撮り鉄ブログ

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鳥羽の海と美杉の山 - 昔日編

2017年05月24日 | 乗り鉄
1968年当時、近鉄は宇治山田で途切れており、志摩線は独立路線だった。

 例によってヨンサントオ時刻表を持ちだして50年前の鉄道の状況を見てみました。
 まず近鉄ですが、当時は大阪、名古屋、京都からの列車は宇治山田が終点でその先に線路は続いておらず、今の志摩線(鳥羽〜賢島)は独立した狭軌の路線でした。 この両者が繋がって大阪、名古屋、京都から標準軌の線路が賢島まで繋がるのはもう少し後の1970年3月のことになります。 


【急】マークが並ぶ1968年10月時刻表の参宮線下り時刻表 

 一方で当時の参宮線を見てみると、下りの鳥羽到着本数だけを見ると29本から24本と2割程度の減少にとどまっていますが、その顔ぶれは様変わりで、東京からの寝台車連結の夜行急行「紀伊」、京都からの急行「志摩」2本、紀伊勝浦からの急行「はまゆう」2本と5本もの優等列車が乗り入れていた華やかな姿から、名称からしてローカルな快速「みえ」と普通列車のみの寂しい姿になりました。 
 因みに急行「紀伊」は東京から亀山までは12両編成で、亀山で関西本線の王子行きの4両と紀伊勝浦・鳥羽行きの8両に分割、後者は向きを変えて紀伊勝浦行きを先頭に多気に向かい、多気では先頭6両の紀伊勝浦行きが先に発車、残された2両(指定席と寝台車各1両)に機関車を連結して鳥羽をめざす・・・という姿だったようです。


名松線時刻表 若干本数が減っているものの、現在と大きく変わらない

 名松線は伊勢奥津発の列車本数は1968年で9本、今8本と多くは変わりません。 考えようによっては現在の家城〜伊勢奥津のサービス水準はローカル線にしては比較的高い方だと言えるのかも知れませんね。