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第2回高松国際ピアノコンクールを定点観測している。

一般人による、一般人のための国際ピアノコンクール入門、を目指します。

コメントを下さった方、または当ブログを見てくださった方へ

2010-03-30 18:42:43 | 日記
 こんなとびきりわがままなことばかり書いているブログにかかわってくださり、本当にありがとうございました。
 コンクール開催中、あれだけ大量の文章を書きまくろうと思えたのは、自分の書いた文章に対して何らかの反応が即返ってきたこと、アクセス解析を見てもこのブログを見てくださっている人が日を追うごとに増えていることが分かったこともすごく大きな要因でした。それがなければ、もともと作文が苦手で、今までいくつもブログを放棄してきた私のことですから、開催期間中に飽きていたかもしれません。とてもありがたいことです。

 それにしても、あの期間中、同じ場所で同じものを聴き、その感想を言い合える人がいることがこれほど楽しいことだとは、始める前までの想像を超えるモノでした。一部の人を除き、お互いが全く面識がないというのも、これだけネットが発達した時代でなければありえない出会いだったというのもまた面白い。

 もうあの時ほどのアクセスは無くなるだろうと思いますが、これからももうちょっとだけ公開したい文章がありますので、もしよろしければ今後とも見に来てコメントを下さるとありがたいです。

 それではまた。

祭りが終わった。

2010-03-30 18:16:26 | 日記
 結果発表から二日たちました。

 さすがにコンクール開催中のような元気は出てこないです。3月17日から28日の12日間は、大げさでなく、私の人生の中で最も大量の文章を書きまくった期間でした。「感動」という言葉は基本良い意味でつかわれることが多い言葉ですが、漢字の意味に忠実であれば、怒り、失望、疑問によっても「感」が「動く」のであり、あの大量の文章を書き散らしていた間、そういった意味でポジティブさもネガティブさも併せ持った「感動」に良くも悪くも突き動かされていたと思います。

 そして今、あらためて第二回高松国際ピアノコンクールを振り返ったとき、私がこの場で書いてみたいことは「コンクールありがとう!次回も楽しみ!」という気持ちではなく、「あのコンクールは何だったのか?」「このままで良いのか?」「現代日本においてクラシック音楽の存在意義は?」とかそんなことばかり考えてしまい、収拾のつかない状態にあったりします。

 しかし、私はまさにそれを考えたいがために本コンクール全日程を、それこそ開会セレモニーまで含めて全て、ホール内で一般客として立ち会ったわけなので、この私の中にある複雑なモヤモヤを何とかして書き表してみたいと思います。


 次の更新はいつになるか分かりませんが、一つだけ今はっきりと言えるのは、


 高松国際ピアノコンクールは、21世紀の日本における鹿鳴館の一つに過ぎない


ということです。

音楽性より協調性、お粗末な本選

2010-03-27 22:01:58 | 日記
 最初に舞台の演奏者を見てびっくり。なんと、知り合いのアマチュア奏者が混じっておりました。プロとしての活動はおろか、音楽大学も出ておらず、本職も音楽とは全く無縁。そんな人が、しかも公式パンフレットにも名前が出ていなかったわけですから、最近になって予定メンバーが欠け、その代打となったのでしょう。あとで本人に確認を取ってみると、あの伴奏メンバーは4割がロイヤルチェンバーオーケストラ、4割が正式なプロフェッショナルでは無い瀬戸内フィルハーモニー、残り2割がセミプロですらない高松交響楽団とのこと。正確な比率ではないでしょうが、このようなレベルの、しかも急造オーケストラが伴奏なんて、一体運営部は何を考えているのでしょうか?これでは、独奏者ごとの音楽の組み立て方、ニュアンスにしっかりとついていくことが不可能ですし、順番が前と後では「こなれ方」がまるで変わってしまいます。公平な条件ではなくなってしまいます。

 結果として、予感は的中。前半は独奏者とオーケストラの連携が全く取れておらず、音楽性だの表現力だのを聴き比べる以前に、音楽としての形を成しているか否かというレベルの争いにまで引き下げられていました。これが本選、馬鹿にするにもほどがあるというものです。

No.19 マリアンナ・プリヴァルスカヤ

トップバッターで、しかも演奏曲はアンサンブルがただでさえ厄介なラフマニノフの2番。本人のせいなのか、オーケストラのせいなのか判別つかないほどのひどいズレ具合。音量バランスも悪く、ピアノの音が聞こえないこともしばしば。3楽章はもう聴いているのがつらくなるほどで、ピアニストのテンポ感が完全に消失してしまっていて、何を弾いているのか全く分からないほどです。

No.23 ダニイル・ツベトコフ

冒頭、ピアノが入る前のホルンがまず音を外す。その後の単純な四分音符、ピアノとオーケストラ、ちゃんと聴きあっていますか?というくらいのズレ具合。
ピアニストもピアニストでいらだっているのか、どこまでも音が硬質で、チャイコフスキーなのにまるでプロコフィエフのよう。豊かな曲線を描かず、どこまでも鋼鉄の歩みでした。

No.25 ゲオルギー・ボイロチニコフ

この辺からようやく、オーケストラとピアノが極端にずれるということは無くなった。
チャイコフスキーの一番はどっしりとしたテンポでゆったりと。こういうロマンチックな流れを生み出すのはさすが得意としているだけのことはある。しかし、途中に現れる高速で左右交互のオクターブは、信じられないくらいたどたどしく、音楽的な流れを明らかに妨げていた。それが影響してか、その後あきらかに空回りしている印象。音楽に説得力が無く、せっかくのエネルギーが無駄に垂れ流されているようにさえ感じた。

No.28 アレクサンドル・ヤコブレフ

アンサンブルがシンプルなベートーヴェンを選曲したことが結果的に作戦勝ち。出だしから安定していたので、安心して寝ました。

〇No.33 リー・ユンヤン

決して、傷が無いわけではない。もっと完成度の高い演奏は本選以外にあった。それでも唯一、聴いていて音楽に素直に入り込むことができた演奏だった。
ピアニストがつけるテンポの緩急が決して恣意的ではなく、合理的であるためか、No.19であれだけバラバラだったアンサンブルが見事に決まる。オーケストラの様々な事情を考慮しているかのように、自分勝手には弾かず、しっかりと伴奏と協力して音楽を作り上げていた。本来なら、本選まで残った演奏者はすべてこのラインは守った上で表現力勝負をして欲しかったのだが…

No.34 石村 純

3次まで常に独特な存在感を出し続け、何かしら意識せずにはいられなかった演奏者だったが、本選にきてそれまで有利に働いていたものが次々と裏目に出てしまった。
音色は相変わらずゴージャスだが、チャイコフスキーを演奏するにはやや深みや柔らかさが足らず、直前の演奏と比較するとどうしても足りないものの存在が浮き彫りになってしまった。
また、協奏曲をする上で我の強さが悪い方向に作用してしまい、冒頭の四分音符からもうオーケストラの音を聴かずに前進してしまうような未熟さを見せてしまった。
音楽をやる上で、個性や意思は大切だが、ある面では音楽に奉仕するためにそれをうまく捨てなければならない。それができるかできないかが、最後の最後で明暗を分けてしまった印象。


ここまでが、ほとんど舞台裏を知らなかった状態での感想。


ここで、件の知り合いからの舞台裏の情報。

オーケストラのレベルは決して通常のプロと引けをとるものではない。しかし、昼頃からは疲れが出始め、ミスを重ねた。
No.19は練習中は特に要望を伝えなかったのに、本番では、いきなりルバートをかけたり音を小さくしたりで、あれは超一流オケでもない限り対処は無理。
まともに演奏できたのはNo.33くらいなもので、他の人は皆アンサンブルしなさ過ぎる、

とのことです。

一応、この情報もつけておかなければ不公平だと思いましたので。

勝手に盛り下がっている私

2010-03-26 21:28:51 | 日記
 1,2,3次と全ての演奏に接し、明日はとうとう本選というときになって、今の私の心境は、明日の演奏はどうなるのだろう?優勝者は誰になるのだろう?という風に興奮するのとは、真逆の位置にあります。なんか色々考えてしまって気になることが多く、素直に楽しめずにいるのです。

 まず気がかりなのは、落選した人たちは今後どうなるのだろうか?
 1,2,3次それぞれで、私が好きだった演奏者のうち何人かは落ちています。彼ら彼女らは、これからどのような音楽活動を展開するのだろう?ピアニストとして飯を食っていけるのだろうか?仮にそれができなければ、それまで途方も無いほどの時間とお金をかけた「出資」は、いわば無駄になるのだろうか?何より当の本人はそのことをどう感じるのであろうか?覚悟してこのいばらの道を選んだのであろうか?
 コンクールとは、言わばコロシアムと同じで、観客の見守る中、ピアノを使った戦い、いや、殺し合いのようなものだ、というのが、今の私の実感です。このコンクールの中だけではなく、演奏者はそれぞれこの舞台にいたるまで、どれほどのピアニストとしての生存競争を勝ち上がってきたでしょうか。その競争は一体どこまで続いて、どこまで勝ち続ければよいのでしょうか。「他人ではない、自分との戦い」なんて半分は嘘です。聴衆はそれほど多くのピアニストを求めてなんかいないのですから、その「求められるピアニスト」の数少ない椅子をぶん取るべく、多くの「ピアニスト志望者」が壮絶な戦争をしていることは事実なのです。周囲のレベルが上がれば上がるほど、同じレベルの演奏をしていたのでは価値が暴落していくことを考えると、たしかに競争相手に対して直接攻撃できないという点では「自分との戦い」ではあっても、評価の相対性という点では「他人との戦い」なのです。つまり、音楽の世界といえども、一般社会と何一つ違いはありません。
 私にとって、もう2次で「しぼりこみ」は終わっていました。あとは、演奏者それぞれが自由に演奏してもらいたい、もうこれ以上優劣を競わなくてよい、とかなり本気で思っていました。しかしコンクールはまだ続きます。私にとって大切な演奏者が「劣」と評価され、消えていくのを見るのが、つらくてたまりません。


 もう一つは、このような催しを香川で開くことにどれほどの意味があるのだろうかということ。パンフレットには「香川県は音楽大学に進学する人材の人口比率面で日本のトップクラス」なんて書かれていますが、その音大への香川一の予備校的存在の高松第一高校音楽科は2年連続定員割れを起こしている有様。「クラシック音楽に対する関心が高い県」のはずが、まともなプロのオーケストラ一つ持つことすらできない現実。
 このようなことに限らず、香川がいかに音楽的な環境が貧困であるか身をもって味わっているだけに、こういうちょいと金をひねり出せば出来るお祭り騒ぎなんかで浮かれることはとてもじゃないが出来ないのです。
 クラシック音楽を楽しむのは、流行歌を楽しむのとは比べ物にならないほどハードルが高く、しかも流行歌ほど分かりやすい刺激はほとんどありませんから、これから先の日本は、ますますクラシック音楽を楽しむ余裕が時間面でも金銭面でも無くなっていく事でしょう。コンクールを見ていると、無性にそんな現実も感じられてしまい、何やらナーバスになっていきます。

 この催しが単なるお祭り騒ぎで終わるか否かは、結局これからの香川県民がどうであるか、ただその一点にかかっているだけで、それを考えると、明日の優勝者が誰になろうが、たいした問題ではありません。

そんなわけで、私は明日も聴きにいきはしますが、あんまりワクワクはしていないです。

第2回高松国際ピアノコンクール第3次予選

2010-03-25 18:58:10 | 日記
 私にとって1,2次よりはるかに聴くのがしんどい予選でした。

 その理由の第一に藤満健の《栗林の四季~庭園にて》これがものすごくつまらない。弱音でポツンポツンと奏でる和音、拍節にとらわれない間で自然でも表現しているつもりなのでしょうが、そんなものは武満徹あたりから吐いて捨てるほどある現代音楽のステレオタイプそのものです。さらに興ざめなのは、激しい指使いを要求される強奏部へと移行する様に何の必然性もないこと。演奏者の技量を測ることを目的としているのがみえみえ、栗林の自然のイメージなど一切感じ取れませんでした。それとも、作曲者は夏に栗林公園を訪れたそうですが、その日に台風でも直撃したんですかねえ?
 藤満健は出発点こそ作曲家だったようですが、最近のキャリアはもっぱら演奏家のようで作曲家としてのキャリアを積んでいないような人になぜ委嘱したのか理解不能です。日本にはもっと面白い作品を作れる人はいるのですから、こういうところで委嘱料を出し惜しみしないでいただきたいものです。いずれにせよ、昨日の10回の演奏のみでもう二度と演奏されることも無いでしょうね。4年前の《屋島》のごとく。

 第二の理由は個人的なこと、私はモーツァルトの良さが分からないのです。日本はアジアの中で最もモーツァルトの演奏頻度が高いらしいですが、皆さん本当に分かって楽しんでいるのでしょうか?あの作品って、相当に西洋音楽の理論やルール(和声とか対位法とか楽典とか)に精通していないと、ルールを知らずにアメリカンフットボールを見るのと同じくらいに楽しめないと思うんですが、一般的にはそうではないんですかね?
 私は強弱の変化や音色の多様さ、豊かなリズム、身を切られるような痛々しさから人目もはばからずおおはしゃぎしてしまうような喜びの表現に心が惹かれる性質で、モーツァルトにそういう方向性の面白さを求めることは不可能なので、どこを楽しめばよいのか、今の私には分かりません。

 そんなわけで、よほど突出した演奏で無い限り演奏の良し悪しは分かりませんでした。
 またこういった理由のために、私が応援していた6名の演奏がどうであるかが主な興味の対象であり、他4名ははっきりいってどうでも良いと思っていたことを最初にお断りしておきます。


△No.7 イリーナ・ザハレンコバ

静かに奏でられる高音部の和音に透き通った冬のイメージを感じさせるのはさすが。しかし曲が進むにつれ音楽の持つイメージが伝わらなくなってきた。曲が悪いのもあるが、演奏者自身あまり理解し切れていないのだろう。
モーツァルトの1,3楽章は、演奏者の特性に明らかに合っておらず、音と戯れている感じが伝わってこない。2楽章こそロマンチックでいい演奏だったが…本戦でもう一度会いたいという期待を込めての△。叶わなかったが。

No.8 花田 えり佳

演奏の終了前後で唯一オーケストラに向かって握手も礼もしなかった人。
演奏にもそれと同じくらい礼儀もゆとりが無く、《栗林》は音楽の流れに対する配慮が全く出来ておらず、特にペダルの切り方はあまりにも雑。
《モーツァルト》そもそもなぜ3次まで残ったのか分からないほど突出した個性が無い人だから、ある意味音楽の邪魔をせずにすんでいて、安心して何も考えずに聴ける。だが、オーケストラと分離していたところがあったし、やはりここでもペダルの切り方が下手糞だった。

〇No.15 イ・ジンヒョン

《栗林》音の持つ性質を良くとらえており、あいまいにごまかすことなく、自然に入り込める演奏。あきらかに前二者とは違っていた。
モーツァルト、こういう曲では2次までのようにはしゃぐことができず、どこまでも正統派を突き詰めなければいけないため、悪くは無いが精彩を欠いていた。

No.19 マリアンナ・プリヴァルスカヤ

《栗林》不協和音にも品がある。良い意味で抑制された演奏。
モーツァルトは、1,2次と全く興味のもてない演奏者だったので、寝ながら聴いていました。「出来は良いかもしれないけど、彼女が本戦通ってしまったら、調子の悪かったNo.7が通らなくなるかもしれないなあ、まずいなあ」とか思いながら。

No.22 富田珠理

《栗林》弱音、間の取り方はいい感じだったが、難易度の高い強奏部で技術力の不足が露呈してしまった。
その技術の問題が、全くごまかしが効かないモーツァルトでははっきりと出てしまい、指のもつれで音楽の流れが澱む個所があちこちに見受けられた。。表現面では、全体的におとなしい。
これでは、残念ながら香川枠と言われても仕方がない。

〇No.23 ダニイル・ツベトコフ

《栗林》を一つの現代音楽と割り切った技術力アピールに徹しており、もはや栗林も自然も日本も感じさせることの無い、シェーンベルクとかブーレーズとかその辺を彷彿とさせる演奏。こういう方向性で責めきったのは彼のみ。意図してかどうかは知らないが、中身の無い音楽を効果的に聴かせるコンクールの戦術としては見事。
モーツァルトは高い基礎力を背景に知的で揺るぎの無い演奏。

〇No.25 ゲオルギー・ボイロチニコフ

No.23とは逆に、《栗林》をロマン派風の表現でとらえており、場面ごとの表情付けが優れていた。彼は音色に対する感性がとにかくすごい。
しかしモーツァルトは明らかに適性が無く、印象に残らなかった。

No.28 アレクサンドル・ヤコブレフ

悪くは無いのだが、印象としてはNo.23とNo.25を足して2で割った感じ。技術力が高いのは分かるが、前二者と比較すると、どうしても応援したくなる演奏ではない。

No.33 リー・ユンヤン

ロシア3人組の演奏の後で、彼らと比較しそれほど方向性も技術力も違いがあるわけではないので、驚きも感動も無く、全く印象に残っていない。

〇No.34 石村 純

《栗林》凛とした音色で、不協和音も強奏部も何かしらの美しさが表現されている点が、他の9人には無い音楽の組み立てであった。
1,2,3次とたくさんの演奏を聴き、素晴らしいキャラクター、個性のある演奏者に少なからず出会えた。しかしそういった演奏者も演奏曲目や順番によっていまいち実力が発揮できなかったり埋もれてしまったりすることもしばしばあった。そんな中、彼女の演奏は明らかに別次元にあり、ひとり音が浮き上がって聞こえる。多分、彼女は今、何を弾いても彼女らしい演奏ができる状態にあるのだろう。結果発表を聞く前から、通ることは確信していた。本戦のオオトリを楽しみにしたい。