竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

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宇留地小学校記憶編 3

2014-07-11 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

母親がこの学校の用務員をさせて頂いた頃の大将の記憶は特筆もの
この学校には、四年生の夏までお世話になった、戦後の混乱期、親の苦労も知らない紅顔の美少年として過ごしたこの時期の事の記憶に付いては兄妹 1だ。2歳弱からの鮮明な記憶を誇る大将だからもっともだ、 まあ自慢する程の事でも無いか。

兄妹は三つ上の姉、学校へ来てから産まれた六つ下の弟、弟はまあ将来有望な大将と記憶に付いては比べる事も有るまいが、穴水の記憶に付いては無いに等しい、又姉と言えば都会生まれの清楚なお嬢さんとまでは言わないが大将から見てもスッキリとした顔立ちで自慢のって言っても少々気が強いのが玉にキズだがまあまあの姉だ、これも又穴水の記憶と来たらからっきし。
この穴水での八年間の記憶は家族中で大将が一番 さすがだね
しばらくの間記憶を辿りながら四年生迄の出来事にお付き合ってもらおう

ある日突然に坊主頭の背の高い男がやって来た、聞けば前出の一緒に疎開して来た香葉子姉さんの兄、喜三郎さんだと言う、大将生まれたての頃と東京大空襲の後沼津の海軍官舎で会ってるはず、大将男兄弟がいないもんだから手をつなぐやら、肩車をしてもらって鴨居にデコちんをワザとぶっつけられたり、やらで良く遊んでもらった。
喜三郎、香葉子兄妹は小さい頃から大将の母親を姉ちゃん姉ちゃんと呼んで慕ったいた、先の大空襲で両親兄妹を一っ時に失ってしまい寂しかったに違いないが暫らくして東京へ帰って行った。

又、ある年の夏、今度は父方の従兄弟、大将より一つ二つ上の弘一さんも東京世田谷、駒沢から遊びに来た。一ヶ月まるまる宇留地で田舎暮らしを満喫し最後は帰りたく無いと言ってたそうだ。
弘一、大将、夏休中親の留守をいいことに 冷や飯に味噌汁をぶっかけおひつを空っぽにした事がある、その晩弘一さんはお腹が痛いと言い出し母親に叱られた事が有った。
弘一さんが柔だったのか大将が生まれつき胃腸が丈夫だったのか・・・・まず後者だね。
もう一つ これは夢か現実か分からないが「裸の大将」山下 清 画伯のイメージがあるリュックを背負い袋に入れた荷物を両手に持ち・・・・そんな姿が記憶の何処かに有り、母親は知ってか知らいでか応対してた様な・・・・記憶が・・・

では又 ごきげんよう

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甚○ェ門以後 宇留地小学校編

2014-02-18 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

さて、宇留地小学校の概要をもう少し
大将二才弱の頃、疎開で穴水に来てから与○助、甚○ェ門、学校へと幾つもの季節が廻り、目まぐるしく引越しを繰り返し、ここ宇留地小学校に来たのは姉が二年生の春、という事は幼く紅顔の美少年だった大将は五才の頃。
いずれにしても♪♪「ウサーギオーシカーノヤーマー コブナツーリシ カノカワー」♪♪「ユウメーハイイマーモメエグーウリイテ  オモイイズル フールーサートー」♪♪この歌がピッタリの風景   コスッカライ スレタ人間なぞ居るはずも無く おっとりと時間が過ぎて行く土地柄
校舎前に広がるグラウンドの下を通る県道の更に下の川にえん堤が出来た、ナマコン車やクレーンなぞ無い時分の事、全て人海作戦、飯場で寝泊り、ドラム缶の五右衛門風呂、言葉尻ににやーにやーの付いた言葉を使う工事関係者、珍しくて良く遊びに行った。
えん堤下は子供たちの恰好のプール、後に其処は遊泳禁止になった。
上からは肝試しの飛び込み、凹みの下は低学年、上は高学年、5〜6mある。  夏休みが終わると飛び込んだ連中は並ばされてビンタを喰らう。
一度だけ今思うとよたよたの鮭が上がって来た事があった。年上の者が「ぼーや、ヤス持って来い」慌てて取りに行き、一突きで「とったどー」で・・・・・分け前が有るかと思いきや、年上の者は大家族、哀れ大将は母親にお話しのみ。

或る日川から「ドッカ〜〜ン」凄まじい音と共に水柱が・・・小柄な老人が川に入り白い腹を上にして浮いてきた魚を拾っている、何匹かは川下へ・・・この事を大将は母親に「誰々がやっとった」と継げた。
二日ほど経って町から警察官が来て「先日此処でダイナマイトを使って魚を採った者がおるが、知らんかね」母親「さあ知りません、そんな音は聞いてません」・・・横に居た大将(昨日誰々が)と母親に言った筈なのに何で「知らぬ存ぜぬ」と云うのだろうと不思議で堪らん。でも大将、お巡りさんが恐くって母親にすがっているばかり。
後で母親に聞くと「余計なことは言わない事もあるのよ」大将ピントきたね、「はは〜〜んお袋さんも怖かったんだ」とね。

大きな、と言っても30cmくらいのウグイの採れる季節に大将の秘密の場所があった。大きな石の下に手を入れると必ず1〜2匹採った
そのころにはこの山王川の水は朝晩の煮炊きに使えるほどの清流、魚も綺麗なもんだ、焼いて食ったね、貴重なタンパク資源だ。

父親とえん堤の上へ釣りに行った事もある、餌はソコイラの釣り座の草を捲ればミミズの一匹や二匹は簡単にでて来る。
あの頃で5m位の長い竿、ヤットコサ構えたとたんにバシャーン、水しぶきと共にでっかいのが掛った。思わず合せを入れて引きつ引かれつ親父に手伝ってもらいながら格闘、懇親の力で引いたとたん道糸がプッツーン  今で言う痛恨のバラシ。
あの頃を思い出すと、テグスは黄色く変色し、ササクレだっていたな、切れても当然だったかも知れない

こんな思い出のあるえん堤、成人になって懐かしく、何回か覗いた、今では上流は土砂で埋まりえん堤の上からザーザーと水が流れて、泳ぐ子供も居無くなり、皆に忘れ去られてしまった。耳を澄ますとあの頃の子供達の歓声が聞こえる     ってね 
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穴水、甚○ェ門での記憶 以後

2014-02-06 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です
ここ鳥越は雪深い山村、今年は何故か大雪と言われながら除雪機の出動回数がやたらと少ない。んで持ってブログUPの時間が出来ました

「鳥越」は大将が引っ越して来て早20年が経とうとしているが、鳥越に来た当時集落の古老から聞いた話では「この辺の雪はあんたらの来る10年前位、(と言う事は今から三十年前だ)には今の二倍も三倍も降ったもんや」と聞いた。
そう言えば大将中学校の頃(その頃は,獅子孔高原スキー場と大日高原スキー場へ行った事が有るが)この辺りの積雪はハンパでない、恐怖感をお覚えるほどだったと記憶している。なんせ道の両側は3メートル位のの雪の壁だった、対向車が来ると交差が出来ない、殆ど一方通行状態、辺りは真っ白で烈しい雪が降ると何処を走っているのか分からないんで壁見ながら壁に沿って走った位だった。
大将が此処に来てから最高でも2メートル、日に4回の除雪、シーズン中母屋と店の屋根合わせて8回も雪下ろしをした。今と違って体力が有ったんだねェ〜    まあ大雪に関しては大将昭和の38豪雪、56豪雪を経験してるし、今は大型除雪機が各地の配置されてるしでそんなに驚きもしないがね     それにしても今の処大した降りでもないので一安心ってところ

さて本題の甚○ェ門から宇留地小学校へ越したのが大将4歳の頃、甚○ェ門から一つ上の集落出村だ、県道下には田圃、その下には小又川?だったかな?その先に田圃、山と続く。県道を右にそれて僅かに坂を登り、20段位の階段を上ると学校のグラウンドが広がる、手前左右には桜の木が沢山植わっていた。正面には全体が平屋で出来た校舎があり、左右の教室を繋ぐように6,7間の校舎が見える。
グラウンドを横切り、3、4段の階段を上がると校舎入り口まで5メートルくらいのスロープ、その右横には松の古木、更に右には足洗い場と右の教室までの短い渡り廊下、スロープ左には花壇、左側の教室の更に左に桐の木が植わった空き地を挟んで、相撲の土俵が有り、わきには3,4メートルの日本柿の木、その奥に小さな池、グラウンドから校舎に向かって左端に出村の一つ上の集落、河内への出入り口が有った、此処はスロープになっており学校への荷物の搬入道でもあった。
穴水の出村でも当時は写真の様に沢山の雪が積もった     クリックで拡大

ハイ、こんなシチュエーションの中で大将の人間形成の大半と、新たな青春が、始まるんだねえ

ではまた〜〜〜
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ひっさし振りの投稿

2014-01-06 | 大将の独り言
ひっさし振り、お山の大将独り言の時間です
皆様あけましておめでとう御座います  本年も相変わりませず大将の愚痴とも言えるつまら〜〜んブログですが、見つけた人だけ読んでください

昨年6月以来の投稿となります。
何やかやと用事に追われっ放し、朝は5時起床、16時過ぎに閉店、特に閉店後のプロコースの受講者が相次ぎ、夕食を済ませると疲れて早々にバタ〜ン ZZZZZZZZ・・・・歳だね!!!
休みは休みで家の手入れやら草刈、猫の額ほどの大農場で、薬味の大根の作付け(年二回)、ストーブ用の薪の準備、ストレス解消の釣りにはたまに行く程度。

年末になって、庭木の手入れ、雪囲い、をして、さあこれで年越し準備完了かと思いきや、店の床にバケツの水をひっくり返した様な水溜り、あちゃ〜〜  雨漏りだ〜〜  
当日は営業、慌ててヘッドを外し、タルキを渡して来週の休みまでシートを掛けての大急処置、20年前店のログを建築した当時に自作したチムニーヘッドからの雨漏りだ    
耐用年数遥かに越えた初代  
単価2480円(0,4mm)亜鉛引き3×6尺二枚のブリキ製、製作期間思考錯誤の3週間、
実は何で自分で作ろうと思ったかですが、母屋のヘッド、商売やさんで加工してもらったヘッドは最初から雨漏りジャバジャバ、室内の天井がススが雨で流れて真っ黒け、高い制作費を払ってこれじゃあねえ   結局これも手を加えて自分で雨が入らないように加工した・・・何だろうね

そして今回、もう要領は承知の介、準備万端材料(前出)を手に入れてから製作期間定休日を利用した3日間、多分この作りだと初代より長持ちは確実、20年以上は持つね!!  二代目はシンプルその物、パーツの数11点、銅製リベット留め、熱の当る処は耐熱塗料とステンレス、他はハンダ付けと速乾性のタール系塗料、予防の全天候型コーキング剤、各部は1年365日風雨に晒されっ放し、おまけに冬には高熱の苛酷な条件だ。
開口部から煙突内に鳥類の落下防止のステンレスネット(これは仕事に使うザルの壊れたものをリサイクル)、ヘッド上部はエントツ掃除が容易にできる様に開閉加能の構造にした。
それがこれ   二代目自作チムニーヘッド  
是非写真をクリックして拡大で見てくれ、余りの上出来で下で写真を撮るのを忘れて屋根に乗っけてから両手を放してカメラを構えたもんだからお尻が何かモゾモゾしての撮影となった、本当は開閉部分も撮りたかったが足場が悪くって断念
多分作ってもらうと材料はステンレスを使ったとして、7〜8万くらいは掛るね、それ以上かも・・・

まあそんなわけで、昨日(1月5日)で正月2日からの仕事が一段落、本日6日から10日まで正月休み、やっとご無沙汰のパソコンの前に座る事ができました。
又 おいおい能登に疎開中の事をダラダラと投稿して見ようと思ってる今日この頃です     では・・・ 
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穴水 甚○ェ門からの転居

2013-06-28 | 大将の独り言
お山の大将独り言の時間です

甚○ェ門に居た頃はまだまだ、戦後の混乱気分が漂う真っ只中、男尊女卑やら、封建的やら、しきたりやらの文化と云うか何と云うかがい〜〜っぱい残って居り、大将のお袋さんなんか「女の洗濯もんは表に干すもんで無い」何てな事を年寄りに言われて居たのが記憶にある、そんな時代を天真爛漫に、大好きなおじちゃんと過ごして居た大将の家族は、或る日突然甚○ェ門から一つ上の集落(出村)に引っ越す事になる、それも小学校へ引っ越すと言われ、幼い大将には何が何だか解らないが何はトモアレおじちゃんと分かれるのが一番悲しかった。まあ それにしても距離にして三キロ無い位の処だから大した離れては居ない。

多分甚○ェ門には二,三年居たと思うがおじちゃん夫婦には大層可愛がってもらった・・・・・三つ上の姉が甚○ェ門から宇留地小学校へ一年生の頃通って居たそうだ。とすると大将は四歳、いかにキレのある能力の持ち主の大将も理解が出来ずに   オロオロ  だがね、其処はほれ何でも興味を示す大将の事、成り行きを見て察したね。「はッは〜〜ん  小学校へ引っ越す???? 若しかして大将を無理やり学校に入れる算段では無かろうか、と思ったが年端も行かない子供は学校に入れないはず、大将にはおじちゃんの遊び相手としての大きな役目が有り、おいそれと学校なんぞに行ってられないんだが  はて???」  

悩み抜いた末、母親に聞いて見た、返って来た応えは、学校の用務員さん(確か高木さん?だったかな?)が退任されるので交代要員として大将の家族に白刃の矢が当てられたと・・・・大将内心ホットしたのは言うまでもない、まずまず学校には行かないで良いようだ、しかし、毎朝障子の破れ目から覗いて居ると「ぼう、茶碗持ってこ」と言った様な真っ白いご飯に有り付けるのもこれでお終いだナ  
ヤレヤレ

そして或る日(多分新学期時分)大した多くも無い家財道具をリヤカーに乗せて二三往復、「引越しのサカイ」とか、「アート引越しセンター」何かは要るはずも無く運び終え、これまでの倍位の広々とした一間に家族四人が新しい生活を始める事になる、トイレは生徒と一緒、お風呂は相変わらず無い、高台にあるハッツアへもらい湯、夏は大体学校の流しで用水から引いた水で行水ってな処。
まだまだ大将には未知の世界が始まるんだ〜ね    大将五才の頃
後に父親はこの写真を見て「馬車引き ト〜ト」  と言ってたな。写真がちっちゃくて分からないのだがあの頃この年頃の子供達はみ〜〜な俗に言う「青っ鼻」を垂らしてたもんだ。   今でも加藤 茶さんが「かとちゃん ペっ」って二本の指を鼻に当てるとこの写真を思い出すね      
穴水の記憶甚○ェ門から学校編に続く
   
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穴水、甚○ェ門の記憶 (6)

2013-06-21 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

さて、甚○ェ門の生活も終盤、本人も自負する何にでも興味津々の性格が段々芽生えて来た筈なのに、この時期、甚○ェ門での生活の終り頃には記憶が飛んで終う様になって来た。日々の生活がマンネリ化したんでしょうか、はたまた沼津での後遺症が出たんでしょうか、今でも事ある毎に記憶を辿るのですが・・・・・

笹の葉っぱで船を折り小川に流した事、椿の葉っぱを丸めて潰し笛を作った事、田圃のあぜ道に咲く白い狐の尻尾の様な草で笛を作ったり、笹の新芽を一度解いて巻きなおし鳴らした事、熊笹の竹部分で杉鉄砲、もう少し太い竹で水鉄砲、水ポンプ、上級者は竹ひごで鳥かご、枝豆の茎で虫かご、今で言うカラスのエンドウを開き中の豆を取り除いて茎側をちぎって笛に(これはシービービーと言ってた。後に、現、野々市市に家を構えた時、それを子供たちに教えたら明くる日には団地の子供達の中で大流行した)。紫陽花の葉っぱを親指と人指し指で輪を作って乗せ、勢い良く叩くと パン と音がして破ける遊び、オオバコの茎を引っ掛け合い相手のを切れば勝ち、藁ツトを折り曲げ失敬した馬の尻尾の毛で罠を作り、輪っかの内側に稲穂をぶらさげ雀の捕獲、これは貴重な蛋白源で、お袋が出刃包丁の背で骨を砕き、砂糖醤油でこんがり焼いて骨ごと食った。

疎開をしてきた大将の家族、特に母はおじちゃん、おばちゃんの農作業の手伝いもした。大将も幼いながら家庭の足しにと多分4歳かそこいらだと思うが頑張った。六角形の農機具をコロコロ転がし田植えも手伝った、田圃に入る度にヒルに噛み付かれ、アレは少々引張っても取れなくて気持ちが悪かったね。稲刈りハサ干しもやったね。そうそう、風の強い日はハサ掛けに使った竹が ひゅう〜ひゅう〜鳴って恐かったのも覚えて居る   前にも使った写真だがこの頃の大将       パンツはいてんのかな? 父親はこの頃奥能登の輪島か七尾市の建設省かに勤めていたと思う

これは食わなかったが昨日畑の草むしりをしてたらチョット  プヨンプヨン  した小さな卵らしき物を四個発見    蛇かなあ〜〜  そこで      ペットボトルに入れて卵がかえるまで観察する事にした  卵だと言ったが若しかしてキノコかも・・・・

まあ、そんなコンナで田園風景の中、何不自由なく暮らし、遊び呆けていた大将に突然の出来事がこれから起こるんだ
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穴水、甚○ェ門の記憶(5)番外編

2013-06-13 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

本日番外編です
大将の処は自然がい〜〜っぱい   近所で戴いたグミ実から種を植えたのが12〜13年前、数年木前からポツポツト実が付き始めていましたが、その殆どを虫や鳥に食われてしまい人間様は食べられませんでした。

根のところから沢山枝分かれをしてたので去年大き目の枝を二本残し他は切ってしまいました。
ところが今年は実を沢山着けて       こうなって        そして    こうなって    こうなってしまいました  

出来れば完熟を戴きたいですね、結構赤くっても甘酸っぱくて渋みがあり、一番の写真の奥の黄色いのは渋くって辞めといた方がよろしいかと・・・・この少し渋めのグミを食べ過ぎると「どうなるか○ん詰りでしょう」  だからこんなのは鳥も食べないんです、鳥は飛びながら用を足しますが、○ん詰りになったら飛んでるとこじゃなくて、枝につかまって  「うううう〜ん」グミの様に真赤な顔するかもです・・・・・
うちのカミさんジャムにしたら渋みが消えてGooDでした。
もう少し残っているのは小鳥さん達のご馳走になるでしょう

他にクワの実も有りますが、これは「オナガ」が独り占めしています。ちなみにこれもジャムにすると美味しいです
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穴水、甚○ェ門の記憶(5)

2013-06-07 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

   さて甚○ェ門での間借り生活も後半、正月か大晦日かは定かで有りませんが、朝、目を覚ますと外は銀世界「ぺったん、ぺったん」大人たちが釜戸(ヘッツイ?藁を焚いてた)でもち米を蒸し、土間にムシロを引き、臼を据付け水で中を濡らし、モクモクと湯気を上げ、蒸しあがったもち米をあけ、最初は磨り潰す様に杵の手元を持ち、突く様にねじりながら臼を一周、確か塩も入れてたと思う。湯気の向うで力自慢の大人たちが合いの手(手返し)を入れるおばさんとコンビで地響きを立て、調子を取りながら餅をつく、大将叔母さんの指大丈夫かなと余計な心配をしたもんだ。
時々ついた拍子に痛いくらいのスピードで豆や米粒が飛んできて顔に当る、摘んで口に入れるとチョットしょっぱくて何ともいい香りで旨い

甚○ェ門のおじちゃんは頭に鉢巻、背が高くて餅をつくのが上手くて恰好がよい、当時は紺色をしたズボンの様な股引の様な、何と表現したら良いのか、股から上は左右に分かれており、足を通してから<紐の付いた両側を腰で結んであった様に思う、前も後ろも合わさっただけの物、上は薄い半纏様の物を着ていた。叔母さん達は着物にもんぺ

テンポ良くつき上げ、手を濡らしたおばさんが湯気がモクモク、真っ白、アツアツ、つき立ての餅をモチ粉をひいた板の上に放り投げる、バ〜ンと粉が散る、控えていた近所の叔母さんや大将の母親がカキモチ用、ヤキモチ、雑煮用、お重ね、などを手際よく作って行く。幾臼も幾臼もつき上げて行く・・・・と・・・おじちゃんから大将に声が掛る、「ほらボウ(坊)ついてみぃ」杵の柄の長さより小さい大将、重たい杵を持ってフラフラ、つくところの話しじゃぁない、杵が餅にくっついて持ち上がらない、後ろからおじちゃんが手伝ってくれた、みんな大笑い

こうして白いの赤いの、もち草、黒豆、大豆、半殺しって言ったかな(半つき)が出来上がり、みんなでつき立てにアンコをつけたり、黄な粉や醤油をつけたりして食べた。
カキモチはムシロの上で何日か乾かし、藁で一房10枚位編んで納戸に天井から吊るして乾かす。
乾いて来ると「カキッ」と云う割れて落ちる音が間借りしている部屋まで聞こえ、飛んでって生のまゝほうばったかき餅の味は今でも覚えている我が家族にも餅つきの手伝いとして沢山の御餅をもらった事は言うまでもない

上の絵は大将と姉、紐の先に炭を結び雪釣りをする遊びを父親がスケッチ、緑色をした防寒頭巾、実は母親が作ってくれた防空頭巾だったかも知れない、中に綿が入っていた。甚○ェ門の家は囲炉裏だったので焦げ後も有った気がする・・・・、中に新聞紙を入れた藁靴を履いている
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穴水、甚○ェ門の記憶(4)

2013-05-30 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

前回は甚○ェ門の記憶(4)と言いながら母親の七回忌特別篇となってしまったので、今回はお約束の「松下電器電球篇」です。

甚○ェ門での生活は戦後の混乱期、物資不足が大将の家族にもひしひしと忍び寄り、極貧に近い生活が続いて居た頃、食欲旺盛な大将、と三つ上の姉の腹を満たす為に両親は苦労した事と思う・・・・

甚○ェ門全景この鉛筆画は当時御世話になった甚○ェ門を父親がスケッチしたもの、田圃越しの家の右角の出っ張りが我が住み家、左側はおじちゃんが両手で船の形を大将に教えてくれた作業小屋

さて生活困窮余儀なく日々を送らねばならない両親は何としてでも食い扶持を欠かすまいと試行錯誤していた。
父親の兄が、東京駒沢で電気店を営んで居り、当時穴水では一軒に数個しか使われて居ない電球を送ってもらい、これを売り歩き日々の糧と考えた。今思うと多分40W〜60W、いや、20W〜40W位だったかも知れない。
電球は今のダンボールの片面を引っ剥がして厚く残った方のような紙で出来た筒状のものの中(もしかしたらギザギザに折りたたんだものを筒状にした物だったかも知れない)に差し込んであり、引っ張り出すと電球の中のフィラメント・・・・(大将、学があるでしょう?)電球の中に輝くのはフィラメントだなんて当時知ってる人なんてそうざらには居なかった時代だもんね・・・・(んな訳ないか)・・・ガキの大将、知ってる筈も無いよね。
そのフィラメントがスッキリ見えるTYPE、幾らで売っていたかは知らないが、母親は白いズックの鞄に10個程度いれて、大将の手を引き、アチコチの集落を廻って歩く。

家々には大黒柱の下の方に(テスト用ソケットだと思うが)電球をねじこんで点灯するかどうか(当時はキット不良品や何かも多かった事でしょう)試すためのものだと思う、お袋さんが背負った鞄の中の電球も何個かに1個位の割合で不良品が有ったのを覚えている、電球がねじ込まれて行って、廻りがパッと明るくなると大将もこぼれる様な笑顔で微笑んで居たんでしょうか。
又ねじ込まれた電球が何の反応も示さない時は母親の気持ちを察し、悲しさに打ちひしがれても居たことでしょう

お袋さんのあったかい手に引かれた幼い大将は苦労を苦にもせず明るく子供達を育てる大正女の気丈さをハッキリと知ったに違いない
帰り道は近道をする為にススキの穂がカゼにゆられている山肌を歩いた記憶も鮮明に残っている。
其処には榊に似た低木に黒く熟した木の実が着いて居り、甘酸っぱい実をもぎ取って母親の口に・・・・な〜〜んか芝居臭くなって来たぞ

その電球の紙袋と、電球のテッペンに  「松下電器」  と印刷されていました。     お  し ま い
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穴水、甚○ェ門の記憶番外編

2013-05-23 | お山の大将そばバカ日誌
お山の大将独り言の時間です

やっと少し時間が出来ました、気にはなっていたものの一日が終わってパソコンの前に座る前に眠たくなってしまう状況が続いている、今日、明日は定休日。
二三年前からこの時期、風呂場に蟻が出没し気になっていたのでサッシを外し、タガネでテッペイ石を剥がしコンクリートをハツって見た。自宅は二十年目のアメリカンレッドシダーのログ、その中にお風呂を作ってあるので水との相性が悪い事は判っていたが、やはり水が漏れ出し、腐った材木に蟻が侵入していた、簡単ならば天才的器用な大将、自分で修理と思ってはいたが、これでは手に負えないと判断、プロにお任せと相成った次第。

まあ、あんなこんなの野暮用の始末で時間を割かれ余裕が無い上、疲れが残るお年頃、気を付けねばと御自愛に勤めている昨今
先週は母親の七回忌、千葉在住の姉夫婦、東京中野在住の従姉弟夫婦(母親の一番上の姉妹の娘)と弟、そして我々。従姉弟夫婦とは二十二三年振りに会うのだが血のつながりと云うのは不思議なもの、顔を見たトタンから全く気負わずに居られる。

大将、幼少の頃、まだ叔母さんが存命で家を新築したばかりの頃に穴水から家族総出でお邪魔した事がある、元来、天真爛漫で田舎もんの大将、貸し自転車でカンカン照りの中、少々の上り坂を行ったり来たりしている内に目が廻って気持ち悪くなりひっくり返ってしまった。
貧血だね、叔母さんは頭を冷やし、足に座蒲団を敷き、介抱してくれたらしい、叔母さんは江戸っ子で踊りの師匠、スパッ スパッとものを言うので少々苦手感があったのは事実、そして大将その新築の家であの忌まわしい事件を起こしてしまうのです。

新築の家の座敷には当然、窓と云うか障子と云うかがあって、大将それを空けようとサット勢い良くやったトとたん、「ガスッ」鈍い音と共に全員の目が此方に集中、一瞬の静寂、何となく気まずい・・・・母親が飛んできて「姐さんゴメンナサイ」と多分この雰囲気では言ったに違いない。見ると、ねじ式の鍵が半分は抜けていたが半分は鍵穴に刺さったまま、デッパッタ鍵の先で相方の障子のさんを深く引っかいてしまったのだ、大将今迄のアドケナイ天真爛漫な態度から一瞬にして固まってしまった・・・間がわるい・・・やってしまった・・・楽しい夏休みのはずが・・・しばしの沈黙がつづき・・・

其の後何回か叔母さん宅にお邪魔する度この傷を見て反省しきりの大将だったが、この障子の傷は近年従姉弟夫婦によって建てかえられ、やっと跡形も無く消えた事を今回母親の七回忌の折、従姉弟に確認し長年の心の傷から開放されたしだい

今日は松下電器の電球にまつわる話のはずがそっぽへ行ってしまった・・・・では  次回にでも
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