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般若心経咒訳

先週、二ヶ月にわたる二期目の「般若心経」講座が終わりました。

 新たな発見がいくつかありました。その一つは玄奘訳出の特徴は、「色即是空空即是色」といったような空論理の語句の使いまわしにあること。リズムよく軽快に旧訳を改良しています。反面、後半の咒訳の部分は羅什訳そのままなのです。「観世音菩薩・・・」から始まる旧訳は、題名も「摩訶般若波羅蜜大明呪経」となっていて、密教の経典の意味合いを強く感じます。ギャーテーギャーテーの有名なフレーズは旧訳からのものだったのですね。 そこで、この呪の部分を各師はどのように訳されているか比較してみました。

掲諦掲諦。波羅掲諦。波羅僧掲諦。菩提薩婆訶。


伝統的な名訳として受け継がれているのは中村元先生の訳です。

 「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」中村元訳


「往け、往け、彼の岸へ。いざともに渡らん、幸いなるかな」瀬戸内寂聴訳

「自分も悟りの彼岸に行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普く一切の人々をみな行かしめ終わった。かくてわが覚の道は成就された」高神覚昇訳

到れり、到れり、彼岸に到れり、彼岸に到着せり、悟りに、めでたし」渡辺照宏訳

新井満氏は、こだわりに満ちていた旧生命をなげすて、新生命として再生する。彼岸に至り、さとることによって新しいいのちとなって生まれ変わる・・・。そのようなイメージとして呪を訳しています。

「往くぞ往くぞ、彼岸に往くぞ、さとりに至るぞ。おお往った、往った、完全に往った。ああ、よくぞ往ってくれた。めでたい、すばらしい、最高だ。ばんざい。」新井満訳

次は訳というよりは、ここの捉え方の解説である。

「さとり」とは、人間一人ひとりが、永遠のいのちから与えられている「命」が、「永遠のいのち」とひとつになり、「いのち」そのものとして行動することではないかと考える。さとりとは、「いのち」そのものとして考えたり、行動したりして生きていくことなのだと思う。その「いのち」のことを、般若心経は「般若波羅蜜多」と呼んだ。それが「大神咒」であり「無等等」である。「般若心経講義」紀野一義


「さとりよ。おめでとう」という最後の咒言は、観自在菩薩が微に入り、細にわたり、あれこれと「空の智慧が完成されているようす」を説いて来た「般若心経」全体に眼晴を点じた趣がある。空の智慧は、このような感動を呼び起こし、ものみなを育む慈悲の理法なのである。「般若心経」池田魯参

というように、神秘的ニアンスの強い捉え方が、このお経のもう一面の人気なのかとも思いました。



 

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コメント
 
 
 
無事生還しました (kenryu)
2007-06-06 09:04:01
こんにちは、ご無沙汰すみません。
北海道D市にある「D寺フェスタ2007」より昨日帰還いたしました。開基のご命日6月4日に因んで、2~4日の土・日・月曜日、寺を市民に開放した一大イベントの2年目であります。内容は、住職と講師の対談、ジャズ生演奏ライブ、香道、腕輪数珠作り、坐禅体験、精進料理、語り部による歴史紹介、茶道、写経等々、寺の本堂、庫裡を全面開放。屋外ではソバ・うどん、菓子(寺名入り万寿)コーナーのほか、オリジナルTシャツや関連グッズ、出版物販売も。更には「すずめ踊り」の初公演も。
好天にも恵まれ、大勢の方々が訪れ、遠く札幌からバスで来寺された方もありました。運営は、開基家の家臣団の末裔の方々が担当され、檀家の方は裏方として後方支援されているのも印象的でした。(詳細は曹洞禅ネットのD寺HPに紹介されたし)
住職や寺族、スタッフの熱意には大変敬服しました。
 
 
 
→kenryu兄 (tera)
2007-06-06 09:27:50
フェスタ2007お疲れ様でした。すばらしいですね。歴史と伝統を生かして、現代社会に還元することは寺院にとって大切なことと同時に、地域の人に共に守っていく心を育むものでもあると思っています。
とは言ってもなかなかできないものですね。

明日から、大分へ行ってきます。
 
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