先日、地方新聞で紹介されていました“岡山後楽園 御舟入跡”の現地説明会に行ってきました。
場所は岡山城から、月見橋を渡った現在の南門入口すぐのところです。
通常は、“御舟入跡”という立て札から先には入れなかった竹林の中にあります。
写真右の土砂は今回の発掘で掘り出された土砂
この“御舟入”跡は岡山藩主が岡山城と後楽園を舟で往来する際に使われた舟着き場の後です。
地下3.5mの所から、1.2メートルの護岸石垣が出てきたそうです。
その上に13段の雁木が、絵図に描かれていたように発見されました。
“雁木”の最下段は長さ10mあり、上に向かってハの字になっており、最上段の“雁木”は3m。その上に、“御成御門”があったそうですが、今回の発掘調査では、明治時代の土手に覆われていて、発見されていないそうです。
「この護岸石垣の基礎部分は“胴木”が入っているの?」
この、“護岸石垣”の底には、城の石垣の基礎のような“胴木”が敷かれてはおらず
玉砂利が敷き詰められた上に、石垣が形成されているそうです。
その理由としては、城の石垣ほどの自重が掛からない為ではないかということでした。
「藩主専用のということは、お付きの人はここから上がってないの?」
「文献によると、御成御門でお出迎えをしたという記録はあるのですが...。」とのことでした。
この“御舟入”元禄二年(1689)綱政がはじめて後楽園を訪れた頃の絵図に初めて出てきます。
その後、享保元年(1712)の絵図には、“御成御門”も描かれているそうです。
ただ今回の発掘された遺構の正確な年代は、はっきりしていないそうです。
現地説明会で話されていた職員の方の話では、年代測定に不可欠な生活を連想させる物(食器など)が、出てこない(藩主専用の“御舟入”の為に生活ごみなどは落ちているはずもなく...)為に、年代測定は不明だそうです。ただ、江戸時代の遺構には間違いないのだそうです。
今回このような完全な形で残ったのも、3.5mの土砂におかげで戦災にも遭わずに形をとどめたことはラッキーな事だともいわれておりました。
実際現在の後楽園内の建物は、すべてが復元ですから...。
ちょっとマニアックな質問にも答えて頂き、有意義な時間を過ごせました。
吉備文化財センターの職員の方、ありがとうございました。
こちらの遺構、今週の金曜日までは見学可能だそうです。
ただし雨の日はシートに覆われているそうです。
場所は岡山城から、月見橋を渡った現在の南門入口すぐのところです。
通常は、“御舟入跡”という立て札から先には入れなかった竹林の中にあります。
写真右の土砂は今回の発掘で掘り出された土砂
この“御舟入”跡は岡山藩主が岡山城と後楽園を舟で往来する際に使われた舟着き場の後です。
地下3.5mの所から、1.2メートルの護岸石垣が出てきたそうです。
その上に13段の雁木が、絵図に描かれていたように発見されました。
“雁木”の最下段は長さ10mあり、上に向かってハの字になっており、最上段の“雁木”は3m。その上に、“御成御門”があったそうですが、今回の発掘調査では、明治時代の土手に覆われていて、発見されていないそうです。
「この護岸石垣の基礎部分は“胴木”が入っているの?」
この、“護岸石垣”の底には、城の石垣の基礎のような“胴木”が敷かれてはおらず
玉砂利が敷き詰められた上に、石垣が形成されているそうです。
その理由としては、城の石垣ほどの自重が掛からない為ではないかということでした。
「藩主専用のということは、お付きの人はここから上がってないの?」
「文献によると、御成御門でお出迎えをしたという記録はあるのですが...。」とのことでした。
この“御舟入”元禄二年(1689)綱政がはじめて後楽園を訪れた頃の絵図に初めて出てきます。
その後、享保元年(1712)の絵図には、“御成御門”も描かれているそうです。
ただ今回の発掘された遺構の正確な年代は、はっきりしていないそうです。
現地説明会で話されていた職員の方の話では、年代測定に不可欠な生活を連想させる物(食器など)が、出てこない(藩主専用の“御舟入”の為に生活ごみなどは落ちているはずもなく...)為に、年代測定は不明だそうです。ただ、江戸時代の遺構には間違いないのだそうです。
今回このような完全な形で残ったのも、3.5mの土砂におかげで戦災にも遭わずに形をとどめたことはラッキーな事だともいわれておりました。
実際現在の後楽園内の建物は、すべてが復元ですから...。
ちょっとマニアックな質問にも答えて頂き、有意義な時間を過ごせました。
吉備文化財センターの職員の方、ありがとうございました。
こちらの遺構、今週の金曜日までは見学可能だそうです。
ただし雨の日はシートに覆われているそうです。