快読日記

日々の読書記録

「弟を殺した彼と、僕。」原田正治

2009年01月31日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
《1/27読了 ポプラ社 2004年刊 【ノンフィクション 手記 死刑 犯罪被害】 はらだ・まさはる(1947~)》


1983年、筆者はトラックの運転手をしている弟を交通事故で亡くしました。
雇主は損害を受けたにもかかわらず、残された家族に何かと親切で、
現場をお参りしたいという老母と兄(=筆者)の案内役を買って出たりします。
ところが1年数か月後、弟は保険金目当てで殺害され、主犯はその雇主と判明します。
最終的に彼は合計3人(筆者の弟は2人目)を殺害した罪で死刑判決を受けました(2001年執行)。

この「半田保険金殺人事件」に巻き込まれた兄の孤独・絶望・苦しみは想像を超えています。
事件発覚後、筆者は身が磨り減るようないくつもの問題にぶつかりますが、誰も助けてくれず、職場では孤立し、家庭は荒れ、ギリギリまで追い詰められ、人はここまで人を恨めるかというほどの憎悪は、他ならぬ筆者自身を蝕みます。
一方、加害者の生活は国が保障し、全国から大勢の支援者の手が差し延べられ、キリスト教信仰を得るまでになりました。
そんなある日、筆者はふとしたきっかけで死刑廃止運動に関わります。
広告塔として利用されていると感じながらも、死刑廃止を訴えます。
そして「犯人を赦すのか?」との問いにこう答えます。
「決して赦さない。だからといって死んで欲しくない。」
地獄の底に突き落とされた被害者の頭上で、国や司法や国民が「今から犯人をそこに突き落としてやるぞ!」というのが死刑なのだと主張します。
被害者感情に基づいて死刑の存続を求める輿論には「被害者感情とはどんなものか、耳を傾けてくれたことがあるか。」と叫びます。
望むのは被害者救済。
崖の上の日常に引き戻して欲しいのです。
犯人の謝罪を受け入れるためには時間がかかります。
そのチャンスを永遠に奪うのが死刑なのだ、と筆者は訴えます。

わたしは、「教育刑か応報刑か」という観点から、この世には取り返しのつかない罪がある、命をもって償う罪がある、と思っています。
この「応報」は被害者からの復讐ではなく、自らが犯した罪に対する報いです。

そんなわけで読後、ぐるぐるといろんなことを考えました。
まずは問題をごっちゃにしないことです。
*被害者に対する経済的保障、精神的支えと周囲の理解。
*死刑確定後は、家族以外と一切交流を持てなくなるなどの現行システムについて。
*そして死刑そのものについて、刑罰とは何かという根本を問い直し、被害者・加害者・執行者などあらゆる視点からの考察が必要。

被害者の立場、というとすぐ短絡的に「自分や家族が被害者だったら絶対赦せない」などと言ってしまいそうですが、被害者の考え方も人それぞれ。
なにしろこの本には、"死刑廃止運動に異論を唱える死刑囚"も登場するくらいです。
本当に、人間の想像力なんて高が知れています。
それが「他人事」である場合、なおさらステレオタイプにはまってしまう。

被害者が実際のところ何を求めているか。加害者を裁く前にできることはたくさんありそうです。