快読日記

日々の読書記録

「花野」村田喜代子

2010年09月10日 | 日本の小説
《9/9読了 講談社 1993年刊 【日本の小説】 むらた・きよこ(1945~)》

花野とは、春や夏の花が去った後の秋さびた野、という意味で、秋の季語なんだそうです。
そんなわけで、
女の秋、つまり閉経を迎える季節の話です。
村田喜代子40代後半の作品。

年をとるのはなんだかんだ言っておもしろい、とわたしは常々感じているのですが、その原因のひとつは、村田作品にあります。

「年齢というのはだんだんに道を行くのでなく、かならず小さな川のようなもので区切られていて、その橋を越える。そこでうしろをふりかえり、前をみる。前後の位置の確認である。一つ齢を渡るたびに、ちょっとした気合がいる。(217p)」

5人の女性によって「暁子」という50代の女性の「放浪」が語られるという構成は、一見すると有吉佐和子「悪女について」みたいですが、
「悪女」がそれによって「公子」を立体的・多面的に描いているのに対して、
「花野」は「暁子」がさらさらと人と人の間を流れていくかんじ。
ほんの偶然の出会いによって、互いの人生に小さな痕跡を残したり残されたり、
かと思えば、すれ違うだけの人物が思いがけず深い理解を示してくれるようすも印象的でした。
この世って、そういうところかもしれない。

さて、生きてきた年月が積み重なり、残りの持ち時間が減るときの気持ち、そしてずっと前にいたどこかに帰る日が近づく感覚、想像するとドキドキしますよね。
そこらへんはぜひ知りたいところなんだけど、「暁子」はこんなふうに言うんです。

「本当に大切なことは、人の口からは聞き出せないものなの。口に出してしまうと消えてしまいやすいから。(180p)」


→「人が見たら蛙に化(な)れ」村田喜代子
→「ドンナ・マサヨの悪魔」村田喜代子
→「あなたと共に逝きましょう」村田喜代子