17音の世界をかけめぐる

日々の証を綴ります。季節、人情、知恵など、みなの思いが沢山こめられています。

迪子の俳句鑑賞(2008年9月) 

2008-09-17 21:43:24 | 17音の世界をかけめぐる
夏の秀句鑑賞・・・・・先人が詠んだ夏
                高田 正子
女性俳句の先駆者にして自然体のひと   長谷川かな女
  
     西鶴の女みな死ぬ夜の秋      長谷川かな女
西鶴の女とは、一連の心中物に登場するお夏、おせん、おさん、お七、おまんであろう。むろん相手の男も死ぬのであるが、西鶴の女はいざというときをイニシャティブをとる凛々しい女たちなのだ。
 かな女は芝居を観るのが好きだったようだ。足が不自由だったそうだが、新宿柏木の家に住んでいたころは、芝居見物にも出やすかったのではないだろうか。
 この句は昭和二十年の作。「胡笛」所収。すでに浦和に住んでいるうえ、終戦の直前である。昔観た芝居を思い返しつつ、原作を繙いているのだろうか。男たちは戦場、女たちは銃後で、それぞれ悲しい運命を生きていた。みな死ぬ、実際具体的な事実が身辺にもあっただろう。また自身も女性のひとりとして覚悟を決めていたことだろう。
 つまりこの句は直接芝居を詠んだ句ではない。しかし突飛でないのは、かな女にとってこなれた素材だからだ。夏の退潮を思わせる〈夜の秋〉を選んだのも自然である。夜の一文字が灯りの色を思わせ、おのずと舞台のきらびやかさへ読者をいざなうあたりは、見事としか言いようがない。
    蛇が這ひし跡の草ふむ跣足かな
    埼玉全図風あり青き麦穂立つ
    嘘のやうに銀座に出たり夏浅し
 支障のあった足で久しぶりに踏んだ草、とか転居により好きな銀座から足が遠のいていた、とかいった事情を知らないと正直に読み取れない部分もあるにはある。が俳句はもとより説明する詩形式ではない。かな女は溢れる感慨を吐露するのに何の躊躇もしなかった人ではなかろうか。新奇な素材や言葉遣いを求めるのではなく、身の内にあるデータを惜しげもなく駆使して。         (「俳句」二十年六月号より)


 言葉と語順
         石井ケエ子

「言の葉が初句と結句において水と油ではないか、同じグループに入れてよいかに気を付けている、」卒寿の歌人森岡貞香氏は自己の歌の技法と結句についても異質であれば棄ると。
 続いて「なお最も気を付けているのは語順です、幾度も入れ替えて落ちつくまで推敲する」と。芭蕉のいう「舌頭千転」であろうか。
 「歌を作るのは塔を作るようなものだ、下から作ってゆく」これは聞き手佐々木幸綱氏の言、「大歌人俊成も云っている、歌を書く時は初句を脇に小さく書いておき、全体の姿が決まってから改めて入れる。」と、「現代短歌を作った人々に聞く」公開講座に出た、呟きがふと語順を替えてみて、やや句らしいものになるとよいがと思いつつ帰途についた。
    たましひを投げ打つやうなこゑなりき       

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