(3日目)平成21年8月23日(日)(2)
国指定史跡「春日山城跡めぐり」(パンフレットより)
[春日山城と上杉謙信公ミニガイド]
戦国の名将上杉謙信公の城として今も天下にその名をとどろかせている春日山城は、越後守護上杉氏が戦時のために築いた城で、今の県庁にあたる守護所(直江津駅南)から約4Kmの位置にあり、関東・信濃・北陸への往来が一目で監視でき、守護代長尾氏が守護所と連携して守っていました。
春日山城は、石垣の代わりに、自然の起伏を活かした空堀・土塁などによって多くの郭を守っていました。そのため天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能を持たせていました。こうした城の造りは、戦国時代の山城としての特徴をよく表しています。
天正7年(1579)に養子の上杉景勝に、慶長3年(1598)には堀秀治に引継がれました。しかし、堀氏が慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を新築して移ると、城としての運命を終えました。
春日山城跡は、城としての歴史だけでなく、自然の宝庫として、四季折々の豊かな表情を訪れる人々に見せてくれます。(パンフレットより)
戦国の名将
謙信公は享禄3年(1530)、越後守護代長尾景虎の末子として生まれ、7歳のとき林泉寺に入り、名僧天室光育(てんしつこういく)から厳しく文武の道を習っています。
14歳で元服して長尾景虎と名のり、19歳で兄晴景に替わって越後守護代になりました。以後、越後統一、信濃・関東・北陸への出兵が生涯続きます。永禄4年(1561)に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉姓と関東管領職を上杉憲政から譲られ、上杉氏を名乗ることになります。
天文22年(1553)と永禄2年(1559)の2度にわたって上洛し、天皇や将軍に拝謁して、深く信頼されました。
武田信玄と5度も川中島で戦っていながら、かえって信玄に救援の塩を送ったり、また領土的野心で戦をしたことは一度もなかったといわれるほど「義」に篤い人でした。
天正6年(1578)、関東出兵を前にして、突然、49歳の生涯をとじました。(パンフットより)
大河ドラマ「天地人」の舞台となっている春日山城跡に寄った。当日はちょうど「謙信公祭」の最中で、春日山へは林泉寺からの道を登ることにした。
春日山の中腹にある春日山神社(上杉謙信を祀る)下の駐車場に車を置き、長い階段のある参道を登る。
春日山神社
謙信公を祭神とし、旧高田藩士小川澄晴が浄財を募り、祭主となって創建したもの。日本近代童話の父と呼ばれる小川末明は澄晴の長男。(パンフレットより)
神社から4,5分のところに上杉謙信公銅像があり、ここより徒歩で本丸を目指すことになります。
春日山城跡
三ノ丸(文面パンフレットより)
米蔵、三郎景虎屋敷跡や土塁がある。三郎景虎は「御館の乱」で悲運の死を遂げた武将。
二の丸跡
本丸・天守台
頸城平野の眺望がみごと。
護摩堂
諏訪堂
毘沙門堂
謙信公が出陣前に戦勝を祈願した所。
お花畑跡
景勝屋敷
謙信公の跡を相続した上杉景勝の屋敷跡。
直江屋敷
上杉家の重臣で大河ドラマ「天地人」の主人公、直江廉続の屋敷跡。
林泉寺(りんせんじ)
謙信公の祖父長尾能景(よしかげ)が父の菩提を弔うために創建した長尾氏の菩提寺。謙信公は7歳から14歳まで、名僧天室光育(てんしつこういく)のもと文武の修行を積みました。戦国の武将としては教養が高く信仰心が深いのはこの時代に培われたものです。惣門は春日山城から移築したといわれ、山門は鎌倉時代の様式を取り入れた大正14年建立の名作。墓地には川中島合戦の死者の供養塔があります。境内は400年を経た今も少年謙信の息づかいが聞こえるようです。
宝物館は謙信公の書簡などゆかりの品が展示されています。(パンフレットより)
林泉寺・惣門
林泉寺・山門
上杉謙信公の御墓
春日神社
越後守護上杉氏の氏神。春日山城築城のとき鬼門神として山頂から遷座したと伝えられ、春日山城の名前の由来となった。(パンフレットから)
国指定史跡「春日山城跡めぐり」(パンフレットより)
[春日山城と上杉謙信公ミニガイド]
戦国の名将上杉謙信公の城として今も天下にその名をとどろかせている春日山城は、越後守護上杉氏が戦時のために築いた城で、今の県庁にあたる守護所(直江津駅南)から約4Kmの位置にあり、関東・信濃・北陸への往来が一目で監視でき、守護代長尾氏が守護所と連携して守っていました。
春日山城は、石垣の代わりに、自然の起伏を活かした空堀・土塁などによって多くの郭を守っていました。そのため天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能を持たせていました。こうした城の造りは、戦国時代の山城としての特徴をよく表しています。
天正7年(1579)に養子の上杉景勝に、慶長3年(1598)には堀秀治に引継がれました。しかし、堀氏が慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を新築して移ると、城としての運命を終えました。
春日山城跡は、城としての歴史だけでなく、自然の宝庫として、四季折々の豊かな表情を訪れる人々に見せてくれます。(パンフレットより)
戦国の名将
謙信公は享禄3年(1530)、越後守護代長尾景虎の末子として生まれ、7歳のとき林泉寺に入り、名僧天室光育(てんしつこういく)から厳しく文武の道を習っています。
14歳で元服して長尾景虎と名のり、19歳で兄晴景に替わって越後守護代になりました。以後、越後統一、信濃・関東・北陸への出兵が生涯続きます。永禄4年(1561)に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉姓と関東管領職を上杉憲政から譲られ、上杉氏を名乗ることになります。
天文22年(1553)と永禄2年(1559)の2度にわたって上洛し、天皇や将軍に拝謁して、深く信頼されました。
武田信玄と5度も川中島で戦っていながら、かえって信玄に救援の塩を送ったり、また領土的野心で戦をしたことは一度もなかったといわれるほど「義」に篤い人でした。
天正6年(1578)、関東出兵を前にして、突然、49歳の生涯をとじました。(パンフットより)
大河ドラマ「天地人」の舞台となっている春日山城跡に寄った。当日はちょうど「謙信公祭」の最中で、春日山へは林泉寺からの道を登ることにした。
春日山の中腹にある春日山神社(上杉謙信を祀る)下の駐車場に車を置き、長い階段のある参道を登る。
春日山神社
謙信公を祭神とし、旧高田藩士小川澄晴が浄財を募り、祭主となって創建したもの。日本近代童話の父と呼ばれる小川末明は澄晴の長男。(パンフレットより)
神社から4,5分のところに上杉謙信公銅像があり、ここより徒歩で本丸を目指すことになります。
春日山城跡
三ノ丸(文面パンフレットより)
米蔵、三郎景虎屋敷跡や土塁がある。三郎景虎は「御館の乱」で悲運の死を遂げた武将。
二の丸跡
本丸・天守台
頸城平野の眺望がみごと。
護摩堂
諏訪堂
毘沙門堂
謙信公が出陣前に戦勝を祈願した所。
お花畑跡
景勝屋敷
謙信公の跡を相続した上杉景勝の屋敷跡。
直江屋敷
上杉家の重臣で大河ドラマ「天地人」の主人公、直江廉続の屋敷跡。
林泉寺(りんせんじ)
謙信公の祖父長尾能景(よしかげ)が父の菩提を弔うために創建した長尾氏の菩提寺。謙信公は7歳から14歳まで、名僧天室光育(てんしつこういく)のもと文武の修行を積みました。戦国の武将としては教養が高く信仰心が深いのはこの時代に培われたものです。惣門は春日山城から移築したといわれ、山門は鎌倉時代の様式を取り入れた大正14年建立の名作。墓地には川中島合戦の死者の供養塔があります。境内は400年を経た今も少年謙信の息づかいが聞こえるようです。
宝物館は謙信公の書簡などゆかりの品が展示されています。(パンフレットより)
林泉寺・惣門
林泉寺・山門
上杉謙信公の御墓
春日神社
越後守護上杉氏の氏神。春日山城築城のとき鬼門神として山頂から遷座したと伝えられ、春日山城の名前の由来となった。(パンフレットから)