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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 白居易185ー189

2011年02月11日 | Weblog
 白居易ー185
    香山寺避暑          香山寺に暑を避く

  六月灘声如猛雨   六月  灘声(たんせい)  猛雨の如し
  香山楼北暢師房   香山の楼北(ろうほく)   暢師(ちょうし)の房(ぼう)
  夜深起凭闌干立   夜深くして  起ちて闌干(らんかん)に凭(よ)りて立てば
  満耳潺湲満面涼   耳に満つる潺湲(せんかん)  面(めん)に満つる涼(りょう)

  ⊂訳⊃
          六月の早瀬の音が  豪雨のように響く

          香山寺の楼閣の北  暢禅師の僧房だ

          夜更けに起きて    欄干にもたれて立つと

          流れの音が耳に満ち  涼しい風が顔に満つ


 ⊂ものがたり⊃ 李訓は党派に属さず、単独で皇帝に近づき事を成そうとしていましたので、宰相になると専権の邪魔になる牛党の排除を企てます。七月には李宗閔を失脚させて虔州(江西省贛州市)長史に貶し、八月にはさらに潮州(広東省潮安市)の司戸に再貶しました。これは流罪に等しい過酷な異動です。
 李訓は同志の鄭注(ていちゅう)を鳳翔(陝西省宝鶏県)節度使に任じて兵力を確保し、宦官を一網打尽にする計画を立てました。十一月二十二日の早朝、李訓は大明宮の金吾左仗の中庭にある柘榴の木に甘露が降ったと奏上し、その瑞祥を検分にやってくる高位の宦官たちを、金吾左仗の幔幕の陰に伏せておいた兵で打ち取る計画でした。
 ところが宦官たちは武装した兵が隠れているのに気づき、宮中に駆けもどって文宗を擁し、大明宮の奥へ逃げ込みます。李訓は金吾衛の兵を宮中に入れて宦官を追いますが、逃げ遅れた宦官数人を殺しただけで計画は失敗に終わります。宦官たちは自分の配下にある神策軍を出動させ、李訓をはじめ多くの政府高官を捕らえて処刑しました。簡単に要点だけを書きましたが、史上この事件を「甘露の変」と称しています。
 文宗は二度も宦官制圧に失敗し、勝利した宦官は大きな権力を手にしました。白居易の親しい友人の幾人かが側杖を食って死に追いやられましたが、白居易は洛陽にいて政事から遠ざかっていましたので無事でした。文宗は改元を宣言して、翌年は開成元年(836)になります。
 この年、和州刺史の劉禹錫は同州刺史に任命され、洛陽から西へ230kmのところに赴任してきました。潼関の西北、関中の東端に住むようになったので、白居易と劉禹錫との交流はいっそう密になります。白居易はこの年、『白氏文集』六十五巻を編集し、閏五月に完成しました。この文集は洛陽の聖善寺に納めます。そうした仕事のあいまに、白居易は香山寺の僧から仏教の教えを聴くこともあり、夏には避暑を兼ねて香山寺の自室に泊まることもあったようです。詩中の「暢師」というのは香山寺の長老文暢(ぶんちょう)のことです。
 伊水は龍門のところで両岸に山が迫っていますので、流れは急になります。丸く削られた石が川底を埋め、瀬音は高く響きます。白居易は僧房で夜更けまで眠れずに、何を思っていたのでしょうか。「灘声 猛雨の如し」というのは時代の激変でもあり、国の将来のことを思って眠れなかったのかもしれません。しかし、結句の「耳に満つる潺湲 面に満つる涼」からは、政争から離れて山寺の深夜の涼しい風に吹かれている自分に安堵している姿も想像できます。

 白居易ー186
    別柳枝             柳枝に別る

  両枝楊柳小楼中   両枝(りょうし)の楊柳  小楼の中(うち)
  嫋娜多年伴酔翁   嫋娜(じょうだ)として  多年  酔翁(すいおう)に伴う
  明日放帰帰去後   明日(みょうにち)放ち帰すも  帰り去りて後(のち)
  世間応不要春風   世間に応(まさ)に春風(しゅんぷう)を要(もと)めざるべし

  ⊂訳⊃
          二本の楊柳は     多年小さな家のなかで

          たおやかに美しく   酔翁の世話をしてきた

          明日は暇を出すが  去ってからも

          世間で春風などを  求めてはならないよ


 ⊂ものがたり⊃ 開成二年(837)に、阿羅に長女引珠(いんじゅ)が生まれます。外孫ですが、白居易にとってははじめての孫です。淮南節度使として揚州にいた牛僧孺が、五月に東都留守(洛陽の長官)として洛陽に赴任してきました。牛僧孺も詩人でしたので、白居易は政事を抜きにして牛僧孺とも交流を深めます。
 開成三年(838)には劉禹錫が太子賓客(正三品)分司東都に任ぜられ、洛陽に赴任してきました。白居易の周囲は賑やかになり、白居易はこの年、自伝である『酔吟先生伝』を書いて、自分の人生に一区切りつける心境になっていました。
 詩人として晩年の栄光に包まれた白居易でしたが、開成四年(839)の十月五日に風痺(ふうひ)の疾にかかりました。これは過度の飲酒による動脈硬化のため、右脳に出血が起こったもののようです。左足が不自由になりましたが、さいわい思考、記憶、言語には障害が生じませんでした。
 しかし、この機会に白居易は、自家に置いていた二人の妓女、樊素(はんそ)と小蛮(しょうばん)を自由の身にしてやることにしました。樊素は歌がうまく、小蛮は舞いが得意であったので、白居易が家妓として好んでいた女性です。白居易は二人の多年の労をねぎらったあと、自由の身になっても悪い春風になびかないようにと注意を与えます。

 白居易ー187
    又復戲答            又た復た戲れに答う

  柳老春深日又斜   柳老い春深くして  日又た斜(ななめ)なり
  任地飛向別人家   任地(さもあらばあれ)  飛んで別人の家に向かうを
  誰能更学孩童戲   誰か能(よ)く更に孩童(がいどう)の戲(ぎ)を学び
  尋逐春風捉柳花   春風(しゅんぷう)を尋ね逐(お)いて柳花(りゅうか)を捉えん

  ⊂訳⊃
          老いた柳に夕日が射し  春も深まり

          柳絮が飛んで  よそへ行っても仕方がない

          いっそ  子供らの遊びを真似て

          春風を追いながら  柳絮を捉まえるといたそうか


 ⊂ものがたり⊃ 「別柳枝」の詩を読んだ劉禹錫は、柳絮(りゅうじょ)は「風に随って好んで去り 誰が家にか落つる」と詩を返し、笑って白居易の未練をたしなめます。その詩に白居易が再度答えます。二人の老人の楽しげな交流です。

 白居易ー188
   喜入新年自詠         新年に入るを喜び自ら詠ず

  白鬚如雪五朝臣   白鬚(はくしゅ)雪の如し  五朝(ごちょう)の臣
  又値新正第七旬   又た値(あ)う新正   第七旬(だいしちじゅん)
  老過占他藍尾酒   老い過ぎて占(し)む  他(か)の藍尾(らんび)の酒
  病余收得到頭身   病余(びょうよ)  收め得たり  到頭(とうとう)の身(み)
  銷磨歳月成高位   歳月を銷磨(しょうま)して高位と成る
  比類時流是幸人   時流に比類すれば是(こ)れ幸人(こうじん)
  大暦年中騎竹馬   大暦(たいれき)年中  竹馬(ちくば)に騎(の)る
  幾人得見会昌春   幾人か見るを得たる  会昌(かいしょう)の春

  ⊂訳⊃
          顎鬚も雪のように白い  五帝に仕えた臣
          今日は  七十回目の新年を迎えた
          長老だから  屠蘇の杯を最後に傾け
          病も癒えて  晩年の身を保ち得る
          歳月を費やして  高位に昇ったことは
          世の人に比べて  幸運といえる
          大暦年中  竹馬に乗って遊んだ者で
          会昌の春に会えた者は  幾人いるであろうか


 ⊂ものがたり⊃ 開成五年(840)正月に、文宗が崩じました。文宗には後嗣がいましたが、宦官たちは文宗の弟の李炎(りえん)を擁立して、二十六歳の新帝武宗が即位します。四月になると、武宗は淮南節度使として地方にいた李徳裕を呼びもどし、宰相に任じました。李党政権の復活です。
 この年、白居易の娘阿羅に長男閣童(かくどう)が生まれました。白居易は六十九歳にしてやっと自分の血を引く男の孫に恵まれたのです。白居易はこの子が無事に育っことを神仏に祈らずにはいられません。白居易は香山寺の経蔵の増修改飾に力を注ぎます。
 翌会昌元年(841)は武宗の治政二年目です。白居易は七十歳になり、古稀を迎えました。しかし、この年から武宗の宮廷には、これまでと違った色合いが出はじめます。武宗はこの年、道士を宮中に入れ、祖父の憲宗が仏教を敬ったのとは逆に、道教に帰依するようになります。
 そんな年末、白居易は再び病を得て百日の休暇を願い出たあと、太子少傅分司東都の辞職を申し出ました。詩は明けて会昌二年(842)正月になり、七十一歳の新年を迎えたときの作品です。官途に就くために刻苦勉励して、憲宗、穆宗、敬宗、文宗、武宗の五代に仕え、七十回目の誕生日を正月二十日に迎えることになります。
 白居易はそれを幸せと感じ、国運衰退のときに生まれて、国運隆昌の時に会えたことを無邪気に喜びます。前年末に出してあった辞職願はほどなく受理され、白居易は最後の肩書として刑部尚書(正三品)を拝して致仕しました。致仕とは官吏としての身分を終了することです。

 白居易ー189
   自詠老身示諸家属   自ら老身を詠じ 諸々の家属に示す

  寿及七十五     寿(じゅ)は七十五に及び
  俸霑五十千     俸(ほう)は五十千(ごじっせん)に霑(うるお)う
  夫妻偕老日     夫妻(ふさい)   偕老(かいろう)の日
  甥姪聚居年     甥姪(せいてつ) 聚居(しゅうきょ)の年
  粥美嘗新米     粥(かゆ)  美にして新米(しんべい)を嘗(な)め
  袍温換故綿     袍(ほう)  温かにして故綿(こめん)を換(か)う
  家居雖濩落     家居(かきょ)   濩落(かくらく)なりと雖(いえど)も
  眷属幸団円     眷属(けんぞく)  幸(さいわい)に団円(だんえん)なり
  置榻素屏下     榻(とう)を素屏(そへい)の下(もと)に置き
  移炉青帳前     炉(ろ)を青帳(せいちょう)の前に移す
  書聴孫子読     書は孫子(そんし)の読むを聴き
  湯看侍児煎     湯は侍児(じじ)の煎(に)るを看(み)る
  走筆還詩債     筆を走らせて詩債(しさい)を還(かえ)し
  抽衣当薬銭     衣(ころも)を抽(ぬ)きて薬銭(やくせん)に当つ
  支分間事了     間事(かんじ)を支分(しぶん)し了(おわ)り
  爬背向陽眠     背を爬(か)きて  陽(ひ)に向かって眠る

  ⊂訳⊃
          寿(よわい)は七十五年
          俸禄は五万銭も頂いている
          夫婦は共白髪となり
          甥たちも同居している
          おいしい粥で新米を味わい
          古綿を換えた冬着は暖かだ
          屋敷はだだっ広いが
          親族揃って団欒できる
          腰掛けを無地の屏風の前に置き
          煖房を青い帳の前に移す
          孫が書を読む声を聞き
          侍女が湯を沸かすのを眺める
          筆を走らせて約束の詩を書き
          衣を質に入れて薬代に充てる
          何でもないことをやり終えると
          背なかを掻いて  日なたで昼寝をする


 ⊂ものがたり⊃ 白居易は致仕しましたが、その後も『白氏文集』の完成につとめ、前集五十巻、後集二十巻にまとめて廬山の東林寺に納めます。その年の七月に親友の劉禹錫が亡くなりました。自分以上に波瀾の人生を辿った劉禹錫が、ともかくも晩年を全うすることができたことに、白居易は慰めを覚えるのでした。ところがそこに思いがけなく、若い女婿の談弘謨の病死が伝えられます。白居易は娘の不運をなげきながら、娘と遺児二人を履道里の家に引き取るのでした。
 武宗は仏教弾圧で歴史に名を残しています。会昌三年(843)にはじまり、会昌五年(845)には廃仏は最高潮に達します。そのとき長安にいた日本の留学僧円仁(えんにん)も長安を立ち退かなくてはなりませんでした。そうしたなか、白居易は非智院の僧たちに提案して龍門八節石灘の開鑿に寄与し、僧侶が社会の実際面でも役立つことを示そうとします。しかし、道教の道士たちにまるめ込まれている武宗は、弾圧を緩めることはありませんでした。
 会昌六年(846)正月、七十五歳になった白居易は、前年の冬から老衰が目立ちはじめていましたが、まだ詩を書く意欲は衰えていませんでした。生涯最後の年の作品は、悠悠自適の生活を詠うものでした。
 詩中には老後の満ち足りたゆったりした時間が流れ、うらやましいほどです。前半八句の二句目、「俸禄は五十千に霑う」というのは退職後の年金で、現役時代の約半分とみられています。兄弟の子供たち、甥や姪をすべて引き取り、夫を亡くした娘と二人の孫も同居する大家族です。そのなかで、老詩人は家属の長老として悠然と暮らしています。「中隠」の生活は完全な姿で実現していました。
 都では廃仏のあらしが吹き荒れていましたが、春三月も過ぎようとするころ、都で大異変が生じます。不老長生の仙薬を飲み過ぎたのがもとで、武宗が急死したのです。皇太子李忱(りしん)が即位して宣宗となりますが、武宗にとっては叔父にあたります。異常な皇位の継承で、宦官たちが擁立したものです。
 皇位の変更はすぐに政変を呼び起こします。李徳裕は廃仏政策の責任を問われて四月に宰相を解任され、荊南節度使に左遷されます。かわって宣宗の信任を得たのは、翰林学士承旨になっていた白敏中(はくびんちゅう)です。翰林学士承旨というのは翰林学士の筆頭ですが、白敏中は翰林学士のまま宰相に任ぜられ、白居易の一族からはじめての宰相が生まれます。白居易は又従兄弟の出世を喜んだことでしょう。
 南の僻地に貶謫されていた牛僧孺と李宗閔は北の地、つまり都に近い任地に量移されます。二人ともすでに六十七、八歳の高齢でしたが、若い白敏中は古い世代の政治家の復活を警戒していたようです。李宗閔はほどなく都に召し返されますが、八月十四日に病死しました。この日は、白居易が洛陽の履道里の家で息を引き取ったのと同年同月同日です。
 生涯にわたって党争に巻き込まれるのを避けつづけた白居易は、十八年におよぶ洛陽閑居のあと、党争の一方の旗頭と同じ日に亡くなったのでした。享年七十五歳の大往生です。牛僧孺もほどなく亡くなり、李党の李徳裕はそのご海南島に再貶されて、その地で亡くなりますので、さしもの牛李の党争も終息することになったのです。
 白居易は没後、尚書右僕射(従二品)を贈られ、十一月に龍門東山の一角に葬られました。その塚はいまも同じ場所にあり、訪れる人も多いといいます。