣の袴をはいて、
如何にもおれは天下の師だと云ふやうに、厳然と構へこんで、
元来覇気の強い男だから、漢学者が来ると洋楽を以て威しつけ、
洋学者が来ると漢学を以て威しつけ、
一寸書生が尋ね来ても叱り飛ばすといふ風でどふも始末に行けなかつたよ。

 

藤田東湖は、
 おれは大嫌ひだ。
あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者で、
一廉(ひときわ)役に立ちさうな男だつた。
本当に国を思ふ赤心がない。

 若し東湖に赤心があつたら、あの頃水戸は、天下の御三家だ、
直接に幕府へ意見を申出づればよい筈ではないか。
 それに何ぞや、
彼れ東湖は、書生を大勢集めて騒ぎまはるとは、実に怪しからぬ男だ。
おれはあんな流儀は大嫌ひだ。

 兎角実行で以て国家に尽くすのだ。
毎度いふ事だが、彼の大政奉還の計を立てたのも、つまり此の精神からだ。

 併しながら実際におれの精神を了解して、この間の消息に通じて居るのは、西郷一人だつたよ。
榎本でも大島でも、昔おれを殺さうとした連中だが、
今になつては却って、頭を下げておれの処へ来るのが可笑しい。
併しおれも 『皆さんゑらくなつた』 と云つて置くのさ。
 此間は二十年ぶりで慶喜公にお目にかかつたが、
その時おれは
『よい事は皆御自分でなさつた様にわるい事は皆勝が為た様に、世間にはお仰い。』 と
申しておいたよ。

 

木戸松菊
  西郷に比べると、非常に小さい。
併し綿密な男サ。
使ひ所によりては、随分使へる奴だつた。
あまり用心しすぎるので、トテモ大きな事には向かないノー。

 嘗て京都で会った時、彼が直接におれに話して聞てかせた事がある。
元治元年の七月、蛤御門の変があつた後で、
あの男は会津藩の羅卒に捕えられて、
大勢の兵卒に護衛されながら、寺町通りまで来た時に、
大便を催したから厠へ行かせてくれといつた。
 すると外の事とは違ふふから、衛士も許さぬといふ訳にも行かず、
止むな二三の兵卒を随えて厠へ行かせた。
 所が松菊は厠の前まで来ると、地べたに蹲踞(つくば)つて袴を脱ぐやうな風をしたが、
いきなり脱兎の勢でその場を逐電した。

 餘り意外な事だから、衛卒も暫く呆然としていた間に、
松菊派早くも對州の藩邸へ逃げ込んで、
一旦その踪後をくらまし、
しばらくしてまたある他の屋敷へ潜伏して、到頭逃げおほせたといふことだ。

 あの男が事に臨んで敏活であつたことは、まうかういう風だつたヨ。
 それからあの男の下の關(=関)で兵士を鎮撫して居た時分に、
或る人へ、送った清元がある。

   きのふ二上り、けふ三下り、調子そろわぬ糸筋の、
  細い世渡り日渡りも、そこでなぶられ、ここではせかれ、
  主の心に誠あらば、つらい勤めも厭やせぬ。

 かういうものだが、どうだ、常意が分かるね。

 

齊彬公(順聖)
 齊彬公は、えらい人だったよ。
西郷を見抜いて庭番に用ひた所などはなかなかえらい。
おれを西郷に紹介した者は公だよ。

 それ故、二十年も以後に、初めて西郷に会った時に、
西郷は既におれを信じていたよ。

 ある時おれは公と藩邸の園を散歩して居たら、
公は二ッの事を教えて下さったヨ。
 それは人を用ひるには、急ぐものではないといふ事と、
一つの事業は、十年経たねば取りとめの付かぬものだという事と、
この二ツだったッケ。


小栗上野介
は、
 幕末の一人物だヨ。あの人は精力が人にすぐれて、
計畧に富み、世界の大勢にも畧ぼ通じて、
而も誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似て居たよ。
 一口にいふと、あれは、三河武士の長所と短所とを両方具えて居ったヨ。
併し度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかつた。

 小栗は、長州征伐を奇貨として、
まづ長州を斃し、つぎに薩州を斃して、
幕府の下に郡県制度を立てやうと目論んで、
仏蘭西公使レオン・ロセフの紹介で、
仏蘭西から銀6百萬両と年賦で軍艦数艘を借り受ける約束をしたが、
これを知つて居たものは、慶喜殿外閣老を始めて四五人に過ぎなかつた。

 

 長州征伐が六ヶしくなつたから、
幕府は、おれに休戦の談判をせよと命じた。
 そこで、おれが江戸へ立つ一日前に、小栗が窃かにおれにいふには、
君が今度西上するのは、必ず長州談判に関する用向だらう。
若し然らば、実は我々に斯様の計画があるが、君も定めて同感だらう。
 故に、敢へて此機密を話すのだといった。
おれも此処で争ふても益がないと思つたから、
たださうかと
いって置いて、大阪へ着いてから閣老板倉に見えて、
承れば折々の計画がある由だが、至極御結構の事だ、
併し天下の諸侯を廃して、
徳川氏が独り存するのは、これ天下に向かつて私を示すのではないか。
 閣下等、若し左程の御英断があるなら、
寧ろ徳川氏まづ政権を返上して、天下に摸範を示し、
然る上にて、郡県の一統をしては、如何、と云つた処が、
閣老は愕りしたヨ。

 

 そうする内に慶応三年の十二月に、佛国から破談の報が来た。
後で仏蘭西公使がおれに、
小栗さん程の人物が、僅か六百万両位の破談で、腰を抜かすとは、
(さ。サテ、トコロデ)ても驚き入った事だといつたのを見ても、
この時、小栗が何れ程失望したかは知れるヨ。

 小栗は僅か六百万両の為めに徳川の天下を賭けうとしたのだ。
越えて明治元年の正月には、早くも伏見鳥羽の戦が開けて、
三百年の徳川幕府も瓦解した。

 また小栗も今は仕方ないものだから、上州の領地へ退居した。
それを豫て小栗を悪んで居た土地の博徒や小栗の財産を奪はうといふ考えの者どもが、
官軍へ詭訴したによつて、小栗は遂に無惨の最後を遂げた。
 然し、あの男は、案外清貧であつたといふことだヨ。

 

山岡鉄舟も大久保一翁も、共に・・・・・・・。


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