2次予選の課題曲の一つに、1次予選で演奏したピアノ・ソナタを2楽章からというものがありますが、この課題の存在に私は強い違和感を覚えています。
ピアノコンクールの性質上、演奏者は皆、一曲一曲が真剣勝負、一音一音に作曲者の意図、心の奥底まで感じ取るように、丁寧に、心を込めて表現していきます。適当になんか弾けるわけがありません。当たり前ですが。
ところが、クラシック音楽の中には、そのように演奏することを最初から意図されていない音楽も存在します。いや、むしろ作曲者にそれほど気を使って演奏されるようになるのはベートーヴェン以降の話であり、グレゴリオ聖歌から始まる西洋芸術音楽の歴史から見ると、むしろ歴史は浅いくらいです。
ベートーヴェンの偉大さの一つは、教会の礼拝のため、もしくは鳩山家もびっくりの召使を10000人以上かかえる貴族様の慰み者に過ぎなかったような音楽の価値を「芸術」にまで格上げしたことであり、それは子供の読み物に過ぎないマンガを手塚治虫が一気に大人の鑑賞に耐えられる程のレベルに上げたことと似ています。
故に作曲の仕方もベートーヴェン以前と以後ではまるで違っており、一般的にイメージされるような「主題の提示や展開、再現を綿密に計画、解決に一部のスキも無い音楽」を目指すようなことを、モーツァルトやハイドンはしません。いや、正確に言うと出来なかったのです。それは音楽家、作曲家の地位が職人レベルにしか考えられていなかったため、クライアント(=貴族等)の要求にこたえることが第一だったから、ありていに言えば時間が無かったからです。仕事を頼まれた作曲家が「〆切延ばして」「コミケ行くために休ませて」なんて冨樫義博のような寝言を言おうものなら職はもちろん、この時代のことだから命も無くなるかもしれませんでした。
また、クライアントが要求しているのは単なる娯楽、貴族様の優雅なお食事タイム、友人たちとの憩いのひとときを華麗に彩りさえすればそれで良いため、ソナタで言えば最初の1楽章は頑張って作っても、2楽章以降は形式だけ守って適当に仕上げるのです。当時のクライアントは、音楽を最後までじっくり聞くつもりなんか無いのですから、それでも文句は言われません。つかみが良ければ最後まで笑える漫才と同じです。
クライマックスをラストに持ってくるという現代では常識過ぎて意識もされない黄金パターンを音楽の分野で最初に成功させたのはベートーヴェンなのです。
念のために言っておきますが、これは私の妄想ではありません。現に、そういった音楽を研究する場でも、1楽章とそれ以降を同じレベルで分析しようとはしていないのですから。
さて、以上の事情をかんがみるに、ピアノコンクールのような真剣勝負の場においてハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタを2楽章から始めると言うことが、いかに無茶であるかお分かりいただけるでしょうか?
実際、2次審査では、この課題曲の扱いが相当厄介であったと感じる演奏が多数ありました。40分のリサイタル形式で曲順を自由に出来るとはいえ、音数の少ない緩叙楽章から始まる古典派をそのまま演奏しても聴き栄えするわけありませんから、居場所が見当たらないのです。その結果大半の演奏者は緩叙楽章を無理やりロマン派風に改変、旋律を甘甘に歌ったりテンポをゆらしたりしていましたが、もともと中身の薄い曲をそうやって格好つける様は明らかに無理があります。
No.25の演奏なんてすごいことはすごいのですが、「マイセンの皿に乗せて思う存分デコレーションして高級菓子に見せているけど、本体はスーパーで買ってきた200円のチョコレートケーキ」のようで、ほとんど詐欺だとさえ思いました。
もちろんこのことは作品にも演奏者にも罪は無く、課題曲を設定する立場にあった人間が責めの対象になるわけです。音楽の歴史的な意義のうち、現代の事情にそぐわない部分を無神経に踏み潰す不見識こそが。
最後に、No.28の演奏のみが、2次で唯一違和感無く聴けました。緩叙楽章の無い2楽章のみの曲を高い技術力を駆使して、まるでジェットコースターの力学的な運動のように鍵盤上を駆け回る指、心をこめずに娯楽に徹していて、正統派の解釈かどうかは分かりませんが、最もこの時代の精神に近いであろうと思われました。
ピアノコンクールの性質上、演奏者は皆、一曲一曲が真剣勝負、一音一音に作曲者の意図、心の奥底まで感じ取るように、丁寧に、心を込めて表現していきます。適当になんか弾けるわけがありません。当たり前ですが。
ところが、クラシック音楽の中には、そのように演奏することを最初から意図されていない音楽も存在します。いや、むしろ作曲者にそれほど気を使って演奏されるようになるのはベートーヴェン以降の話であり、グレゴリオ聖歌から始まる西洋芸術音楽の歴史から見ると、むしろ歴史は浅いくらいです。
ベートーヴェンの偉大さの一つは、教会の礼拝のため、もしくは鳩山家もびっくりの召使を10000人以上かかえる貴族様の慰み者に過ぎなかったような音楽の価値を「芸術」にまで格上げしたことであり、それは子供の読み物に過ぎないマンガを手塚治虫が一気に大人の鑑賞に耐えられる程のレベルに上げたことと似ています。
故に作曲の仕方もベートーヴェン以前と以後ではまるで違っており、一般的にイメージされるような「主題の提示や展開、再現を綿密に計画、解決に一部のスキも無い音楽」を目指すようなことを、モーツァルトやハイドンはしません。いや、正確に言うと出来なかったのです。それは音楽家、作曲家の地位が職人レベルにしか考えられていなかったため、クライアント(=貴族等)の要求にこたえることが第一だったから、ありていに言えば時間が無かったからです。仕事を頼まれた作曲家が「〆切延ばして」「コミケ行くために休ませて」なんて冨樫義博のような寝言を言おうものなら職はもちろん、この時代のことだから命も無くなるかもしれませんでした。
また、クライアントが要求しているのは単なる娯楽、貴族様の優雅なお食事タイム、友人たちとの憩いのひとときを華麗に彩りさえすればそれで良いため、ソナタで言えば最初の1楽章は頑張って作っても、2楽章以降は形式だけ守って適当に仕上げるのです。当時のクライアントは、音楽を最後までじっくり聞くつもりなんか無いのですから、それでも文句は言われません。つかみが良ければ最後まで笑える漫才と同じです。
クライマックスをラストに持ってくるという現代では常識過ぎて意識もされない黄金パターンを音楽の分野で最初に成功させたのはベートーヴェンなのです。
念のために言っておきますが、これは私の妄想ではありません。現に、そういった音楽を研究する場でも、1楽章とそれ以降を同じレベルで分析しようとはしていないのですから。
さて、以上の事情をかんがみるに、ピアノコンクールのような真剣勝負の場においてハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタを2楽章から始めると言うことが、いかに無茶であるかお分かりいただけるでしょうか?
実際、2次審査では、この課題曲の扱いが相当厄介であったと感じる演奏が多数ありました。40分のリサイタル形式で曲順を自由に出来るとはいえ、音数の少ない緩叙楽章から始まる古典派をそのまま演奏しても聴き栄えするわけありませんから、居場所が見当たらないのです。その結果大半の演奏者は緩叙楽章を無理やりロマン派風に改変、旋律を甘甘に歌ったりテンポをゆらしたりしていましたが、もともと中身の薄い曲をそうやって格好つける様は明らかに無理があります。
No.25の演奏なんてすごいことはすごいのですが、「マイセンの皿に乗せて思う存分デコレーションして高級菓子に見せているけど、本体はスーパーで買ってきた200円のチョコレートケーキ」のようで、ほとんど詐欺だとさえ思いました。
もちろんこのことは作品にも演奏者にも罪は無く、課題曲を設定する立場にあった人間が責めの対象になるわけです。音楽の歴史的な意義のうち、現代の事情にそぐわない部分を無神経に踏み潰す不見識こそが。
最後に、No.28の演奏のみが、2次で唯一違和感無く聴けました。緩叙楽章の無い2楽章のみの曲を高い技術力を駆使して、まるでジェットコースターの力学的な運動のように鍵盤上を駆け回る指、心をこめずに娯楽に徹していて、正統派の解釈かどうかは分かりませんが、最もこの時代の精神に近いであろうと思われました。