ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

日本版「絹の道」?

2008-12-22 21:50:09 | 着物・古布
写真は「横浜線開業100周年」の記念切手シート。
今日、郵便局へ行ってみつけたので買ってきました。
切手シートなどのコレクターが見たら聞いたら、卒倒すると思いますが、
私は記念切手でも何でも、ジャカジャカ使います。(バタッ、あ誰か倒れた…)
これはバッグに入らなかったので、半分に折って持ち帰りました。

横浜線、と言っても、近隣以外のかたはご存知ないとおもいますので、
ちょこっと場所を説明させていただきますね。
えーと、か~なりいい加減な地図ですが…。
東京・横浜・八王子はだいたい三角形、それぞれJRの路線があります。


   


で、何が面倒だったかと言いますと、新幹線ができてから…。
「新横浜」は、横浜駅とはかなり離れています。
いまでこそ地下鉄ができましたから、JR横浜から市営地下鉄に乗れば、
10分ほどで新横浜に着きますが、以前はまず横浜から東神奈川という
お隣さんみたいな駅まで行き、そこで横浜線に乗り換えると、
八王子方面にちょっと行ったところに「新横浜」があったのです。
今でもこの路線はもちろん使えますが、当時この「横浜線」のダイヤが
少なかったのです。ほんとに不便でした。
こちらが乗った記憶がある車両です、ふるっ。


    


私なんぞはその「新横浜に行くための路線」としてしか印象になかったし、
八王子と横浜のちょうど真ん中くらいに
「町田」というところがありますが、ここは東京のはずれ、
こちらは横浜線より「小田急線」という箱根へ行く私鉄、コレのほうが便利。
そんなわけで、横浜線沿線はなかなか開発がすすみませんでした。

それが、実はかつて八王子が絹の供給地として発展していたころは、
この路線が渇望されていたのですねぇ。
私は、そこまではしらなかったのでこの切手の中に入っていた説明書を読んで、
へぇぇぇと思ったのです。

もともと絹は開国前から重要な産物、養蚕農家の人たちは
自分たちは麻や木綿を着ながらも、せっせと絹を作っていたわけです。
開国して自由になり、国内用はもちろんのこと
外国への輸出品として絹を作るようになって、それはそれは発展したわけですね。
こういうときには、これを取引する「豪商」があらわれるわけです。
絹といえば関東近辺では群馬あたり、長野あたり、つまり「上州・信州」です。
この絹の通り道の途中の八王子が、いわば集結ポイントとなったんですね。
そのルートを確保し、横浜の港から送り出す、ということで財を成した人がいた…
というあたりまでは、まぁまぁ銘仙などの記事には書かれていたりしますので、
八王子も「絹の産地」というのは知っていたわけです。
この横浜線はそのときの豪商たちが「絹の道」に鉄道を敷きたいと、
そう思ったことが始まり、というわけです。

この説明によりますと、1872年に新橋ー横浜間に初めての鉄道が開業すると、
八王子ー横浜間に「絹を運ぶため」のいわば鉄のシルクロードがほしいと…。
最初は「八王子ー川崎間」の武蔵鉄道、という陳情だったそうです。
それは当然のことだったと思います。明治19年のこと。
しかし政府はこの申請を却下!したんですと、なんでかな。
その後も「自分たちで会社作るしー」とか、いろいろやったのですが、
結局認められず、やっと認められたのは明治41年…。
おまけにその時にはすでに中央線ができていたそうで、
結局すぐにお国が買い上げて、今のJR、
つまり近隣住民の利用する鉄道になってしまったわけです。
なんだかなーの話ですが、それでもこの「有力者」達が、
長く陳情を続け、鉄道を敷くことを実行したから今の横浜線があるわけです。
もしこれがなかったら、横浜線のルートはもっと敷設が遅れたことでしょうね。
こちらが今の車両です。まだ乗ってませんわ…。


 


更にへぇぇだったのは、この鉄道を敷くことに情熱を燃やしたひとの一人が
「原善三郎」という方なのですが、生きている間には夢はかなわず、
遺志を継いだ孫娘の婿さんの「富太郎」さんというヒトが鉄道を敷いたわけです。
この富太郎さんが「三渓」さん、えーと昔は名前を変えますよね。
それで本名「富太郎」なんですが、後年「三渓」と名乗ったわけです。
その三渓さんが居を移したのが横浜で、
今に残る「三渓園」を残した、いうわけです。

三渓園は横浜の人間ならだれでも知っていますし、
私も何度か行ってます。明治時代のお金持ちのお屋敷だったというのは
知っていたのですが、それが八王子の絹に深く関わっていたとは、
勉強不足でしたー。もう何十年も行ってませんねぇ。
お正月の人並みがひいたころを狙って、行ってみますかねぇ。


というわけで、絹の現物が全く出てこない「絹」の話でした。
この切手シートは1200円です。
さて、この切手を使って誰に手紙をだそうかな。
こういうシート式ははがしてペタリなのでラクですー。

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10 コメント

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絹が輸出品であった頃 (otyukun)
2008-12-22 23:15:18
トンボさんの、このブログを読んで絹が日本の有力な輸出品であった事を思い出しました。
そんな時代もあったのですね。
四十年近く前、京都の大江山近くにあった養蚕農家の二階で、お蚕さんを飼っているのを見た事があります。
最早、丹後地方で養蚕農家は残っていませんが、私の知人は熊本の絹糸を使って、純国産白生地を生産しています。
室町問屋に卸す価格が六万前後だそうです。
中国糸の輸入を解禁し、国内養蚕農家を壊滅させたお蔭で、普通の白生地は一万円台で手に入りますが、何か納得がいきません。
貧乏な国のみが絹の輸出国になるのでしょうか。
Unknown (陽花)
2008-12-22 23:17:23
絹、蚕といえば「野麦峠」を思い出しますが、
子供の頃伊吹山のふもとで暮らす伯母の家へ
行ったら2階で蚕さんを育てていました。
桑の葉っぱを食べて育つ蚕さんが絹になるとは
フシギでしたね。伯母が育てていた蚕さんも
絹になって通った道なのかしらね~
白糸台 (登夢)
2008-12-23 00:28:11
横浜線の役割は知りませんでした。

私の今の住所は「白糸台」なんですけど、やはり昔、養蚕が盛んだったらしいです。
旧甲州街道沿いに上染屋と下染屋跡が残ってまして、「調布」に納められた布が江戸へ行っていたらしいです。

Unknown (とんぼ)
2008-12-23 02:40:21
otyukun様
一時期輸出品の8割は絹だったそうです。
戦争のおかげて絹はパラシュートに
なったりして…。

絹もそうですけれど、安いからとなんでも外国に頼った結果が、食品自給率40%弱なんてことになったわけで、中国の餃子事件以来今度は急に国産にこだわる、国産は高くてむりなので中国産を国産といつわって売る…。
なんかどこかヘンですよね。絹は食べ物じゃないから、あまり言われませんが、結局は同じことで日本の絹をだめにしてしまったわけですよね。使い分けとか、割合とか、そういうこをかんがえないんですねぇ。
Unknown (とんぼ)
2008-12-23 02:42:21
陽花様
伯母様は養蚕をなさっていたんですねぇ。
私はあの蚕を育てる棚だけ(蚕なしで)
みたことがあるんですが、
たいへんな労働だったろうなぁと思いました。
桑のいいところでいい蚕が育つそうです。
自然ってフシギですね。
Unknown (とんぼ)
2008-12-23 02:46:12
登夢様
私も地元のことなのに、ただの不便な電車
なんていうとんでもない知識でした。
絹は一大産業だったのに、
もったいないことですよね。

地名に糸とか布、桑などがはいるところは、
やはり養蚕業が盛んだったのでしょうね。
絹は税のかわりも果たしたくらいですから、
養蚕業も織物業も、残ってほしかったです。
Unknown (ゆん)
2008-12-23 07:12:48
おはようございます。

 私の住む山も、ご多分にもれず、天蚕が盛んで、あちこちに桑の木やお蚕棚などが残っています。八尾へ運んで、そこから名古屋方面に汽車などの手段で送られたと聞いています。

 義父は今でも「お蚕さんが桑を食む“しゃ~~…“っちゅう音が忘れられんよ。雨に濡れた葉っぱは一枚一枚拭きとってねぇ…。」という話を聞かせてくれます。

 日本は水が美しいから、いい桑、いい蚕が育ったのでしょうね。

 今、私はあちこちの桑の木を寄せて(勝手に採ってきてます、だって、みんな道端の草と一緒に草刈り機で刈り払ってしまうんですもん!)、育てています。大きくなって、身がいっぱい撮れたら送りますね~おいしいですよね~

 
 今度、横浜に行ったら、この話を思い出しながら揺られてみよう!

 
おはようございます^^ (えみこ)
2008-12-23 11:01:30
白糸台と聞いてなつかしくなりました。
子供の頃に住んでいました。調布も集まった絹をあらためる
所があったための言葉だといつか聞きました。
地名にはいわれがちゃんとあるんですね。このあたりでも
最近まで桑の畑がありました。
Unknown (とんぼ)
2008-12-24 04:43:08
ゆん様
お蚕様そのものは、ちと苦手部類なんですが、
飼ってみたいものだと思います。
中国での養蚕を見たのですが、
桑の葉も摘めばいいというものじゃない、
というのをまだ小さい女の子が言ってました。
横浜のシルクセンターに、今度行きたいねぇ。

横浜線はほんとにハンパな線だったんです。
いまはもうかわったでしょうけれど。
Unknown (とんぼ)
2008-12-24 04:46:08
えみこ様
絹がそのまま産業として残っていたら、
今の着物事情は、別の変わり方を
していたんじゃないかなんて思います。

日本の地名はきれいなものも多いですね。
我が家の地域なんて、名前を聞くと
ひなびた茶店のある、脇街道って感じです。

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