日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

日米戦争の経緯 東條英樹 「宣誓供述書」(全文) その12 東條内閣の組閣

2016-12-13 13:47:54 | 東條英機

             パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 


              東條英機 
(ウィキペディア)

東條内閣の組閣

 

七八

 

千九百四十一年(昭和十六年)十月十七日には前日來辞辞職願を出したため此日私は官邸にてその後の準備をして居りました。午後三時三十分頃侍従長より天王陛下の思召により直ちに参内すべしとの通知を受けました。突然思召のことではありますから私は何か総辞職に関し私の所信を質されるものであらうと直感し、奉答の準備のために書類の準備を懐にして参内しました。

 

七九

 

参内したのは午後四時頃と思ひますが、参内すると直ぐに拝謁を御付かり組閣の大命を拝したのであります。その際、賜りました、御言葉は千九百四十一年(昭和十六年)十月七日の木戸日誌にある通りであります。(法廷証第一一五四号英文記録一〇二九頁)

 私は暫時の御猶予を願い御前を退下し宮中控室に居る間に続いて及川海軍大臣に御召に依り参内し「陸軍に強力せよ」との御諚を拝した旨海軍大臣と控室にて面会召致しました。間もなく木戸内大臣がその部屋に入って来て御沙汰を私と及川海相との双方に伝達されたのであります。其御沙汰は昭和十六年十月十七日木戸日誌(法廷証第一一五四号)のとおりであります。即ち、

 『只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉ありましたことと拝察いたしますが、なほ国策の大本を決定せらるるについては九月六日の御前会議決定に捉わるることなく、内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要すとの思召であります。命に依り其の旨申し上げます』と言ふのであります。之が後にいふ白紙還元の御諚であります。

 

八十

 

私としては組閣の大命を拝すると云ふが如きは思いも及ばぬことでありました。田中隆吉氏は佐藤賢了氏が、阿部、林両重臣を訪問して「東條を総理大臣にしなければ陸軍お統制はとれぬ」と述べた旨証言しました(法廷証第千五百八十三頁)既に記録した如く私は近衛内閣の後継内閣は東久邇宮内閣でなければ時局の収拾は甚だ困難であろうと考へ、此の意見は既に近衛総理及木戸内大臣にも伝へたのであります。私は十六日夜、私は此の意見を阿部、林両重臣に伝えることが適当であると考へ佐藤軍務課長をして阿部、林両重臣に此の意見を伝達させたのであります。佐藤氏は私の意見のみ伝達し両重臣は彼等の意見を述べなかった旨私に報告しました。

 従って私自身が後継内閣の総理大臣たるの大命を愛くること乃至は陸軍題意人として留任することは不適当なりと考へたのであります。

 

又格の如き事の起ころうことは夢想もしませんでした。殊に私は近衛内閣総辞職の首謀者であるのみならず、九月六日の御前会議決定に参興したる責任の分担者であるからであます。特に九月六日の御前会議の変更の為に私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが却って大なる困難を伴ひ易いのであります。

 

 以上は当時私及び私を知る陸軍部内の空気でありました。故に「白紙還元」の御諚を拝さなければ私は組閣の大命を承け入れなかったかも知れないのです。此の「白紙還元」と云ふことは私もその必要ありと思って居ったことであり、必ず左様せねばならずと決心しました。なほ此の際、和か戦か測られず。塾れにも応ぜざるを閣内体制が必要であると考へました。之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣を兼職する必要ありと考へ其の旨を陛下に予め上奏することを内大臣に御願ひしました。当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずる恐れがありますから、自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで減益に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、このことは後日閑院宮陛下の御内奏に依る事であります。

 

八一

 

組閣については中々考えが纏まりません。此の場合神慮に依る外なしと考へ、先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽し、更に靖国神社の神霊に謁しました。その間自ら組閣の構想も浮かびました。

(一)大命を拝した以上は敢然死力を尽くして組閣を完成すること。

(二)組閣に遅滞は許さず。

(三)閣僚の選定は海軍大臣は海軍に一任するが其他は其他は人物本位にて簡抜すること。即ち当該行政に精通している人を持って行き度い。行政上の実際の経験と実力をもって内閣に決定を強力に施行して行く堪能なる人を持って行く。政党又は財閥の勢力を顧慮せず又之を忌避せずといふ態度で行きたいといふことでありまました。

 

八二

 

右大命を拝した其の日の夜六時半頃陸相官邸ににて着手しました。組閣に当たっては右の方針に則り私一個にて決定し、他人にも相談しませんでした。しかし、助手が要るから、先ず内閣書記官長の選定を必要としました。同夜八時半星野直樹氏に電話し来邸を求めて之を依頼したのであります。星野氏は第二次近衛内閣の閣僚として同僚であり、其の前歴の関係に於ても、才能の上に於いても適任と考へました。
 星野氏は來邸し直ちに之を受諾してくれました。電話で決定したのは橋田(文相候補)岩村(法相候補)井野(農相候補)小泉(厚相候補)鈴木(企画院候補)岸(商工候補)の諸氏であります。召致して懇談の上受諾したのは賀屋(大蔵候補)東郷(外相候補)寺島(逓信、鉄道候補)湯澤(内務次官候補)の諸氏であります。
 此の中で東郷氏と賀屋氏は今後の国政指導は極力外交交渉で進むのかとの意味の駄目を押しました。湯澤氏は次官のことでありますが私が内務大臣兼摂でありますので大臣級の人物を要したのであります。
 同夜中に海軍大臣より海相推挙ん返事は出来ません。翌朝(十八日)及川海相より島田氏を推挙するとの確報を得、続いて島田氏が来邸しました。この時に対米問題は外交交渉で行くのかといふ点と国内の急激なる変化を避けられたしとの質問と希望がありました。
 私は前の質問に対しては、白紙還元の説明を興へ後の希望に対しては勿論国内の急激な変更はやらぬといひました。島田氏は之を聞いて後海相たることを承諾致しました。
 十八日朝は靖国神社例祭日で午前中は天皇陛下の御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式を経て茲に東條内閣は成立致しました。

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