リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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運転免許をめぐって・・・。

2009年09月27日 | Weblog
運転免許の更新に行ってきた。
今回は運転免許制度をめぐるスペキュレーション。

今まではゴールド免許の優良者だったが、今回は一度スピード違反で捕まったためブルーの免許になった。

近くの交番や警察署でも免許の更新自体はできるが、手続きできるのは平日のみ。
交番での更新では講習は別に受けなければならず、また写真も持参しなければならず、即日交付はされない。

そういうわけで今回は運転免許センターまででかけた。
休日に手続きをしているのは2,4週の日曜日のみなので老若男女多くの人が来ていた。

運転免許の更新は3年(初回、普通)、あるいは5年(優良者)ごとである。
誕生日の前後1ヶ月に自ら警察署か免許センターに出向く。
選挙に投票に行かない者でもこればかりは行かざるを得ない。
都会に住み、普段は車は使わず、免許証を身分証明証として使っているだけの人も、更新には行くのだろう。

結果、国家公安委員会に国民ほどんどが管理されていることになる。
これは、わりと恐ろしいことの気がする。
犯罪者など国家のブラックリストに乗っている人に対して網が張られていたりするのだろうか?
内幕を知りたい。

そんなことを考えながら受付をすます。

免許というものは各分野であるが、それにしても人の適正・クオリティを適切に評価するというのは本当に難しいことだと思う。
問題は誰がオーソライズするのかということだ。

医師も免許制で、無事に大学医学部を卒業して、国家試験に合格すれば医師免許は交付される。
医師は不足気味で大事にされているので医師免許が更新制にはることは当面はないだろうが、教員免許は10年ごとの講習が義務付けられ更新制になった。

しかし、知識や、運転の技能は評価できても、態度の評価というのは難しいことだ。
車にのると性格が変わる人もいるし、飲酒したときは厳罰化もありさすがに乗らないが、疲れたときに適切に安全運転を優先させることができるかどうか・・・。
自分にも自信がない。


まず、
「意識を失ったことがありますか、突然眠くなることがありますか?医師から運転をとめられていますか?」
などの質問に答える。

それぞれに、てんかん、ナルコレプシー、認知症などの精神障害などの疾患が想定された質問だ。

しかし、これは自己申告である。たいていの人は、あえてチェックなどしないと思う。
自分の場合も突然眠くなることはあるが、どれにもないというところにチェック。

これらの質問に正直にYesとチェックしたら医師の診断書を求められることになるのだろう。

こういうわけで医師として働いていると患者さんが、運転の可否の判断を求める書類を求めてくることがある

身体障害の場合は、純粋に知識や技能を考慮すればよいし、回復の程度は予想できる。また危ないことはしないだろうという判断が出来る。

きちんと通院できている統合失調症の人に関しても大体のことは言えるし、彼らはまず危ないことはしない。
躁鬱病の人はそもそもそんな書類を持参しないだろう。
てんかんなどの場合は、きちんと薬を飲めているか、最近に痙攣発作があったかなどでリスクは評価できる。
脳外傷や脳血管障害の後遺症の高次脳機能障害の方の場合も病識の問題となることもあるが障害はほぼ固定されており徐々に回復する可能性もある。

結局いちばん多く、そして困るのは高齢者の認知症である。

現代社会に生きる人は、あきらめないことを強いられており、老いや死を恐れアンチエイジングに精を出す。
結果、老化とはあらゆるものを奪われてしまう恐ろしい喪失の過程となる。
これから高齢者となる進歩万歳の団塊の世代ではますますその傾向は強まるだろう。
運転がダメとなったことでガックリして「うつ」になってしまう高齢者もいるから大変だ。

しかし老化にともない身体機能、認知機能は低下するし、認知症の場合は、認知機能の低下が確実に進行するのである。

高齢社会を迎えて、交通事故の加害者・被害者の多くは高齢者である。

さすがに放ってはおけないと制度の改正で認知症になったり身体機能の衰える高齢者には高齢者予備検査や高齢者講習を義務付けられるようになった。
これで高齢者の運転適正のふるい分けをおこなうわけだが、しかしこれも、やんわりと運転しないようにすすめるだけで、法的拘束力はない。

(記憶力・判断力が低くなっていても免許証の更新はできますが、信号無視、一時不停止、踏切不停止といった交通違反を更新の前に行っていた場合または更新の後に行った場合は、警察から連絡があり、専門医の診断を受けるか、主治医の診断書を提出することになります。認知症と判断された場合には、免許が取り消されます。)
とパンフにはある。

しかし現実問題として大型ショッピングセンターの間にコンビニが点在し、人々は車で移動するという車社会にしてしまったため、車がないと地方の生活は大変不便である。
農業だけでは食べていかれないため若者は都会に出て行き、残された高齢者のみが暮らす世帯も多い。

そう考えると簡単に運転のダメ出しはできない。
だから医師としては、ダメともいえないし、いいともいえない。

はっきり言ってこんな診断書の書き方がわからない。

もっともこんな書類で運転可した人が事故をおこしたとしても医師の責任が問われることはないらしい。(問われても困る。)
結局のところ本人がいよいよあきらめたり、事故を起こすまで、誰かがダメだとはいえないように思う。

なので、たいてい

「医師が「残遺症状がないか又は残遺症状は認められるが、自動車等の安全な運転に必要な認知、予測、判断又は操作のいずれかに係る能力(以下「安全な運転に必要な能力」という。)を欠いていないと認められ、今後、安全な運転に必要な能力を欠くこととなるおそれがある症状(以下「運転に支障のある症状」という。)が再発するおそれはないと認められる。」

にチェックすることになる。
要するに「心配だけど気をつけて運転してね。」ということだ。

現実的には、高齢者特に認知症の高齢者には、「家と畑とスーパーの間のみの約束。」「昼間で村内のみ。」「妻を同乗させた場合のみ。」などにしましょうとなどとケースバイケースで相談することが多い。
これとて医師や家族との約束ということで法的拘束力はない。

こうして家族、医師、自動車学校、公安とやんわりとあきらめる方向へ持っていくと同時に車無しで生活が維持できるような生活スタイルへ変更を支援する。

このあたりが認知症の診療におけるわりと微妙かつ重要なところである。

長期的には町のつくりや制度、社会的なサービスも変えていく必要があるだろう。
実際、タクシーとバスの中間みたいなデマンド交通なども広まってきているし、免許を返納した人に、公共交通サービスの補助をおこなう自治体もあるようである。

個人的にはもっとタクシーが見直されてもいいと思う。
なじみのタクシーを持っている高齢者も多い。タクシーの運転手もヘルパーの免許をとったり、介助法などを勉強している人も多い。

障害者、高齢者には移動権を保障するために、通院だけなど行き先が制限される介護保険の福祉移送サービスやボランティアのSTS移送サービスだけではなく、行きたいところに行きたいときにいけるタクシーの利用クーポンを渡せばいいと思う。

そしてタクシーの料金も時間と距離を組み合わせた料金体系にして、プロのタクシードライバーには、地域の地理、歴史、実情などの情報に加え、障害の理解や介助法の習得を義務付ければよいと思うのだが・・・。

このあたりは政治の力で何とかなる部分ではないだろうか。


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つづいて更新料と講習料の支払い窓口へ。

なぜかボランティア団代のはずの交通安全協会の申し込みもが抱き合わせで行われている。交通安全運動などでテッシュなどをあの配る謎の団代だ。

加入は任意ですと小さく書いてあるが、窓口では「交通安全協会にも入られますね。」とあまりに自然に話すので、あまり注意をはらっていないと「ハ、ハイ。」と自動的に入ることになるだろう。
(以前はもっと任意ということを隠されていたようだ。)

どうせ警察官僚OBの天下り先ポストを作っているだけの団体だ。
それも高齢者を扶助する公的扶助の一つではあるといえるのだろうがあまりに公平性に欠ける。
隣で受付していた人は当然のように加入していたが、私は今回は罰金という形でも貢献しているので「それは、いいです。」と断った。

世の中、NHKや日赤など、よくわからない根拠で広く薄く当然のようにお金をむしりとっていく組織が多い。

もっともこんな表に見えているような組織は小物で、グローバル資本主義の胴元・黒幕は他にいる。

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流れ作業のように視力検査に引き続いて写真を撮り、講習へ。

はじめは交通事故の危険と安全運転を啓発するビデオを30分見る。
優良者はこれで終了。
準優良者講習のみ残り、あと30分講義を聴く。
道路交通法の改正点や県内の交通事故の統計などたいしたことは言わない。
自動車学校の学課の一コマみたいなものだ。

そしてICチップが埋め込まれた新しい免許証を受け取って終了。

道路交通法の改正で新たに中型免許というのが出来たそうで、なので普通免許を持っていた人は、「中型(8t)未満限定。」の免許になる。ちょっと得した気分だ。もっとも運転できる車種の条件はこれまでとは変わらない。新しく普通免許を取る人(5t未満)とくらべて制限がゆるいだけだ。
免許が細分化してくると、もとから免許を持っていた人を制限するのは大変なので、元から持っていた人は優遇するということはよくある。
だから古くから自動車免許を持っている人は自動的に大型免許や大型二輪も運転できたりする。
学会の認定医や専門医などの制度でも同様のことはよくある。

さて、次の更新は5年後である。
5年前に今の自分が予想できなかったように、5年後がどんな世の中で自分はどこで何をしているのかすら定かではない。

Wounded healer ~recoveryへ

2009年09月01日 | Weblog
私が大学医学部を卒業したのは卒後臨床研修義務化の年の前年であった。
仲間と自習室にこもり国試の勉強にいそしむ日々。そこでは将来の進路や臨床研修先が話題となる。
私たちの期では大学病院に残らず市中の病院に行くのがブームであり、有名研修病院に決まったものは得意顔であり、なかなか進路が定まらぬものはあせった。
結局、過半数が医局や大学病院での研修を選ばずに全国の市中病院へ散らばった。

医師としての進路を決めていくきっかけは人それぞれであろうが、私の場合は学部6年生の時、地域医療インターンシップで北海道は当時の瀬棚町で村上智彦先生(現夕張希望の杜理事長)が中心の多職種でのチームが地域づくりにつながる医療実践をしている様子を目の当たりにして衝撃を受けたことが大きい。
地域医療はクリエティティブなベンチャーワークであると感じた。
自分も医師として農村や漁村でたくましく生きる人たちのそばに行きたいというロマンティシズムとセンチメンタルなヒューマニズムに駆られた。

いくつかの臨床研修先を検討し、縁があって長野県の佐久総合病院という病院で医師としてのスタートを切った。
「村で病気とたたかう」(岩波新書)で有名な若月俊一先生が育てた田舎の大病院である。
診療所をそのまま大きくしたような病院で「農民とともに」の精神で地域のニーズに応えるべく保健予防活動から在宅ターミナル、救命救急医療、高度医療まで全てを担っている。翌年からはじまる卒後臨床研修義務化に備えて例年より多めに採用された同期は19人もいた。

同じ臨床研修プログラムであってもそれぞれ感じるもの、身につけたものはまるで違うものらしい。
全国からあつまった同期には、疲れを知らぬマシーンのような人や、手技でも学会発表でも要領よくこなす人、目的意識がはっきりしており確実に夢に向かっていく人もいてあせった。

そんな研修の同期も多くが佐久病院を離れてそれぞれの道へ確実に歩んでいる。今でも年に一度は同期と集まるが、佐久総合病院育ちというのが自分たちのルーツだという思いでは共通している。

やがて初期臨床研修後の進路を考えなくてはならない時期がきた。
いくら医療が発展しようとも障がい者や高齢者は地域で生きていかなければならない。
彼らのいのちと生活を支える技術を身につけたいと思った。どんな障がいがあろうとも、その人の役割はたくさんあり、自分らしく生き抜くことができるはずだ。
地道な医療実践は地域づくりにもつながると考えリハビリテーション科を進路として選んだ。

障がいをもちながらもリカバリーを果たし支援を得ながら地域の中でたくましく生き輝いている人もいれば、投げやりになり引きこもっている人もいた。発狂した人もいれば、自殺企図をされたこともある。どうにもならないもどかしさを目の前に医師や病院に怒りとしてぶつけてくる人もいた。

医師になって4年目にそれまで療養型病床として使用されていた病棟を回復期リハビリテーション病棟へ転換する事業にかかわることになった。だれも他にやれる人がいなかったので訪問診療や診療所、精神科や内科でのローテート研修をあきらめ、専従医として手をあげた。地域の第一線での医療への未練もあったがチャンスだとも思い張り切っていた。振り返ると自分には、こういうパターンが多い。根がそそっかしいのである。

回復期リハビリテーション病棟の役割は院内あるいは他の急性期病院からリハビリが中心となる患者を集め、集中的なリハビリでADLを向上させ、可能な限り自宅へ復帰させることである。
かつて佐久総合病院にもいたことのある回復期リハビリテーション病棟の生みの親の石川誠の後をおい総合病院として理想の回復期を立ち上げるのはエキサイティングなチャレンジだったがさっそく様々な壁にぶち当たった。(参考)

しかしそれぞれでバラバラな病棟スタッフ、リハセラピスト、各科の医師などをまとめるのは駆け出しの後期研修医にはかなり荷が重い仕事であった。条件に当てはまらない患者さんを追い出したり、規定の時期をすぎた患者さんのリハビリを打ち切ったりといった仕事は心身に応えた。
また定型書類の作成など苦手な仕事が多く、自分の仕事をするために、最低限の仕事をそつなくこなしたり、上司や同僚に活躍してもらいその機能を活用するというスキルは当時の自分は持ち合わせていなかった。

仕事を奪われたように感じたためだろうか上司はいつの間にか手を引いた。はしごをはずされたような状態の中で一人空回りしていた。意地になって、他の回復期リハビリテーション病棟などへも見学にもき、院内で勉強会を開催したりした。また院内の情報共有をスムーズにしようとシステム科とともに手製の電子カルテもどきを作り導入した。
一方で同期に遅れをとりたくないと毎週の救急外来の当直も続けた。後輩研修医や他科の医師とともに仕事ができる貴重な機会であった。増え続ける救急患者への対応は後期研修医が中心で当直は忙しく眠れないのに翌日も休める体制はなかった。
当直で、入院させた患者を内科各科に頼んで回り、頼みきれない患者は自分で退院までみた。後期研修医は疲弊しており、これでは続かないと同期らと救急医療体制の整備をもとめて改善案を出し、院内や病院の幹部に訴えた。結局、当直回数が増える代わりに当直者数が増やし、きちんとした引継ぎの体制を整備するという見直しをされた。
病院の外へも窮状を訴えていくことになった。
不思議な高揚感があった。

今からみれば、完全な軽躁状態であった。

回復期リハ病棟には在院日数の制限があり、リハビリのゴールを達成し期間がすぎた患者さんや家族へも退院を迫らなければならない。
自宅復帰の条件がととのわず、なかなか退院できない患者さんもいる。
そんな時に院内ではあまり見かけず何しているかもよくわからない上司?が「何をやっているんだ、おれならもっと早く退院させられているぞ。」という言葉をあびせかけてくる。
そして私がいかに仕事ができていないか、人間としてダメであるかを文章や電話で繰り返し言われた。
怖れ怯えて相談もできなくなり、ますます仕事がうまくいかなくなった。患者さんの家族と感情的にこじれたケースで矢面に立たされても、見て見ぬふりをされた。
私が根を上げ、燃え尽きるのを待っているように見えた。

いまおもえばいい経験をさせてもらったのだと思えるが、当時は大変だった。
しだいに消耗し、疲れているのに眠れなくなり、めまいや吐き気、ものすごい肩の張りなど症状におそわれるようになった。
自分のために患者に不利益を与えてはいけないと、なんとか病院に行っても半日かけてやっと病棟へたどり着き、そそくさと回診し、患者の前からも逃げるように立ち去る毎日であり、発作的に何かしでかしてしまいそうな衝動に繰り返し襲われた。
院内PHSがなるたびにビクビクしていた。
自分にまとわりつくすべてのものがうっとうしく、世の不幸はすべて自分が原因であるのではないかと思った。
コンビニでは商品の発する、「買え、消費しろ、繋がるな。」というメッセージで頭がクラクラした。
私がいまあるいは過去に所有したものがすべて自分に襲いかかってくるような気がした。申し訳なさで一杯であった。
何から手を付けて良いかわからず優先順位は狂い、多様な選択肢も見えなくなり、死を思うようになった。コミュニケーションを拒絶する上司を呪った。うかつに動けば危ないと毎日ぐったりとしていた。

今からみれば、完全なうつ状態であった。

なんとか生き延びることができたのは、同期や同僚、先輩があたたかく見守ってくれたおかげである。
ソファーでぐったりしていると「何かしそうになったらいつでも必ず俺に連絡をしろ。」と言ってくれた先輩もいて涙が出た。
うつを経験した小説家兼呼吸器内科医の先生のお話もありがたかった。食事に誘ってくれた大先輩もいた。
救急外来から入院させた患者さんも同期がかわりにみてくれたこともあった。(最後まで自分が診ると抵抗したが、「そんな状態で診られる訳ないじゃないの。」と厳しくいわれた。危なっかしくてみていられなかったのだろう。)
「先生は面談にでてくれるだけでいいから」、とケースワーカーも退院調整などで動いてくれた。
患者さんや障害をもちながら地域で暮らす人たちにも元気をもらった。

同期の後期研修医がリハビリ科にローテートしてくるのを待ち、地域ケア科(在宅医療福祉部門)に移らせてもらった。
重い体を引きずりながら病院に向かい、負荷を減らし訪問診療中心の業務に関わらせてもらうなかで、たくましく地域で生き、そして旅立っていく患者さんに癒されていった。
少しずつ周りのものを整理して、自分のできないこと、苦手なことは他人に任せられるようになった。そうして徐々に立ち直っていった。

その後も相変わらずアイドリングは不調で、どうにも無理のきかない身体になってしまったが、こうした経験を通じて物事がよく見えるようになった。
医師をやめることもかんがえたが、結局、佐久病院を離れ他の総合病院の精神科に移った。
精神科医療には自分が学ぶべきものがたくさんある気がした。
セルフケア、患者との距離のとりかた。依存させないパートナーシップ型の医療。自分のコントロール願望の扱い。精神障がいという見えない障がいや、家族を含めその人を取り巻く環境、生活史のアセスメント。多職種でのチームアプローチ。医療の枠組みに収まらない患者さんとのかかわり。どうにもならないことにも逃げない不逃力、そして自分の内外の差別や偏見との戦っていくこと、などなど。

よろず相談所的な精神科医療はあまり切れ味のいい武器もない中で「あらゆる問題について使えるものは何でも使って何とか解決を付けようと考える、そして解決できないものでも中腰で耐えながらかかわり続ける。」というスタンスにおいて医療の原点ともいえる。そしてその現場では社会の抱える問題点などがよく見える。人の弱さと向き合う診療ではつねに自分の弱さを自覚させられる。

グローバル資本主義経済はメディアを通じて「あきらめるな」と言うメッセージを絶え間なく発し、進歩はあるが調和のない科学技術とあいまって人と人とのつながりをバラバラに断ち切ってきた。マイカー、コンビニ、ショッピングセンター、携帯、インターネットなどでバラバラにされた個人は消費者と名付けられそれぞれにモノを買わされ、連帯して文句を言うこともない。一方で老いや死、障がいなどは忌むべきものとしていつも人々の見えないところに隠されひっそりと処理されてきた。

しかしいろんな弱さをもった障がい者が地域で堂々と生きていくということには、弱さを絆として人々を結びつけ、バラバラになった地域社会を紡いでいく力がある。
社会を「みんなちがってみんないい」、どんな障害があっても安心して生きていけるユニバーサル社会へと変えていく力がある。老いや死、障害とともにある生活を医療の側から支える。
病院で見える地域社会のニーズをそのままにせず運動にまで高め実践する。

それが私のたどり着いた医療実践である。にぶくなることなく、めげずに続けていきたい。