「日帝の山林収奪を免れた貴重な金剛松の森を、山火事から守れ!」 … 当局が非常態勢

2009年02月15日 | 支那朝鮮関連
【韓国】「日帝の山林収奪を免れた貴重な金剛松の森を、山火事から守れ!」 … 当局が非常態勢(蔚珍) [02/12]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1234666361/-100

■山火事非常事態! 金剛松群落地を守れ
   ~ 蔚珍郡、相次ぐ火災で24時間非常勤務体制に突入

「金剛松の群落地を死守せよ!」

国内最大の金剛松群落地がある慶尚北道・蔚珍地域で最近山火事が相次いで発生し、蔚珍郡と蔚珍国有林管理所が山火事から金剛松群落地を保護するために必死の努力をしている。

蔚珍郡によると、金剛松の最大群落地である蔚珍郡内の国有林には若いもので樹齢10年、長いものでは520年になる金剛松が、1610haにわたる大規模な森を形成している。平均樹齢は150年に至る。幹の直径が60cm以上の金剛松1673本が成長している。

かつて他の地域でも鬱蒼としていた金剛松は、住民の無分別な伐採や日帝時代の山林収奪で荒廃したが、蔚珍地域は奥地という地域的特性のおかげで毀損されず、森が原型のまま良く保全されており、学術研究と遺伝子保存増殖などの価値が高い。

金剛松は成長が速くて樹形が美しく、木材としての価値が優れているため昔から宮廷や寺院などの建築材などとして活用されている。

しかし最近山火事が相次いで発生し、金剛松の群落地が脅威を受けている。このため蔚珍郡と蔚珍国有林管理所は、山火事を24時間予防するための非常勤務態勢に入った。<中略>

蔚珍地域では慶尚北道東海岸で冬の晴天が続き、最近山火事が相次いでいる。11日午前1時40分頃には箕城面で原因不明の火災が起き、公務員と消防隊員、住民など約250人が鎮火作業を行なった。

これに先立つ先月26日には竹梓面で山火事が発生して消火用ヘリ2機と約200人の人員が動員されたほか、翌27日には箕城面の国有林でも原因不明の山火事が発生した。特に旧正月連休期間中に相次いだ山火事には放火の疑いがあり、山林当局は緊張している。蔚珍郡では先月中に計7件の山火事が発生し、山林庁から「山火事多発自治体」に指定された。

▽ソース:世界日報(韓国語)(2009.02.13 00:34)
http://www.segye.com/Articles/NEWS/WHOLECOUNTRY/Article.asp?aid=20090212003619&subctg1=00&subctg2=00

▽関連スレ:
【韓国】 崇礼門再建で注目集まる松の木~日帝蛮行の松やに採取で傷つけられた金剛松(写真)[02/17]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1203252687/
【韓国】政府:「崇礼門(南大門)は完全復元します」 ⇔ 専門家:「それ無理。国産松材が手に入らないし」[02/11]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1202723684/


9 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/02/15(日) 11:54:48 ID:v/R8cffk
日帝は必死こいて植林やってたんだけど...


83 :エラ通信 ◆0/aze39TU2 :2009/02/15(日) 12:17:52 ID:QHGlcYWH
384 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2007/08/26(日) 17:35:12 ID:uBg7Jgz2
>>374
ちなみに、韓国政府の機関がまとめた『韓国林業50年史』という本には、次のような記述があります。


>殖民地 統治方法의 하나로서 山林警察制度를 導入하여 단속,
>規制主義로 實施되었던 他律的인 山林保護政策은
>日帝에 對한 우리民族의 反感을 刺戟함으로써
>抵抗表現으로서의 山林破壊行爲가 正當化되었다.
>長期間 이러한 意識이 韓國民에게 存在함으로써
>自然히 罪의식없이 利己的으로 山林을 利用하는 行動가 固着化되어 버렸다.

(↓日本語に訳すと)

>植民地統治方法の一つとして山林警察制度を導入して取り締まり、
>規制主義で実施された他律的な山林保護政策は
>日帝に対する我が民族の反感を刺激することで
>抵抗表現としての山林破壊行為が正当化された。
>長期間このような意識が韓国民に存在することで
>自然に罪の意識なく利己的に山林を利用する行動が固着化されてしまった.


つまり、
「日帝が森林保護のために山林を厳しく取り締まったせいで、『森林を荒廃させる行為=日帝への抵抗表現』となってしまったニダ!」
と、韓国人が主張している、というわけです。


91 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/02/15(日) 12:19:50 ID:eLU6gymB
保護のためには、 >>1 みたいなロジックにしないといかんのだろうな。
日帝が植林した山林だってことになると、日帝残滓だから全部伐採すべきって話になる。

実際、既にこんな↓話もあった。

朴正熙時代の植林、「親日」批判受け伐採
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/04/27/20050427000064.html



118 :エラ通信 ◆0/aze39TU2 :2009/02/15(日) 12:35:47 ID:QHGlcYWH
【韓国人の植林事情・桜】

(´・ω・) 戦前、日本が済州島に桜を植林し、公園を整備する。そして戦後・・・。
 ↓
<丶`田´> 「済州島の桜並木は日帝残滓ニダ!全部、ぶった斬るニダ!」
 ↓
本当に、全部ぶった斬っちゃいました…。
 ↓
<丶`∀´> 「嗚呼、切り株だらけで、なんて誇らしい眺め。スッキリしたニダ。ホルホルホル!」
 ↓
すると、どーゆーわけか、ソメイヨシノのウリナラ起源説が飛び出る。
 ↓
<; `Д´> 「た、大変ニダ!済州島の桜並木を全力で復元するニダ!!!」
 ↓
<丶`Д´>つ? (・ω・`;) 日本から桜の苗木を買ったり。
 ↓
<丶`∀´>木⊂<`Д´;->  在日同胞から苗木を寄付してもらったり。
 ↓
どうにかこうにか、やっとこさ桜並木を復元。
 ↓
<丶`∀´> 「嗚呼、桜だらけで、なんて誇らしい眺め。花見をするニダ。ホルホルホル」
 ↓
すると、また反日キター!
「日本人と在日がグルになって、桜の植林で韓国を侵略しているニダ!」
http://www.segye.com/Service5/ShellView.asp?TreeID=1258&PCode=0007&DataID=200604031553000162
 ↓
<丶`田´> 「済州島の桜は日帝残滓ニダ!全部、ぶった斬るニダ!」
 ↓
時同じくして、新説キター!
「日本が寄付したワシントンの桜は、実は日本が奪ったウリナラ起源の桜だったニダ!」
http://blog.chosun.com/blog.log.view.screen?blogId=7259&logId=1029784
 ↓
<丶`田´> 「日本人は桜を横取りしたニダ。アメリカへ行って韓国起源を広めるニダ!」
 ↓
<丶`д´> 「あれ???」


122 :エラ通信 ◆0/aze39TU2 :2009/02/15(日) 12:37:58 ID:QHGlcYWH
韓国】朴正熙大統領時代の植林、「親日」批判受け伐採。 - 植物まで親日狩り (朝鮮日報) 2005/04/27

30年以上ある大学博物館の象徴の木となってきたヒマラヤシダが今月12日に切り取られた。

 某地元紙は「3月末、全北(チョンブク)大学博物館を訪問した兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長が『ヒマラヤシダは朴正熙(パク・ジョンヒ)政権時代の1970年代、大規模に植えられた代表的な親日の残骸であるため、抜いてしまった方がよい』と勧めたため」と報道した。
中略
マンドゥン山を緑にするため、木を植えることを国策事業として推し進めてきた朴政権時代、日本から輸入した3種の木であるカラマツ、ヒノキ、スギも、このような区分法に従えば“親日の残骸”に属すことになる。

http://www.chosunonline.com/article/20050427000064

【韓国】「ヒマラヤシダは日帝残シダ!」 代表的な親日の残骸」切り取られる(朝鮮日報)[05/04/28]
http://www.chosunonline.com/article/20050427000067.html


174 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/02/15(日) 13:13:31 ID:EdofGHvk
歪められた朝鮮総督府 ~誰が近代化を教えたか  黄文雄 著、光文社

植林、河川・砂防工事、ダム建設

 李朝時代の飢餓の一因は、現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあった。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作すると、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこに豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。

 1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような旅行記を残している。

どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のために刈り取られている。山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど見られない。 

森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要というのが、寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。[1,p114]


176 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/02/15(日) 13:14:10 ID:EdofGHvk

 内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている。[2,p39]

 植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総合的な国土開発事業が展開された。

 これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108]

 こうした膨大な開発投資、産業保護を可能にした資本はどこから出てきたのだろうか。

 宇垣総督時代の総督府予算は昭和5年で、約2億円の規模であった。それに対し、朝鮮内部の税収は5千万円程度。日本の政府予算(すなわち日本国民の税金)から、毎年千数百万円から2千万円の規模の補填がなされた。この予算獲得のため、総督府の関係者が帝国議会や大蔵省の説得に奔走したというから、官僚の世界は今も昔も変わりない。それでも足りない分は、日本
の金融市場から集めた公債によってまかなわれた。[1,p142]

 ちなみに大英帝国支配下のインドでは、その予算の1/3を国防費の名目で、イギリスに納めていた。それにも関わらず、第2次大戦で徴集した264万人のインド兵の費用は、イギリス人将校の給料も含めて、インド自身に負担させていたという。[1,p179]

 朝鮮総督府の事業は、その他にも教育の普及、工業発展など多くの面にわたる。その投資は、結果的に見れば、すべて日本からの持ち出しで、我が国の経済に大きな負担となった。

 しかし戦後の韓国は、このインフラを踏み台に、自由民主主義国として発展した。外交面での摩擦は続いているが、台湾とともに、ある程度豊かな自由民主主義国家が近隣にあるということは、我が国の現在の国益からみても、計り知れない価値を持つ。

http://item.rakuten.co.jp/book/997468/


200 :<丶`>(・・`)(`ハ´  )さん:2009/02/15(日) 13:31:48 ID:dCGmtgAH
パク・テヒョク著 醜い韓国人 歴史検証編
「日帝が両班階級の横暴を取り締まったので、民衆の生活は楽になりました。民衆の側から見れば、李朝時代よりも日帝時代のほうが、生活があらゆる面で良くなったから、対日感情は決して悪いものではなかったんです。だから、独立運動が広範な支持を受けることがなかった。・・・・・・ それに、なんといっても、李朝時代の苛酷な身分制度の軛から解放されたことが、農村の雰囲気を明るくしましたね。

 日本人に対する一般人の態度は、今になって言われるようなものではなく、もっと親しいものでした。 

 私は中学校4年の中頃まで、学校でハングルを習いました。日本人の先生はみんな親切で、今、長野県におられるT先生や、名古屋のS先生、大阪のK先生は、貧しくて弁当を持って来ることができない朝鮮_人の生徒に、自分の弁当を与えたことも、しばしばありました。今でも、卒業生全員から慕われています。」

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。(パク・テヒョク著 醜い韓国人)

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、 化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と 河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。


204 :<丶`>(・・`)(`ハ´  )さん:2009/02/15(日) 13:34:30 ID:dCGmtgAH
(パク・テヒョク著  醜い韓国人)  
日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(さんかん)という監督官を村に置いた。また村人が山に入ることを禁じた。 私の小学校の日本人教師や、山林局に所属していた山監や、若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。日本統治時代には、そのせいで禿げ山だった山々が緑に覆われるようになった。
 ・・・・・・・・・・
 私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行われた。人々は話しに耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

 また「力を合わせて朝鮮を蘇生させましょう。今の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を蓄え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸はいつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い茂れば、天の恵みの雨の40パーセントを、飲み水や水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。
・・・・・・・・・・
日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどが禿げ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。

しかし、独立後にまた勝手気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。」








日中韓の研究者が集まり「日本の武士道」を研究
2009/02/17(火) 09:32
  東アジアにおける「武士道の研究」の国際シンポジウムが、15日に北京で開催された。これは北京日本学研究センターと中華日本哲学会が開催したもので、中国からは中国社会科学院、北京大学、南開大学、日本からは大阪市立大学、北海道大学、韓国からは嶺南大学など、日中韓の約100人の研究者が集まり、東アジアにおける日本の武士道研究について議論と交流を繰り広げた。

  武士道はかつて日本の歴史の中で大きな役割を果たしてきた、日本の思想を代表する文化現象の一つであり、日本の思想を理解するための重要なキーワードである。

  日本では武士道についての研究はかなり行われてきた。しかし中国や韓国では日本人の研究を紹介した著書の翻訳は出ているが、自国の視点から見たより一歩進んだ研究はあまり行われてこなかった。

  そのため日中韓の研究者が、武士道とはいったいどういうもので、いかに客観的に武士道を見るかという議論や交流を行うことは、東アジアでの日本の武士道研究を一層深め、東アジア諸国における日本の思想の理解を深めることができると期待されている。

  基調講演では、国際日本文化研究センター研究部の笠谷和比古教授が、歴史的視点から武士道の概念の成立と展開を論じ、韓国嶺南大学哲学系の崔在穆(チェジェモク)教授は、韓国の「花郎徒(ファランド)」と武士道との結び付けて歴史的な意味をさぐり、中国社会科学院哲学研究所の卞崇道教授は、明治時代の井上哲次郎を重点に明治思想における武士道を考察した。

  中国で「武士道」は、日本の民族精神のなぞを解く重要なキーワードの一つだ。新渡戸稲造の『武士道』は多くの中国語訳が出版されており、その他にもルース・ベネディクトの『菊と刀』、戴季陶の『日本論』、蒋百里の『日本人』は、日本を知る上での「日本四書」である。

  シンポジウムに参加した中国人研究者の一人は、「武士道の研究は、日中両国の学者が避けていたテーマだったが、日中韓の研究家たちが集まり、客観的に議論することは重要な意義がある。こうした論議を行うことで、日中両国はさらに深いレベルで相互に理解することができるだろう」と語った。写真はシンポジウム会場の様子。


※この記事は、「中国網(チャイナネット)日本語版」による提供です。中国網は中国国務院新聞弁公室の指導を受けて、中国互聯網新聞中心が各国語で運営する、中国政府による中国情報ポータルサイトです。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0217&f=national_0217_003.shtml


花郎 - Wikipedia

花郎(ふぁらん)は新羅の青年組織。一義的には教育的機能を帯びた宗教的機関。新羅滅亡後も様々な形で花郎の遺風が確認できる。

李朝時代には、花郎は男のシャーマン、シャーマンの夫、芸人、舞童、遊女などを指すようになった。李朝時代、彼らはいずれも社会の最下層に位置づけられていた。

 花郎軍事組織説
花郎は主として軍事組織である、あるいは準軍事機関とする言説は、綿密な再調査により覆されている。しかし、韓国では、第二次世界大戦の後、ナショナリズムに迎合した花郎讃美が大々的に行われ、花郎軍事組織説が定着している。

花郎軍事組織説が広まったのは、実は第二次世界大戦後である。李朝時代には花郎が史家の注目を浴びることは無く、言及された場合でも焦点は歌舞にあてられ、軍事的要素は欠落していた。

韓国における状況が変化したのは、李承晩大統領の指示のもとで大々的な宣伝が行われてからである。1949年に李?根によって発表された『花郎道研究』の中で、愛国心をかき立てる後世の数々の出来事を花郎精神の発露とされた。国民国家形成のために花郎精神なるものが創造され、報国精神として喧伝された。花郎の政治利用は、新羅の故地、慶尚道出身の朴正熙政権下に引き継がれた。その結果、花郎は武士団だったという神話は韓国ではすっかり定着した。「花郎部隊」は韓国陸軍の精鋭であり、「花郎台」は韓国陸軍士官学校の別称となり、韓国の武功勲章の4等級は「花郎武功勲章」と名づけられた。
皮肉なことに、尚武精神が評価されるようになったのは、朝鮮が日本の支配を受けた結果である。極端な武蔑視が支配的だった李朝時代には考えられないことである。「花郎精神」はある意味で日本統治下で宣伝された武士道精神の代替であるにもかかわらず、韓国では逆に「日本の武士の原型は新羅の花郎」などとまことしやかに語られている。

花郎神話には韓国の武道諸団体も飛びつき、その起源の一つと主張するようになった。ITF(国際テコンドー連盟)は、花郎を段位の名前としている。花郎道という名の武道団体は、それが新羅の花郎によって実践されたと主張するが、実際にはハプキドー(合気道)の亜種である。こうした動きは、逆に彼等の主張が現代の創作であることを証明している。
なお、「花郎道」なる用語は史料には登場しない。「武士道」との類推から作られたと見られる。朝鮮語で同音の「花郎徒」であれば歴史学の用語として許容可能である。

李ゾンウ 国技院 副院長の ‘テコンドー 過去’ショッキング 告白ー!空手 真似した 創始期 テコンドー
「チャングム」のまやかし~増殖する韓国の「自尊史観」

最新の画像もっと見る