「こんな就活もうイヤだ!!」就活くたばれデモ@札幌実行委員会blog

「就活くたばれデモ」は、問題だらけの就活の現状に、異議申し立てするためのイベント!2010年11月23日開催予定!

就活くたばれデモはなぜ生まれたか。(後編)

2010-10-29 14:24:17 | 参考資料

(前半→就活くたばれデモはなぜ生まれたか。(前編) の続きです)


就活の現状は「仕方ないもの」ではない

 多くの大学生は、現在の就活を取り巻く状況をどこか所与のものとして捉えているところがあるが、必ずしもそうとはいえない。たとえば最近の大学生は、学部三年生の秋ごろから就活を始めるが、就活の開始時期がこれほど早期化したのは、かつて大学と企業の間で結ばれていた「就職協定」(「内定は四年生の11月1日以降」とされていた)が1996年に廃止されてからである。これを復活させる事によって就活時期の早期化を防ぐということは決して非現実的な話ではない。これ一つとっても「就活の現状がこうなっているのは仕方ない」と言い切れるようなものではないと僕は思う。
 また、「在学中に就活をしなければいけない」ということ自体についても、批判的に考えることが可能である。海外では大学在学中に就職活動をするということは決して一般的ではないからである。たとえば、ヨーロッパなどでは学生は大学を卒業した後、それぞれ好きな時期に求人情報を頼りに個別に面接や試験を受けるという場合が多い。ではなぜ日本では、大学での勉強をおろそかにしてまで、就職活動をするのか。それはこの国で「新卒一括採用」もしくは「新卒至上主義」というシステム(雇用慣行)が浸透しているからである。
 これは終身雇用を前提とした年功序列制度と一体となって「日本的経営」などと呼ばれ、一時期海外でも注目されていたものである。要するに、新しく大学を卒業するもの(新卒者)を企業がまとめて雇用し、教育していくという方式である。かつては、こうした仕組み自体が奏功したこともあったが、現代では必ずしもそうとは言えなくなっている。しかし、新卒至上主義とも呼ばれるように、「既卒よりも新卒」という風潮(企業文化)はさほど変わっておらず、それに合わせて、就活のレースも横並びで始まることになっているのである。
 このような新卒一括採用方式は、一方で新卒生に有利なように見えるが、他方で新卒時に正社員の働き口を確保できなければ、その後の挽回が難しいということも意味している。バブル崩壊後の「就職氷河期」に卒業を迎えた、いわゆる「ロスジェネ」世代の多くが低賃金で不安定な非正規雇用労働者として生活せざるを得なくなったのは、この新卒一括採用(新卒至上主義)と終身雇用に基づく年功序列制度(これを維持するために大量の非正規雇用が導入された)の持つ排他的な性格の影響といって差し支えない。このように、たった数年卒業年度が違うだけで、その後の人生に大きく影響を与えてしまうというシステムはどう考えても不合理である(これが「世代間格差」の実態である)。そして新卒一括採用(新卒至上主義)がまかり通っている以上、大学生達は自分の適性さえも分からず、十分な社会的経験も積む前から、就職のための準備に奔走しなければいけないのである。学生の本分であるはずの学業に専念することさえできずに。

 そのほかに、地域格差についての問題も甚大である。現在、東京を中心とした関東と他地域との格差は求人倍率などで如実に表われているおり、就職に際して地方から上京するものは多い。その際に関東近辺に住んでいる者と、札幌のような地方都市では、情報の面でも経費の面でも大きな差が生じてしまう。就活における面接は、回数自体が多いにも関わらず(3~5回ほど)、企業側から交通費が出ないことが多いため(特に景気の悪い年)、この経費は自己負担となってしまう。札幌での就活デモに参加したメンバーの一人は、就活を通してどれだけの出費があったかについて、「交通費、宿泊費、食費など合わせて、車の免許が取れるほど(30万円ぐらい)」と語っていた。
 特に今年のように競争が厳しく、就活自体が長引いてしまった場合には、こうした費用が捻出できるかどうかがという事が、就活自体の成否に関わってくる。早い話が、その学生が優秀かどうかという、最も問われて然るべき問い以前に「面接に行く金がないから内定がもらえない」ということも十分にありうるのである。

「就活に対する不満」が表に出てこない気持ち悪さ、危機感

 就活の問題点について、思うままにいくつか挙げたが、他にも「コミュ力(=コミュニケーション能力)」、「人間力」といった曖昧な評価基準によって行われる採用選考など、問題点はいくらでもある。ともかく、ここで僕が主張したいのは、就活というもののあり方は必ずしも自明のものではないということであり、それは個人の問題として還元できない要素をも孕んでいるということである。そもそも多くの人が就活に対して(何かしらの)不満を持っているとしたら、やはり何か構造的な問題があると考えるのが自然であろう。

 そうした構造的(社会的)問題を意識するようになった僕は、就活の現状を肯定的に捉えた「広告」ばかりが目に付くという大学の状況に危機感を抱くようになった。それは、一つに先ほど述べたように「誰もが問題意識を抱えているのに、それが表に出てこない」という不自然さによる。そして、もう一つに「構造的・社会的な問題があっても、それが全く指摘されなければ、個人的な問題に還元されてしまう」という危惧に由来した。昨今の貧困の議論では、構造的な問題が見えづらかった(隠されていた)ために、ワーキングプアやホームレスといった状況が「個人の努力不足=自己責任」とみなされることが多かった。それが変わったのは、野宿者支援の現場で活動する湯浅誠などが、そうした貧困状態を生み出す制度的な問題について告発するようになってからである。つまり、構造的な問題というのは、注意しなければ「当たり前」と捉えられ、不可視化されてしまうことが珍しくないのである。
 そして貧困が自己責任だけでは割り切れない問題を抱えているのと同様に、就活における成否にも自己責任では割り切れない問題点が多分にある。それを告発することは重要ではないかと僕は考えたのである。実際に、就活のセミナーや学生の就活サークルでは「就活を通して自己成長」、「積極的な就活を」といった、あくまで個人の意識の問題として就活を捉えた言説は少なくない。
 よりによって、社会の問題を専門的な知見から正すはずの大学が、就活における「常識」や「慣例」を再生産する場と化しているとすれば、それは危機的なことではないだろうか。そうした問題意識から、僕は友人達とデモを行うことに決めたのである。

 あえてデモという手段を使った事に、疑問を抱く方もいるかもしれないが、最近は既存の政治団体や労働組合とは異なった人たちによって、積極的にデモという手法が用いられている。そうしたデモは、必ずしも堅苦しい権利要求のスタイルをとらず、それ自体を祝祭的な表現の場として楽しむ傾向が強い(「ストリートの思想」毛利嘉孝著などを参照のこと)。今回の就活くたばれデモも、そうしたスタイルを踏襲し、パペットや被り物、楽器などを用いた表現を、意識して行ったのである。


「就活くたばれ」のこれから

 就活くたばれデモを企画した動機について、説明させていただいたが、この「就活くたばれ」のメッセージが捉えうる射程というのは、実は非常に長い。例えば、デモに参加したメンバーの中にも、社会的な問題などは抜きに、単純な感情のレベルで、「就活が気に入らない」という人もいれば(=「就活ってムカつく、めんどくさい」、「面接官が偉そう」)、そうした疑問や不満の元に、就活のシステムの矛盾があると認識して、そのシステムの改善を求める人もいる(=「交通費をよこせ」「新卒一括採用なんかなくなれ」)。そして、さらにそうした矛盾や問題点の基盤として、資本主義や新自由主義のあり方について懐疑的になっている人も、数として多くはないが存在している(=「働かねーぞ!」「ダラダラさせろ」)。個人的には、就活に見られるような人間を「人材=モノ」として扱う価値観自体が好きではないし、絶え間ない「自己研鑽」や「自己投資」を強いるような社会のあり方自体に違和感をおぼえている。それは「就活くたばれ」という主張の中でもラディカルな部類に入るのかもしれない。

 このように、「就活くたばれ」の射程は長いからこそ、多義的であり、ぼんやりとしてしまうこともあるかもしれない。この企画を始めた僕としても、動き出してから色々と見えてきた部分があるし、現状をどうすれば変える事が出来るのか、という代案がしっかり見えているわけでもない。ただし、「現在の就活のあり方は問題だらけのものであり、それに不満を持っている者が確かにいるのだ」ということを少しでも提起し、議論の呼び水となったという感触はある。たった20人足らずの若者が、いち地方都市である札幌の街を歩いただけでインターネット上の話題になったのだから、「はじめの一歩」としては成功したのではないかと自負している。これからも、就活の現状について問題提起する
ため、試行錯誤しながら継続的に行動を起こしていきたいと考えている。

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転載元:「弘前大学 青森雇用・社会問題研究所」発行ニュースレター (手元にないので、何号かわからないんですが、確か2010年の2月ぐらいのものです) 


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