真実の扉

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愛国心について(愛国無罪に思う)

2005年04月20日 23時04分39秒 | 愛について
 今回の中国の反日デモで、「愛国無罪」という言葉を見るようになりました。中国では愛国心に基づいた行動は、たとえそれが法に触れていても罪に問わずに許されるものと解釈されるのだそうです。しかしそう言うことを肯定すると、中国が言う日本の数々の侵略戦争(私もまったくそれを否定してはいませんが)だってすべて愛国の為した技、ということになってしまいます。(本日の文書、ちょっとなが~いですよ)

統一されていない愛の観念

 私たちは「愛」という言葉を簡単に使いますが、愛とは一体何かということを多くの人が同一の観念として持っていないのです。本当に厳しく愛を捉えると、アインシュタインが危険なナショナリズムと言った「愛国心」という言葉は実は純粋の愛とは懸け離れた存在ともいえるのです。

 「愛」の解釈が間違っていたら、愛は崇高なものとの観念だけは一致していますから、すべては愛の下に許され、それは取り返しのつかない結果へと向かいます。
 愛とは何かを考えながら、愛国心についても思いを馳せてみましょう。

 以前、「お金のない社会」で紹介した 「アミ 小さな宇宙人」(徳間書店)での会話に「偶然? それどういう意味? われわれの言葉にはそれに相当することばがない」という一節があります。
 これは世の中で起きる出来事にはすべて理由があることを当たり前としているユートピア社会では、「偶然」そのものが存在しないので、当然そういう概念も言葉も存在してないということを意味しています。
 実はこの中に真理探究のための重大ヒントが隠されています。

 たとえば「自由とは何か」という問題を考えるときも同じです。
 世の中はすべて、 「ある限定されたもの」 を指し示すとき 「そうでないもの」 の存在が必要となります
 ある限定されたものだけで世の中があふれている場合、そのものの存在自体を指し示す必要がなくなるのです。そこにある存在がすべてであり唯一なら、限定されたものも存在しないこととなり、そういう概念という制限自体がなくなってしまうから「そうでないもの」の存在が必要となるのです。

言葉は物事を限定することでその役割を果たす

 言葉は物事を限定することでその役割を果たしており、概念は言葉によってさらに具体化されたものです。

(たとえば、私は男性で、年齢は幾つで、家族構成はどうで、身長は、体重は、趣味は・・・・ と続けば、私はどんどん具体化されます。しかし、肉体を取り除いた真の私の実在からはどんどんと離れていくのです。これは換言すればこういうことです。
 目の前に目に見えない真理があったとします。でも、その真理に水をかけて、さらに砂を掛けたら真理が姿を表しました。しかし見ているのは真理でしょうか? もちろん違います。真理が着ている砂なのです。私の実在と私が着ている肉体と同じ関係です。
 私たち三次元の人間は、自分たちの実在を直接感じとることができないので、五感という三次元レベルで接触してお互いの実在のエネルギーを感じとろうとしているのです。言葉も、視覚や聴覚で読み取られます。書物など、言葉でものごとを説明するものも同じです。言葉は現人類には最も手軽で便利なコミュニケーション手段です。しかし、残念ながら言葉はこのような形而上のことを具体的に書いてみようとしたとき、実在を直接語れないという宿命をもちます。これは避けられないことです。双方が同じ理解をしているにもかかわらず言葉に出してしまうと噛み合わない、ということもよくあることです。)


 本来、私たちが観ているもののすべては形付けられたものであり、反映であり幻想とも言えるのです。
 実在は〝唯一の私〟である宇宙創造神であり、唯一の存在ということ、すべては1つということ、それは愛そのものと言えるのです。ですがそれですと〝私〟という認識自体がなく、他者の認識も無く、他者を愛するという学びの場も無く、そもそも自他一体の愛とは何かを学ぶ「葛藤の場」「試練の場」も無いのです。それがすべてだからです。
 そこで宇宙創造神は自分という唯一の実在を分割したうえで、その周りに「自分以外の存在」と思わせるための「幻想(反映)」 を作り、映し出していると言えるのです(ビッグバンの物語)。 

 ちょっと理屈っぽくなりましたが、話を戻しますと「自由」という言葉の存在にも、そこにすでに「不自由」があるという前提があります。
 もしもこの世に不自由がなかったら、世界が真の自由であふれていたのなら、自由それ自体を知ることができないのです。相対するものがないという状態にあるとき、自由という言葉も概念も必要なくなるのです。

 しかしそこに不自由があったから、不自由でない状態を自由と呼ぶことにしたのです。
 宇宙(創造神)的には、はじめに自由があったのですが、私たち(神の分身)的には不自由という世界からスタートしたのです。

 まだ人類は不自由の経験を卒業できず、人類の誰もが完全な自由というものを体験していないのです。私たちは不自由の経験から自由という概念をつくりだして、未経験の自由という言葉を日常的に使っているのです。私たちの世界では自由の生みの親は不自由となるのです。
 私たちの無意識が「自由とは何か」ということを考えはじめたこと自体が、不自由を経験しようとする創造の世界に足を踏み込んだと言えるのです。そして実際、私たちは不自由を創り出し、不自由から経験を始めることで、真の自由の世界を計り知ろうとし、それを創り出そうとしているところなのです。
 意識の進化の根源を司る宇宙創造神の立場から言えば、無制限の「愛」を知るために、私たちは制限のある偽りの愛(愛国心)の中で、問題を起こしてもらっているとも言えるのです。

愛と愛国心

 愛って何?
 愛を最も端的に言えば、大きく二つの要素で言い表すことができます。ひとつは「成長を促しサポートする意識」で、もうひとつは自分と他人を分離しない「自他一体の心」を生み出している意識だと思います(まず自他一体があっての話ですが… )。先の「ビッグバンの物語」が愛の物語の始まりとなります。

 その愛の観点から考えて観ますと、無差別であり無限である正しき愛をもってして、愛国心を的確に説明できないのです。つまり〝他の国〟を愛した上で、なおも特定の〝自国〟を更に愛するという愛国心という心の状態を、どうにも明確に「自他一体の愛」の心の下で説明することができないということです。

 「愛は唯一絶対の実在であり愛こそがすべて」ということからは(「偶然」や「自由」と同じような比較はできないですが)、愛という心の状態がもしも普通の日常的なものとなっていたのなら、この世に愛だけが実在していたのなら、とりたてて愛という言葉自体必要としないのです。私と私を取り巻く命を分け隔てなく愛する心こそが唯一絶対の愛であるからです。

 愛という言葉が存在していること自体、愛でない心の状態があるということの裏返しなのです。
 同じように「愛する国」があるのなら「愛していない国」も存在していることになります。愛には本来差別がありません。それなのにさも他と差別すること、他よりももっともっとある国や、ある人を愛することが愛の証だと考えている人が余りにも多いということです。
 
 ひとつの「愛する国」を更に更に愛することは、他への愛が同時に深まらないと差別心は更に深まることとなります。
 「愛国無罪」も反日、日本差別が自国をより愛することであるとの認識下にあるものであって、これは愛とは呼べないものです。

 ちょっと思考が深くなりましたので、ここで母性愛と比較してみます。
 母性愛は絶対意識の愛(愛は肉体に無く神の御許から流される無制限の意識)と、母親の本能(肉体に付随した特定の無意識)との合体ですが、愛国心とは、愛と何の合体でしょうか。
 母性愛という無意識―神が肉体に置いた本能と、神の御許にある愛との合体である母性愛は、愛本来の意味をそのまま生かすことができるのです。つまり、愛と母性は神の直接の創造物としてあるのですが、愛国心は「一定の国」「限定された国」を愛するということで、いわば人間の「意識下」のエゴと愛との合体という一面もあり、本来の愛をゆがめ兼ねないのです。そこにはどうしても反目が生じるのです。愛はエゴをサポートしないからです。

自分を愛するように他人を愛する

 母性愛や父性愛などの様々な愛は、愛が無意識の本能と交わることで現われる愛の多面性です。しかし未熟な意識下の想念と合体している愛国心はそうではないのです。
 「愛する国」「愛国心」をことさら強調するとき、それは自他一体ではなく、国と国との分離を強調する落とし穴に落ちるのです。人であっても、会社であっても、民族であっても、国であっても、地球であっても、生命の組織というものは全体のなかの役割にしか過ぎないのです。
 国という分離意識が入ったとき、それはすでに愛ではないのです。
 イエスは「自分を愛するように他人を愛しなさい」と言いましたが、自分の国を愛するのと同じように世界の国々を愛し、そこに住むすべての人々を愛するという無差別の意識に変わらなければ、厳しいようですが本来の愛とは呼べないはずです。

 私たちが日本しか知らなかったときは、愛国心は立派な愛と言えても、他の国と交わり出したら意識は他国愛、人類愛・地球愛に変換され、やがてユートピア到来のときは他の星界人の人々と触れ合うのですから、星々を含めた宇宙愛へとさらに愛を成長させなければ、新しい地球への掛け橋から振り落とされるでしょう。
 愛国心であれ、ナショナリズムであれ、パトリオティズムであれ、「~より~をより愛している」という〝上下の分離〟にはすべて、そこにエゴがあるということを認識していた方が良いと思います。
 もちろん、地球上どこを探してもそんな人間はまだいないかも知れませんが、愛国心を現代の間違った愛の解釈の中で固定して盲信しては、必ず間違いが起きるということです。
 愛国心の領域をより大きな愛への成長へのひとつの段階としてとらえ、自分の心を成長させたいと思います。

 韓国や北朝鮮の民族意識はとても強いようです。そしてそれこそが愛国心だと間違った考えを植え付けられています。

 韓国に住む作家の金完燮氏は著書「親日派のための弁明」(草思社)でこう言います。
「韓国の子供たちは毎日国旗を見ながら胸に手をあてて、『祖国と民族の限りない栄光のため、身も心も捧げて忠誠を尽くすことを固く誓います』と、ぞっとするような全体主義の誓約をしなければならない。このような全体主義的行為は、自分が属している集団(国家、地域、組織)の利益のためなら、他の集団の利益は犠牲にしてもやむをえないという考えを植えつけることであり、危機が迫ったときにはファシズムの狂気を吹きこむことができるという意味で、実に危険なものである。」「祖国とか民族というスローガンは、支配者がみずからの利益に奉仕させるために人々を欺く嘘であることが多い」
 皮肉っぽく言えば、国をまとめるという意味では、韓国や中国の「反日思想」も大いに役立っているのです。

 人類は愛国心を学ぶ前に愛を学ぶ必要があるのですが、愛国心という歪んだ愛がもたらす相克を体験して、私たちは真の愛を求めるのも事実なのです


日本の平和を願う心が正真正銘の愛であるためには、
必ずや世界平和のいざないとなるこの国の役割を重んじ、
この国が真の心の平和と豊かさを獲得することによりその役割を成就し、
世界のすべての国々が日本を手本とし、
幸福をもたらさんことを願う純粋なる愛の発露となるものでなくてはならない。
それが神の、そして本当のあなたの、意思である。

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今日の記事は宇宙学の月刊誌「宇宙の理」2002年12月号に載せた記事を元にリライトしたものです。
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4 コメント

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Unknown (そら)
2005-04-21 15:26:50
こんにちは。

今日の写真もとっても素敵ですね。こんな中で遊んでみたいものです。

とても難しい問題を言葉できれいに表現されて、すばらしいです。

本来の「愛」には差別などはないはずですよね。

でも現実には本当の愛はまだ見ることはできませんね。

いつか国境も何もない、同じ人類として愛し合えるそんな日がくることを願います。

Unknown (とびら)
2005-04-21 23:14:21
そらさん、こんにちわ。

ほんとにこの絵はいいですね。



>本来の「愛」には差別などはないはずですよね。

>でも現実には本当の愛はまだ見ることはできませんね。



そうなんです。そこが表現のむずかしいところですね。

「人類は愛国心を学ぶまえに愛を学ぶべき」と書きましたが、

これは学問的に倫理を学ぶ上での話で、実際には愛国心で躓くことが、本当の愛を育む過程になることが多いですから。



国境がなくなっても、それぞれの民族が人類全体の、それぞれの役割を持ち、それぞれが互いの役割を尊敬するという時代ですね。

そんな時代に、みんなで一緒に行きたいですね。
Unknown (ultra3040)
2005-04-21 23:55:08
こんばんわ。

TBありがとうございました。

今日の写真は鵜飼のように見えました。いいですね~



愛は難しいですね。ある日突然、わかると言うような物かもしれませんね。頭で理解するというより。

世界中が愛を知るようになるということは、世界中が絶望するようになるということかしら!?なんて思ってしまった。。
Unknown (とびら)
2005-04-23 13:02:11
こんにちわ、ultraさん。



愛は確かに難しいです。だってそれを極める為にこの世に生まれていて、極めていないから肉体を羽織っているのですから。

でも最低限のところ(入り口)だけでも抑えておきたいですね。

でないと一切の応用問題は解けないでしょうから。



>世界中が愛を知るようになるということは、世界中が絶望するようになるということかしら!?なんて思ってしまった。。



そういうことでしょうね。原因を考え、自分の心をみないと絶望は回避できないでしょうね。またお寄りくださいね。

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