goo blog サービス終了のお知らせ 

第2回高松国際ピアノコンクールを定点観測している。

一般人による、一般人のための国際ピアノコンクール入門、を目指します。

心を込めるな!ハイドン、モーツァルトのピアノ・ソナタの性質

2010-03-23 18:58:10 | 日記
 2次予選の課題曲の一つに、1次予選で演奏したピアノ・ソナタを2楽章からというものがありますが、この課題の存在に私は強い違和感を覚えています。

 ピアノコンクールの性質上、演奏者は皆、一曲一曲が真剣勝負、一音一音に作曲者の意図、心の奥底まで感じ取るように、丁寧に、心を込めて表現していきます。適当になんか弾けるわけがありません。当たり前ですが。
 ところが、クラシック音楽の中には、そのように演奏することを最初から意図されていない音楽も存在します。いや、むしろ作曲者にそれほど気を使って演奏されるようになるのはベートーヴェン以降の話であり、グレゴリオ聖歌から始まる西洋芸術音楽の歴史から見ると、むしろ歴史は浅いくらいです。

 ベートーヴェンの偉大さの一つは、教会の礼拝のため、もしくは鳩山家もびっくりの召使を10000人以上かかえる貴族様の慰み者に過ぎなかったような音楽の価値を「芸術」にまで格上げしたことであり、それは子供の読み物に過ぎないマンガを手塚治虫が一気に大人の鑑賞に耐えられる程のレベルに上げたことと似ています。

 故に作曲の仕方もベートーヴェン以前と以後ではまるで違っており、一般的にイメージされるような「主題の提示や展開、再現を綿密に計画、解決に一部のスキも無い音楽」を目指すようなことを、モーツァルトやハイドンはしません。いや、正確に言うと出来なかったのです。それは音楽家、作曲家の地位が職人レベルにしか考えられていなかったため、クライアント(=貴族等)の要求にこたえることが第一だったから、ありていに言えば時間が無かったからです。仕事を頼まれた作曲家が「〆切延ばして」「コミケ行くために休ませて」なんて冨樫義博のような寝言を言おうものなら職はもちろん、この時代のことだから命も無くなるかもしれませんでした。

 また、クライアントが要求しているのは単なる娯楽、貴族様の優雅なお食事タイム、友人たちとの憩いのひとときを華麗に彩りさえすればそれで良いため、ソナタで言えば最初の1楽章は頑張って作っても、2楽章以降は形式だけ守って適当に仕上げるのです。当時のクライアントは、音楽を最後までじっくり聞くつもりなんか無いのですから、それでも文句は言われません。つかみが良ければ最後まで笑える漫才と同じです。
 クライマックスをラストに持ってくるという現代では常識過ぎて意識もされない黄金パターンを音楽の分野で最初に成功させたのはベートーヴェンなのです。
 念のために言っておきますが、これは私の妄想ではありません。現に、そういった音楽を研究する場でも、1楽章とそれ以降を同じレベルで分析しようとはしていないのですから。

 さて、以上の事情をかんがみるに、ピアノコンクールのような真剣勝負の場においてハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタを2楽章から始めると言うことが、いかに無茶であるかお分かりいただけるでしょうか?
 実際、2次審査では、この課題曲の扱いが相当厄介であったと感じる演奏が多数ありました。40分のリサイタル形式で曲順を自由に出来るとはいえ、音数の少ない緩叙楽章から始まる古典派をそのまま演奏しても聴き栄えするわけありませんから、居場所が見当たらないのです。その結果大半の演奏者は緩叙楽章を無理やりロマン派風に改変、旋律を甘甘に歌ったりテンポをゆらしたりしていましたが、もともと中身の薄い曲をそうやって格好つける様は明らかに無理があります。
 No.25の演奏なんてすごいことはすごいのですが、「マイセンの皿に乗せて思う存分デコレーションして高級菓子に見せているけど、本体はスーパーで買ってきた200円のチョコレートケーキ」のようで、ほとんど詐欺だとさえ思いました。

 もちろんこのことは作品にも演奏者にも罪は無く、課題曲を設定する立場にあった人間が責めの対象になるわけです。音楽の歴史的な意義のうち、現代の事情にそぐわない部分を無神経に踏み潰す不見識こそが。

 最後に、No.28の演奏のみが、2次で唯一違和感無く聴けました。緩叙楽章の無い2楽章のみの曲を高い技術力を駆使して、まるでジェットコースターの力学的な運動のように鍵盤上を駆け回る指、心をこめずに娯楽に徹していて、正統派の解釈かどうかは分かりませんが、最もこの時代の精神に近いであろうと思われました。

二次予選二日目

2010-03-23 10:05:26 | 日記
〇No.23 ダニイル・ツベトコフ(ロシア)

ベートーヴェンはとても端正で、作品の持つ孤独感が浮き彫りになる演奏。時々、不協和音がミスタッチに聞こえてしまったり、早い部分でちょっと粒が明瞭に聞こえなくなるのが惜しい。
続くラヴェルの《ソナチネ》はガラス細工のようなキラキラした音色が作品に合っている。No.7とはまた違う、心地の良い冷たさを感じる。
一次審査も含め、端正で感情をむき出しにしない演奏を心情にしているのかと思いきや、リスト《ドン・ジョバンニの回想》で今までのイメージを覆すほどの壮絶な演奏。迫力だけでなく、強奏時でもギリギリのところでうるさくないようバランスが考慮されているのがまた素晴らしい。

No.24 アンドリイ・ツィギチコ(ウクライナ)

モーツァルトはNo.23と似たキャラクターの出だしなのだが、見た目がごついためか妙なギャップが生じてしまい、演奏にうまく入り込めない。
ラヴェルの《水の戯れ》は連符の粒がはっきり立ちすぎたり、リズムの揺らし方に角があったりして(まるでメトロノームで合わせたように感じる箇所さえも)「水」がイメージできない。
そしてシューベルトの行進曲風の始まりとの対比もできておらず、1次審査と比べると明らかに調子を落としていた。

〇No.25 ゲオルギー・ボイロチニコフ(ロシア)

ハイドンに関しては、演奏者がというより曲が悪すぎる。後ほど詳述するが、そもそも中身の無い音楽を無理やり味付けしようとしているため、その技術力と表現力は認めるが、決して理に適った解釈ではない。
演奏者の真骨頂はその次のショパン。一次審査で「空間が鳴り響いているよう」と記したが、《舟歌 嬰ヘ長調》の冒頭数小節の和音、フレーズの歌いまわしで、文字通り風景を一変させてしまった。こんなことができる演奏者は本コンクール中では彼しかいない。
この演奏者は、つまりハイドンのような古典スタイルを守った演奏はできないが、ロマン派となると誰にも負けない適正があるということなのだろう。
ショパン、ドビュッシーと小品を3,4曲並列させるプログラムの組み方は私の好みとは間逆なのだが、そういったものが一発で吹き飛ばされるほどの見事さだった。と同時に、昨日の演奏で?マークをつけたことに罪悪感が軽減された。要するに演奏に力が無かったという、ただそれだけのことだと分かったから。

No.27 渡辺 仁美(日本)

演奏前から「ご愁傷様です」とは思っていたが、まさしくその通りになってしまった。演奏は残酷なくらいレベルの差がはっきりと出てしまい、残念ながら「東京ディズニーランドの後にレオマワールドへ行くようなもの」と言わざるをえない。せめてレオマでは無く栗林公園くらいに目指す方向性が極端にずれていればここまではっきりした差は出なかったであろうに。
さらに気の毒なことに、前の演奏のためか調律がかなり狂っているとしか思われない音が聞こえさえした。

△No.28 アレクサンドル・ヤコブレフ(ロシア)

近くのじじいが無神経にプログラムの紙をカサカサいわせたり、防犯用にかばんに付けている鈴が鳴ったりして集中できず。せっかくいい演奏だったのにもったいない。(実は前の演奏からそうだったのだが、その演奏はどうでもよかったのでその時は気にならなかった)

ハイドンは高速の指回しが安定しており、まるでジェットコースターのように安心してスリルを楽しめる。ハイドンはこういう風に、演奏者の気持ちを込めて感動的にするのではなく、娯楽と割り切ったお軽い演奏の方が似合っている。
ブラームス《幻想曲集》は外に向かって安易に放出せずに、内に向かう情熱の表現が、ブラームスらしくて良い。演奏者の資質に合っていると思った。
ラヴェル《スカルボ》音の粒が明確に立ちすぎたり、テンポやフレーズのゆらしがあまりに人間的で、標題の不気味な妖精の表現ではなく、人間のダークサイドといったニュアンスになってしまったのが惜しい。

No.31 ジュン・アサイ(アメリカ)

白い服で出てきた時から何かキャラにあわない違和感を覚えた。
ベートーヴェン2楽章のテンポのゆらし方がなまめかしくて面白いのだが、今ひとつ徹し切れていない。3楽章で調子を取り戻すかと思いきや、強奏でなだれ込むようにキメるところの音量、迫力が不足していて今ひとつ調子が出ていない。
続くラヴェル、ショパンもどこかインパクトに欠ける。2次予選のレベルの中では、基礎技術がイマイチだったのかもしれない。

〇No.32 チェ・ヨンイム(韓国)

『冬のソナタ』のヒロインのような、清楚なベートーヴェン。3楽章では一転してアグレッシブで情熱的な一面も見せる。
シューベルトは温かみのある音色や歌い回しが、本コンクールであまり聞かないタイプだったので新鮮で感動。
ラヴェル《夜のガスパール》連符の粒がうまくぼかされていて、水の妖精をイメージさせるさわやかで品のある響きが素晴らしい。《スカルボ》も悪魔性を持ちつつも品と優雅さを兼ね備えた名演であった。

〇No.33 リー・ユンヤン(台湾)

ハイドンのロマンティックな解釈はやはり違和感を覚える。多分本人もこの曲を好きでも何でもないのだろうが、課題だからできるだけ頑張って演奏している感じ。
続くショパン《スケルツォ第二番》はその鬱憤をはらすかのような凄まじさ。No.25が演奏者の個性が前面に出た語り口と比較すると、こちらは作曲者が演奏者に乗り移ったかのよう。誤解を恐れずに言えば、手本のようですらあった。
続くラヴェルは気の抜けたヴァージョン。おそらく演奏者はこういうあいまいにぼかされたように表現する音楽が苦手なのだろう。それならば、評価は諦めるが失点は最小限に防ごうと割り切っているようで、技術の高さだけは必死に保とうと頑張っている。
そしてリスト《メフィスト・ワルツ第一番》は予想通り、気持ちの入り方がまるで違う、圧倒的な説得力。
得手不得手がはっきりしている点(そして、その得手とはロマン派)ではNo.25と同じだが、こちらの方がよりそれを自覚し、その上で最大限の効果が得られるよう選曲や曲順を戦略的に工夫している、まさに策士の一面を持っている。そしてNo.15が大人になるとこんな感じかとも思った。

〇No.34 石村 純(日本)

ショパン《ピアノソナタ第二番》もう出だしからして、他の奏者とは存在感が圧倒的に違う。演奏者の奏でる一音一音が全て「支配者、女王」という性質を帯びているほど。上手い下手の問題ではなく、人種が違うと言わんばかりに。それなのに技術だかなんだか分からないが、とにかく聞いているほうも納得させられてしまい、不快には思わない。No.8が「スキを見せない」とすれば、この演奏者は本当に「スキが無い」。

まぎれもない天才ではあるのだが、ピアノをわざわざスタインウェイを選ばずに自分の音を作り上げた点といい、使用しているプロフィール用写真といい、決して天然で純粋にここまで登ってきたわけではないのだろう。そういうところもやはりキム・ヨナとイメージが重なる。

あえて苦言を呈すると、あまりに演奏者の個性が強すぎて、どの作品を演奏しても作曲者の存在がバックに回ってしまうのはさすがにやりすぎではないかと思わないでもないのだが、もうそんなことはどうでも良い、ただこの演奏にどっぷり浸りたいと、細かい記述は放棄してしまいたくなりました。

二次予選一日目(夜中の1時から書き始め二時間かかりました)

2010-03-22 10:02:49 | 日記
 最初に言い訳を。

 あくまでピアノ作品に限って言えばの話ですが、今の私にはベートーヴェン中後期、ショパン、シューマン、ブラームス、このあたりの作品の区別がほとんどつかず、また魅力も感じられません。(ギリギリ、ベートーヴェンはその当時における前衛芸術であり、それゆえの切実さがあるからかろうじて好きにはなれる、がそれでも晩年の作品は訳分からん)

 2次審査では、古典派、ロマン派、近代の3グループの作曲家の作品を選曲することになっているのですが、古典派→ベートーヴェン中後期、近代→フォーレとかグラナドスとかファリャのような近代ぽくない選曲をされた場合、どれだけ一生懸命演奏を聴いていても語る言葉が何も思い浮かばないわけです。
 1次審査がバッハの平均律、古典派ソナタ、ロマン派の練習曲と完全にキャラがかぶらなったのと比べると、2次審査は技術的には安定していてもはるかに聴きづらい演奏が多くあったのは事実です。もちろん演奏者の責任ではありませんが、こういう課題曲設定はなんとかならんかなあと思いました。

 そういうわけでして

 以下に「?」がついているのは上記の理由により、演奏に対して私のセンサーがほとんど反応せず、語る言葉が見当たらない状況にあったことを表しています。


No.4 近藤 由貴(日本)

滑らかな音色で開始したモーツァルトだが、2楽章の終わり方が不自然で、続く3楽章も指がもつれたり、曲想に反して音が明るくなりきれていない。ここで流れがつかみきれなかったためか、続くリスト、ラヴェルと集中力や鮮烈さに欠ける演奏。
《スカルボ》で良くはなってきたが、制限時間が40分の長丁場では、いったん演奏に興味がもてなくなれば、後にどのような演奏をしようとどうでもよくなってしまう。
いずれにせよ、実力が発揮しきれたとは言い難い。

No.5 ルカ・トラブッコ(イタリア)

初期のベートーヴェン、ラヴェルの《クープランの墓》と古典、古典回帰の形式やリズムがかっちりした選曲が、演奏者のダンディな渋さと相まって高い効果を挙げていた。続くショパンも良かったのだが、タイムオーバー。結果的にこの日の数少ない名演の一つだっただけに残念。

 なお、タイムオーバーを知らせるベルが鳴ったにも関わらず演奏者はその後10分以上弾き続けるという無茶を敢行。それを運営部が止めることもせず。
 このような大幅な制限時間超過は演奏者の明らかな故意なのであるから、運営部は厳しく対処すべきだった。おかげで次の演奏者のコンディション調性のためにさらに余分な時間を費やす羽目になり、本コンクール全日程中最も過密なスケジュールが大幅に乱れ、演奏者にも聴衆にも多大な迷惑をかけることとなった。猛省すべし。

〇No.7 イリーナ・ザハレンコバ(エストニア)

上記のアクシデントがありながらも、それに潰されることなく演奏をやり遂げた。
ハイドンの2楽章は、ショパンかと思うほどテンポを自由に揺らし、3楽章を始める前に1次予選でもやった髪のかきあげ。これはもしかしたら狙ってやっているのかもしれない。演奏姿勢も含めて2楽章の暗い曲想から3楽章の明るく軽い曲想へとスイッチの役割になっているかのよう。
ラヴェルの《水の戯れ》フランス生まれの作品ながら、演奏者が弾くと東欧や北方を想起させる冷たいけどさわやかで美しい水の流れとなる。
ショパンの《ピアノソナタ第三番》はそれまでのイメージとは一変し、決然とした女性らしい力強さで幕を開ける。中間楽章で多少間延びしたのが惜しかった。
先述の通り、2次予選は私にとって演奏の良し悪しが1次に比べてよく判別できないのだが、この演奏者の東欧的な憂いを秘めた独特の存在感や個性はとても素晴らしいものがあり、他の演奏者と比べて頭一つ抜けていると私は思うのだが、さて結果はどうなるだろうか。

No.8 花田 えり佳(日本)

ハイドン、短調なのに音色が妙に明るく違和感あり。その後も明るい曲想は明るい音色にしているのに、なにか素直に受け止められない。ドビュッシーの《風変わりなラヴィーヌ将軍》のもつコミカルさ、ひょうきんさが全く表現されていない。
上手い事は上手いのだけど、スキが無い、いや正確に言えば「スキを見せない」高飛車なお嬢様というイメージがあって、形だけは整っているが惹きつけるモノの無い西洋工芸品のよう。大きなお世話だろうが、もっと無防備さや可愛らしさも見せることは出来ないと、今以上の表現は不可能だと思う。少なくとも個人的にはこれから先、勝ち進んだとしても応援は出来ない。

No.10 スサンナ・カジョヤン(ロシア)

ハイドンは明るく快活な楽章でもなぜかくすんだ様な音色。ドビュッシーは予想通りに適当。
そして、一次審査で最もバッハに対する強烈な情熱を聴かせてくれただけにもしやと思ったら案の定、ハイドンでもドビュッシーでもなく、ブラームスが好きなんですね。分かります。
ただ残念なことに、今回はその情熱が音楽に反映されたとは言えなかった。全出演者中、最も会場で見かけた人物だったことからも、そもそも上を目指すことにそれほど欲が無かったのか、それとも緊張の糸が切れたのか…
いずれにせよ、これほど得手不得手がはっきりしている演奏者は、このような総合力を試されるコンクールには向いていないのだから、オール・バッハプログラムのコンサートを開いて地道に活動してもらいたいと思う。


?No.13 マクシム・クラブホフ(ウクライナ)

ベートーヴェン《ピアノソナタ31番》フォーレ《ノクターン》リスト編曲シューベルト《セレナード》と内向的な作品が続く。(というか、その3曲の順番がどうなのか私には判別できなかった。)
唯一のアップテンポがラストに演奏したブラームスの《スケルツォ変ホ短調》
演奏者は、外に向かって安易に声を出すのを避けるタイプなのかと、最後の最後で思った。

〇No.15 イ・ジンヒョン(韓国)

これが一体どう評価されるのか分からないが、私にとっては今日、全く退屈しなかった稀有な演奏の一つ。
一次審査同様、ベートーヴェンの《熱情》は笑えるくらいにベートーヴェンらしい痛みが全く無く、巨大な音、難しい指周りを嬉々としてひけらかす様はまるでピアノに戯れてはしゃぐ子供のようで、あろうことかモーツァルトのようにさえ聴こえるほどの異様な演奏。
そんな独特の個性はベートーヴェンには明らかに不向きだが、続くラヴェル《クープランの墓》、シューマン《トッカータハ長調》ではその感性がいかされている。
リストの《巡礼の年 第2年イタリア》では壮絶の一言。《ダンテを読んで》の演奏だが、この作品にはベートーヴェンの持つ切実さがなく、地獄の描写ではあってもそれはあくまでフィクションの世界。ゲームや漫画のそれと同じレベルからの描写は、演奏者の(現時点での)個性にあまりにもはまってしまっている。
『のだめカンタービレ』少年版の未来は如何に?

?No.17 ナターリア・パシチニク(ウクライナ)

キャラがNo.7と被っていて、比較をするとどうしても興味を持てる対象ではないため、一次審査から印象に残っておらず。
悪い演奏ではなく、次に進める可能性も十分あると思うが…もうさっきの演奏聴いたあとだから何も思いつきませんでした。だれか、感想書いてください。

?No.19 マリアンナ・プリヴァルスカヤ(スペイン)

ベートーヴェンの《ピアノソナタ(ワルトシュタイン)》とシューマンの《ピアノソナタ第二番》を連続して聴かせるのはいかがなものか…いや、ロマン派大好きでしたらそれも十分楽しめるのかもしれませんが、私には似たような音楽が30分以上続く退屈に耐えるのみでした。続くグラナドス《わら人形》も、ラヴェルやドビュッシーと比べるとどこが近代なのか分かりません…
これも悪い演奏ではありませんでしたが…だれか感想よろしくお願いします。

No.21 マハニ・ティーブ(イースター島 チリ)

タイムスケジュールの変更により、本来入るはずの休憩がカットされての演奏。聴いている身にとってもうんざりだったのだが、ラヴェル《水の戯れ》からはじまり、リスト編曲ワーグナー《イゾルテの愛の死》、ショパン《舟歌 嬰ヘ長調》、ベートーヴェン《熱情》と年代を遡る曲順の工夫により、40分間退屈せずに聞けたのは助かった。
ただ惜しむらくは、明らかに退屈だった前二者と比較しても完成度の点では劣っている点。《水の戯れ》の流れはたどたどしく淀み、《イゾルテの愛の死》の前半は幻想的な官能が表現できていない。後半以降は調子を上げてきたが、《熱情》のラストは指がもつれていた。

?No.22 富田 珠里(日本)

ドビュッシー《オンディーヌ》緊張感や神秘さに欠ける始まり。「不定形」の面白さが出ていない。
その後に演奏したのはシューマンの《クライスレリアーナ》(だと思うの)だが、表情を変えているのは分かるがイマイチ音に伝わりきっていないような気がした。小品が続いて、いつの間にかベートーヴェン《テレーゼ》第二楽章(多分)に入っており、選曲面でメリハリのない構成だったと思うのだが、ロマン派が分かる人にはそうは思わないのでしょうか。だれか感想をよろしくお願いします。

功罪、お笑いブームとコンクールの共通点

2010-03-21 10:21:06 | 日記
 昨日『エンタの神様』の最終回があったので見ていました。
 この番組が始まった2003年当時は、他のお笑い番組は『爆笑オンエアバトル』のみと今では考えられないくらい若手がテレビに出られるチャンスは少なかったみたいです。
そういった意味では、今の芸人さんたちにとってそういう日の目を見る舞台が(たとえ激戦区には変わりないとしても)数多く生まれたことは喜ばしいことなのかもしれませんが、良い事ばかりとは思えない現象も発生しています。

 たとえばアンタッチャブルはかつて「やすきよの再来」と言われるほどに神がかり的な面白い漫才やコントをしていたのに、M-1をとった後はそういった方面でテレビに出ることがほとんどなくなり、結果アドリブの効く山崎のみが出続け、柴田は即興が効かない弱点を他のことで何とかキャラを作って補おうとしていたのに、まあなんか色々あったらしく、もう日の目を見ることはなくなってしまいました、多分。
 こんな感じで、コントや漫才とは全く違う能力が必要なはずのバラエティー等に安易に顔を出せるようになってしまったことは、才能のある若手つぶしと言っても過言ではないと思うのです。

 なんかこのことって、音楽の世界でも言える様な気がするわけです。

 音楽コンクールの優勝者は、意外とその後に伸びがなく埋没する例が多くあると、中村紘子著の『コンクールでお会いましょう』に書かれているのですが、要するに、コンクールという特殊な部隊でたまたま実力以上のものが発揮できてしまった人に(実力だけで勝てるほど甘い世界ではありませんから)、過剰なほどの名声や報酬、演奏の場を与えてしまうことによるひずみがあらわれてしまっているわけで、このことは驚くほど昨今のお笑いブームと共通しています。

 敷かれたレールの上で一番を取ること、とても困難な道だと思いますし、仮に私がピアニストを目指していたとしたら、確実にコンクールを目標に頑張っていたでしょう。
 ただ、「人の作った道で誰よりも速く走る力」と、「自分で道を切り開く力」というのは、全く別の力を要するものではないでしょうか。誰よりも速く走る力のみで勝負しているアスリートなら、オリンピックという名の国際コンクールで優勝さえ出来れば後はせいぜい指導者の道くらいなものですからどうなろうが良いかもしれませんが、芸術家はそれだけでは何にもならないのです。

 どうか今回のコンクールで一次予選敗退した人も優勝する人も、息長く、しぶとく音楽を続けて欲しいなと心から思う次第です。

感想を話し合いませんか?

2010-03-20 14:07:44 | 日記
 予選が始まってからのアクセス数の急上昇には驚きです。やっぱり他の人の感想は気になるのですね。

 公式サイトで結果を知ることができても、ニュースや新聞でいくら紹介されていても、実際の演奏はどうだったの?という問いに答えてなどくれません。仮に音楽雑誌などで後日記事になったとしても、様々な配慮から肝心なところはぼかされていることもしばしばです。何より、素人の意見は反映される余地もありません。

 そう思い本ブログを立ち上げたわけですが、私以外にもコンクールを聴きに行って、一人一人が様々な「何か」を感じ取られてことと思います。その「何か」が何なのか、とても興味があります。


 そこで、もしよろしければ、以下のメールアドレス又はコメント欄に、どんな文体でも構わないので、コンクールの感想を送っていただけないでしょうか?で、もし問題がなければ、それぞれの感想が並んで分かりやすいように後日編集をしたいと思います。(ダメでしたら、不許可の旨も併記してください。)


tipc-oあっとまーくmail.goo.ne.jp


 音楽の感動を文章にすることは無粋で面倒くさくて、下手すると感動が薄まってしまうと思われるかもしれません。しかし、言葉にしなければ、個人の感動はあくまで個人のみに留まってしまい、すぐ隣にいる人とさえその感動を共有することができないわけです。

 何より、ある一つの演奏を肴にあーだこーだ話すのは、シンプルに楽しい娯楽です。そこまでやってこそ、このコンクールをしゃぶりつくすように、入場料以上に楽しめるのだと私は思っています。

 この考えにご賛同していただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。