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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 白居易6ー10

2010年08月16日 | Weblog
 白居易ー6
   窗中列遠岫          窗中に 遠岫列なる

  天静秋山好     天静かにして  秋山(しゅうざん)好(よ)し
  窗開暁翠通     窗(まど)開きて 暁翠(ぎょうすい)通ず
  遥憐峰窈宨     遥かに峰の窈宨(ようちょう)たるを憐(あわ)れみ
  不隔竹朦朧     竹の朦朧(もうろう)たるを隔(へだ)てず
  万点当虚室     万点(ばんてん)  虚室(きょしつ)に当たり
  千重畳遠空     千重(せんちょう)  遠空(えんくう)に畳(かさ)なる
  列檐攅秀気     檐(のき)に列(つら)なりて秀気を攅(あつ)め
  縁隙助清風     隙(ひま)に縁(よ)りて清風(せいふう)を助く
  碧愛新晴後     碧(へき)は新晴(しんせい)の後(のち)を愛し
  明宜反照中     明(めい)は反照(へんしょう)の中(うち)に宜(よろ)し
  宣城郡斎在     宣城(せんじょう)  郡斎(ぐんさい)在り
  望与古時同     望(ぼう)は  古時(こじ)と同じ

  ⊂訳⊃
          空は晴れて静か  秋の山は麗しく
          窓をひらくと  朝の緑の気がしみわたる
          遥かな峰の  奥深いおもむきは
          竹林の茂みと調和して  たおやかである
          幾つもの   あけ放した部屋に
          遠くの空が  幾重にも重なり合う
          連なる軒は  美しさを競い合い
          隙間から   爽やかな風が吹いてくる
          空の青さは  雨あがりのときがすぐれ
          明るさは   夕焼けの照りかえしが好ましい
          宣城には   太守の役所があり
          その眺めは  謝朓のころと変わりないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 襄陽にいる白居易には知るよしもありませんでしたが、実はこの年、貞元九年の貢挙で劉禹錫(りゅううしゃく)と柳宗元(りゅうそうげん)が進士科に及第しています。劉禹錫は白居易と同年齢の二十二歳、柳宗元は二十一歳です。さらに後に白居易の無二の友となる元稹(げんじん)は十五歳で明経科に及第しています。
 白居易は同年代の秀才に遅れを取ったことになりますが、それに追い打ちをかけるような不幸が翌年に白居易を見舞います。父季庚が襄陽で亡くなったのです。享年六十六歳でした。遺された家族は母陳氏のほか、兄と弟の四人家族です。下にもうひとり弟がいましたが、二年前に九歳で亡くなっていました。
 家族は喪に服することになりますが、兄の幼文(ようぶん)はまだ職に就いていなかったらしく、一家は窮乏に見舞われます。恐らく親族の援助に頼る生活がつづき、幼文と白居易は書写などの仕事で家計を助けたと思われます。
 足かけ三年(二年余)の喪が明けると、貞元十三年(797)に母陳氏は二十二歳の末子白行簡(はくこうかん)を伴って洛陽に移ります。そのころ兄の幼文も饒州浮梁県(江西省景徳鎮市)の主簿(従九品上)の地位を得て浮梁(ふりょう)に行ったようです。縁故による就職で、最下級の県吏ですが士身分の職に就いたことになります。白居易は翌貞元十四年に浮梁の兄のもとに身を寄せます。
 貞元十五年の秋、白居易は宣州(安徽省宣城県)で郷試を受けます。郷試は本来、本貫(本籍)で受けるものですので、祖父の出身地である渭村下邽(かけい:陝西省渭南県)の属する京兆府で府試を受けるべきですが、そのころ父の従兄の白季康(はくきこう)が宣州の近くの溧水県(りつすいけん)に勤めていましたので、便宜を図ってもらったものと思われます。
 掲げた詩は郷試のときの課題の作品で、詩題の「窗中に 遠岫(えんしゅう)列なる」は南朝斉の詩人謝朓(しゃちょう)の詩から引かれたものです。『文選』(もんぜん)にも収められている詩ですので、白居易にとってはたやすい出題であったと思われます。
 謝朓は斉の宣州太守になり、郡衙からの眺めを賞賛する詩をいくつも作っていますので、白居易もその眺めがいまも変わらないことを規定の五言十二句の古詩にまとめました。そつのないまとめ方ですが、観察はゆきとどいています。

 白居易ー7
   自河南経乱関内阻飢     河南の乱を経 関内の飢に阻まれて
   兄弟離散各在一処因     自り 兄弟離散して 各々一処に在    
   望月有感聊書所懐寄     り 因りて月を望みて感有り 聊か
   上浮梁大兄・於潜七      所懐を書して 浮梁の大兄・於潜の
   兄・烏江十五兄兼示      七兄・烏江の十五兄に寄せ上り 兼
   符離及下邽弟妹        ねて符離及び下邽の弟妹に示す

  時難年饑世業空   時(とき)難に年(とし)饑(う)えて  世業(せいぎょう)空し
  弟兄羇旅各西東   弟兄(ていけい)羇旅(きりょ)して  各々西東(せいとう)
  田園寥落干戈後   田園寥落(りょうらく)す  干戈(かんか)の後(のち)
  骨肉流離道路中   骨肉流離(りゅうり)す  道路の中(うち)
  弔影分為千里雁   影を弔(とむら)い分かれて  千里の雁(かり)と為(な)り
  辞根散作九秋蓬   根(ね)を辞し散じて  九秋(きゅうしゅう)の蓬と作(な)る
  共看明月応垂涙   共に明月を看(み)て  応(まさ)に涙を垂(た)るべし
  一夜郷心五処同   一夜  郷心(きょうしん)  五処(ごしょ)同じ

  ⊂訳⊃
          時世は困難  故郷は失われて飢饉もあり
          一族兄弟は  東西に離散している
          戦のために  田園は荒れ果て
          肉親たちは  他国の道中をさまよっている
          孤独を傷み  離ればなれの雁となり
          秋の蓬は   根から離れて転んでゆく
          月を見上げ  同じ涙を共に流し
          望郷の一夜  想いは何処も変わりはしない


 ⊂ものがたり⊃ 白居易は郷試に及第し、宣歙(せんきゅう)観察使崔衍(さいえん)の推薦を受けて長安に行くことになります。郷試は通常秋に行われ、毎年各地の一年間の政務の状況を報告するために十月に入京することになっている朝集使に伴われて上京します。
 白居易はそのころ、洛陽にいる母が病気という報せを受けており、浮梁の兄の依頼で洛陽に金を届ける必要がありました。白居易は途中、洛陽に立ち寄って母を見舞います。華北では、その直前に節度使の叛乱が起きており、関中(都のある渭水流域)は二年つづきの飢饉に見舞われて、洛陽の街もみじめな状態になっていました。白居易は一族離散を嘆く詩を書いて親族に送っています。
 長文の題がその経緯を示していますが、題中の「兄弟」は従兄弟も含めた一族のことであり、兄の幼文は浮梁に、「七兄」は排行七の従兄で於潜(おせん:浙江省臨安県)にいました。「十五兄」は従祖兄にあたり、烏江(うこう:安徽省和県烏江鎮)の主簿でした。徐州の符離や渭村の下邽にも従弟妹がいたので、五つの場所に別れて住んでいる兄弟・従兄弟たちに詩を送ったのです。

 白居易ー8
   冬夜示敏巣          冬夜 敏巣に示す

  炉火欲銷燈欲尽   炉火(ろか)銷(き)えんと欲し  燈(ともしび)尽きんと欲す
  夜長相対百憂生   夜(よる)長うして相対して百憂(ひゃくゆう)生ず
  他時諸処重相見   他時(たじ)  諸処(しょしょ)重ねて相見ん
  莫忘今宵燈下情   忘るる莫(な)かれ  今宵  燈下(とうか)の情

  ⊂訳⊃
          炉は消えようとし   灯火もやがて燃えつきる

          夜更けまで語れば  憂いは限りなく湧いてくる

          いつかどこかで    また会うこともあるだろう

          今宵灯火の友情は 決して忘れてはならないよ


 ⊂ものがたり⊃ この詩には「時に東都の宅に在り」との題注があり、題に「冬夜」とありますので、長安に向かう前、洛陽の自宅にいた冬の夜の作と思われます。
 「敏巣」(びんそう)と名前で呼ばれている友人は、年少の親戚かも知れません。若い二人は夜を徹して国の乱れを語り合い、人民の労苦を嘆いて、経世済民の志を誓い合ったのでしょう。小品ですが、初々しい若者の気持ちがよく出ています。

 白居易ー9
   長安早春旅懐         長安 早春の旅懐

  軒車歌吹喧都邑   軒車(けんしゃ)  歌吹(かすい)  都邑に喧(かまび)すし
  中有一人向隅立   中に一人(いちにん)の隅(ぐう)に向かって立つ有り
  夜深明月巻簾愁   夜深けて明月  簾(れん)を巻いて愁え
  日暮青山望郷泣   日暮れて青山  郷(きょう)を望みて泣く
  風吹新緑草芽坼   風は新緑を吹いて草芽(そうが)坼(さ)け
  雨灑軽黄柳条湿   雨は軽黄(けいこう)に灑(そそ)いで柳条(りゅうじょう)湿う
  此生知負少年春   此の生  少年の春に負(そむ)くを知る
  不展愁眉欲三十   愁眉(しゅうび)を展(の)べず  三十ならんと欲す

  ⊂訳⊃
          ゆきかう車  巷(ちまた)に歌舞音曲は溢れるが
          街の片隅で  ひとり佇む者がいる
          夜更けに   簾を巻いて明月を愁え
          日暮れには  故郷の山を想って涙を流す
          風は新緑にそよぎ  草木は芽生え
          雨は新芽に降って  柳の葉を濡らす
          私の人生は  春を楽しむいとまもなく
          愁いの眼で  三十歳を迎えるのか


 ⊂ものがたり⊃ 貢挙の省試は長安で行われますので、白居易はひとり馬に乗って都に着きました。当時は士階級の者が旅をするときには従者を伴うのが普通でしたが、白居易には従者を雇う費用もありませんでした。日暮れに長安に着いたらしく、土埃の舞う街路に閉門を告げる太鼓の音が響き、頼るべき知り合いもない街角で白居易は途方にくれます。
 貞元十六年(800)の春、白居易はすでに二十九歳になっていました。省試を前にして、誕生日の正月二十日ころには、ひとり不安な日々を過ごしていました。詩はそんな都での早春の感懐です。三十歳を前にして、やっと省試をうけるところまできましたが、自分の青春時代は苦労の連続でなんの楽しい思い出もない、というのが率直な感想でした。

 白居易ー10
   玉水記方流         玉水 方に流るるを記す

  良璞含章久     良璞(りょうぼく)  章(しょう)を含むこと久しく
  寒泉徹底幽     寒泉(かんせん)  底に徹して幽なり
  矩浮光灔灔     矩浮(くふ)     光  灔灔(えんえん)たり
  方折浪悠悠     方折(ほうせつ)  浪  悠悠(ゆうゆう)たり
  凌乱波紋異     凌乱(りょうらん)して波紋(はもん)異(こと)なり
  縈廻水性柔     縈廻(えいかい)して水性(すいせい)柔らかなり
  似風揺浅瀬     風の浅瀬を揺(うご)かすに似(に)
  疑月落清流     月の清流に落つるかと疑う
  潜潁応傍達     潁(えい)に潜(ひそ)むも応(まさ)に傍達(ぼうたつ)すべし
  蔵真豈上浮     真(しん)を蔵して豈(あに)上り浮かべんや
  玉人如不見     玉人(ぎょくじん)  如(も)し見ずんば
  淪棄即千秋     淪棄(りんき)せられて即ち千秋(せんしゅう)ならん

  ⊂訳⊃
          良いあら玉は  美しい資質を内に秘め
          冷たい湧水は  底まで澄みきっている
          光は  きらきらと揺れ動き
          浪は  悠然として流れゆく
          波紋は入り乱れておもしろく
          めぐり流れる水は柔らかである
          風が浅瀬に  漣を立てるようであり
          月が流れに  落ちたかと疑う
          潁水に隠れた者も  ついに名を挙げ
          真実を蔵する者は  みだりに心を顕わさない
          玉をみがく者が    これを見出さなければ
          永遠に捨て去られて終わるであろう


 ⊂ものがたり⊃ 都に頼る者もいない白居易ですが、それでも省試を前にして一応の努力はしています。行巻(こうかん)というのは、受験生が自分の文才を知ってもらうために、しかるべき政府高官に差し出す詩文集で、当時は一般に行われていました。
 白居易は雑文二十首、詩百篇を添えた「陳給事に与うる書」という行巻を門下省給事中(正五品上)の陳京に送っています。省試は二月に実施され、知貢挙(貢挙の責任者)になったのは尚書省礼部侍郎(正四品下)の高郢(こうえい)でした。高郢は至公至平に徹した人格者として高名でしたので、都に縁故もない寒門出の白居易にとって、高郢が知貢挙であったのは幸運であった言わなければなりません。
 進士科の試験では詩と賦の出来栄えが重視されますが、詩の課題は南朝宋の詩人願延之(がんえんし)の「王太常に贈る」という詩の一句で、「玉水 方(まさ)に流るるを記(しる)す」というものでした。「流」を韻字として五言六十字でまとめなければなりません。
 白居易はこの詩で、自分を玉水に見たてます。「玉人」は知貢挙高郢のことで、あなたが玉水を見出さなければ、玉水は「淪棄せられて即ち千秋ならん」と、相手を持ち上げながら自分を売り込んでいます。   

2 コメント

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白居易の詩を探しています (けい)
2018-02-05 23:38:25
白居易の題旧写真図という詩の解説はありますか?
あったらどこにあるのか教えてください
お願いいたします
白居易の詩 (tindao)
2018-12-05 10:11:50
浅学にしてお探しの詩をみた記憶がありません。

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