【侵食される守り 沖縄米軍基地】(上)
反戦運動と結びつくスパイ活動 沖縄・嘉手納飛行場
2009/06/24
世界最強を誇る米軍の中で最大の戦闘航空集団とされる第18航空団が拠点にしている沖縄・嘉手納飛行場は、北東アジアから東南アジアにかけての安全保障の要としてつくられた。だが、いまや北朝鮮の核実験、さらには南シナ海における中国艦船を追う情報基地としてクローズアップされるようになり、それが反戦平和を旗印にした沖縄の反基地運動の監視対象となりつつある。そんな反戦機運の中で今度は中国など海外からのスパイ活動が活発化しようとしている。
記事本文の続き 「リムピース 追跡!在日米軍」と名付けられたウェブサイトが最近、大きな注目を浴びた。「リムピース」とはハワイ周辺海域で行われる、いわゆる日米合同軍事演習を意味する「リムパック」に対し、環太平洋平和活動という意味で命名されている。いわば基地撤去を求める反戦平和運動の延長線上にある。
そのリムピースが今年4月14日、嘉手納基地に駐機するWC135大気収集機、通称「コンスタントフェニックス」の機影を最初にとらえたからだ。
コンスタントフェニックスは旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故のさいにいち早く放射性物質を検出したことで知られる。放射性物質の観測でこれほど高性能な機能を発揮する偵察機は以前は複数あったが、いまは1機しかない。当然ながらその動向は極秘だった。
リムピースはそれをいち早く撮影し、リアルタイムで「ミサイル発射翌日にはすでにスタンバイしていた。北朝鮮の核実験あるいは核開発再開をかなり以前から予想し、準備していた」と解説して軍事専門家をうならせたのである。
実は、こうした撮影を可能にしていたのが基地そばにある「道の駅かでな」だった。「道の駅」は全国に900カ所近くあり、国土交通省が進める地域振興施設のひとつなのだが、嘉手納基地の場合、4階建ての道の駅施設屋上から広大な基地を見渡せるようになっている。結果、米軍基地が一望できる国際的な人気スポットになった。
そうした海外からの観光客の中に中国人基地監視グループも含まれていた。地元旅行社添乗員は次のように話している。「中国の団体客はかならず嘉手納基地をみたがるが、2年ほど前から5、6人の妙なグループが交じるようになった。普通の団体客とは別行動をし、タクシーをチャーターして嘉手納だけでなく普天間や那覇軍港、ホワイトビーチなどすべての米軍基地を連日、訪問する。日本語のやたらうまい通訳までつれており、基地監視が目的とすぐにわかった」
このグループは「道の駅かでな」屋上の軽食店員らにも目撃されていた。「機材が半端でない。5人ほどで完全に基地全域をカバーしている。なぜか偵察機の離着陸情報があるとかならず現れる」
気になるのはこうした“偵察”が日本の反戦平和グループとも連動している可能性がでていることだ。嘉手納基地周辺では次のような証言もあった。
「嘉手納基地の情報収集に熱心な男がいる。基地マニアの間ではよく知られた男で、革新政党事務所に出入りし、本土から来る反戦グループをときどき案内していた。その男が最近、どう見ても中国人要人とみられる外国人グループを案内していた」
似たようなケースは、中国の全国人民代表大会(全人代)代表団29人が3月に3日間にわたって沖縄を訪問したさいにも起きた。訪日団は当初、嘉手納基地が眺望できる「道の駅かでな」を強く要望していたのだが、直前に「沖縄石油備蓄基地」(うるま市)訪問に切り替えたのである。
石油資源のない日本は国家備蓄基地を全国に張り巡らしているが、米軍基地の多い沖縄の場合、有事の際に重要な戦略拠点になり得る。しかも備蓄基地近くにはホワイトビーチ米海軍基地があり、ホワイトビーチはかつての台湾有事で補給基地として活用された経緯がある。
全人代訪日団は日中議員友好を理由に訪日したが、当初から沖縄訪問に強くこだわった。理由は「歴史的、文化的つながりを背景とした経済交流」だったが、なぜか、石油基地見学に固執したのである。しかも代表団には人民解放軍幹部2人が含まれていた。
問題は、沖縄タイムスや琉球新報など地元マスコミでは経済界と訪日団の昼食会など経済交流ばかりが報じられ、石油基地訪問については沈黙が守られたことだった。(前田徹)
【侵食される守り 沖縄米軍基地】(中)
中国船出現に米軍機飛来 日本の海上保安の現状
2009/06/24
沖縄の本土復帰後、日本の南西海域を担当してきた第11管区海上保安本部は日本の海を守る上で最も厳しい現実に直面してきた。この海域には中国や台湾が領有を主張する尖閣諸島があり、さらには東シナ海の海底資源問題などで領海の最前線は一触即発の危険さえはらみつつある。
記事本文の続き 第11管区海上保安本部は平成4年3月、「南西海域の海上保安、20年の歩み」という活動記録を発刊した。その中に「新海洋時代における領海警備」という記述があった。
「本件は昭和53年(1978年)4月12日午前7時半ごろ、哨戒中の巡視船『やえやま』が魚釣島の北北西海域に約100隻の船影をレーダーでとらえたことから始まった…」
わずか21行、1ページに満たない記述は淡々と漁船による領海侵犯事件を記録しているが、「五星紅旗(中国国旗)を掲げ、機銃を装備した十数隻の漁船が退去勧告を受け入れず、領有権を主張した」という表現に目がとまった。つまり漁船ではなく武装船が事件を起こしていたのである。
「やえやま」は31年前、現場で孤立無援のまま300隻以上の武装船と対峙(たいじ)した。当時の海保隊員らの証言を総合すれば第二次大戦後初めて中国と日本が武力衝突する可能性があった。
「あの日の夜明け前、予定通り石垣島から尖閣諸島に向った時のことでした。レーダーが異常反応を示したのです。乗組員全員に緊張が走りました。最初はレーダーが濃い霧か何かをとらえただけの間違いだろうと考えたわけですが、現場に到着して目を見張った。優に300隻を超す漁船や貨物船風の船舶が五星紅旗を掲げ、自動小銃を抱えた人民服の兵士が乗船していたからです。(中略)」
「われわれには手に負えないと考えた。午前8時、管区本部に応援を依頼し、1時間後にはどこからか米軍機が飛来した。これで助かったと思いましたね。ところが、米軍機は上空を旋回するばかりで…。(中略)そのうち中国船は、どんどん領海内に入り込み、上陸の準備を始めた。阻止できるのは巡視艇1隻だけ。小型艇に5人ほどの隊員が乗り込み、退去勧告のため乗り込むことを決意したが、貨物船と見えた大型船は重機銃を備えつけた武装船とわかり驚いた。船内のあちこちから軍服を着た兵士とみられる男が自動小銃を構え、手が震えているのもはっきりと見えた。われわれはすぐにうつぶせになり、武器のないことを示そうとしたが、ひとつ間違えれば射殺されていた」
事件の深刻さに気づいた海上保安本部は中国武装船団の発見から2日後に尖閣諸島警備実施本部を設置、全国から集まった10隻の巡視艇、4機の航空機で船団を領海外に押し戻したと記述されている。事件は2カ月後、収束した。
だが、当時の海保隊員らは、実態は「押し戻したのではなく中国側が断念したからだ」と証言した。
「文化大革命直後の中国軍はまだ近代化にほど遠く、まともな艦船がなかった。周辺の海図さえなかった。それが断念の背景だ」
さらに武装船が重機銃を装備していたことについて「(沖縄駐留の)米軍機の反応を確かめる意味があったのでは」と話した。
あれからほぼ30年を経て中国軍の近代化は改革開放による経済発展とともに急速に進んでいる。米国防総省が今春、発表した「中国の軍事力に関する年次報告」では、「中国は2020年までに複数の空母を建造し、EEZ(排他的経済水域)の権益や領有権の主張を強めるだろう」と、警告している。
また、中国海洋調査船の活動についても海保幹部は、「この10年間、中国の調査船の航路に赤線を入れてみると、東シナ海は真っ赤になってしまった。沖縄近辺の詳細な海図をすでに持っているはずだ」と、話している。
昨年12月、その調査船2隻が尖閣諸島近くに停泊した。日本の領海内だ。だが、退去勧告に対して中国海洋調査船は「中国領海から退去せよ」と逆に厳しい口調で返答してきたという。(前田徹)
【侵食される守り 沖縄米軍基地】(下)
チュチェ思想と反基地運動
2009年6月24日
北朝鮮のミサイル発射準備で大騒ぎした今年3月、「日本チュチェ(主体)思想研究代表団」による訪朝報告会が沖縄で行われた。団長と研究会の全国連絡会長は実は沖縄で反戦平和運動を展開してきた一坪反戦地主だった。この報告会がどこかで反基地運動と結びついているか、どうかはわからない。が、いまや沖縄では反戦平和は表だった批判さえ許されなくなっている。
日本キムイルソン主義研究会が今年4月に発行した雑誌「キムイルソン主義研究」(129号)に「未来社会をさし示す朝鮮社会主義」と題する座談会が掲載された。
出席者は2月12日から3月4日まで21日間にわたって訪朝したチュチェ思想研究訪朝団(6人)団長の高良有政氏と副団長の仲村芳信氏。さらに司会役には沖縄チュチェ思想研究会員で同全国連絡会会長の佐久川政一氏の姿もあった。
その報告座談会を読むと、まず佐久川氏が「アメリカや日本は(人工衛星を)ミサイルと決めつけ、反朝鮮キャンペーンをあおっています。こういう状況の中でチュチェ思想を広め、日朝友好を進めるものです」とあいさつ、さらに「北朝鮮には失業者はいない。政治と人民が一体となった“理想国家”」「外国の侵略をはねのける武力が不可欠」(仲村副団長)、「世界中が不況の中で不況知らずの北朝鮮は100年に1度の奇跡」(高良団長)といった、かつて共産圏国家でよくみかけられたプロパガンダ(宣伝)が続いた。
◆北朝鮮擁護
佐久川氏は沖縄における反戦平和、そして反基地運動の中心的人物の一人で、自身が学長だったこともある沖縄大学公式サイトでは「憲法を専門としながら沖縄の地に根ざした平和運動を一貫して続けた」と紹介されている。昭和57年、基地撤去を目指す団体として「一坪反戦地主会」が結成されると即座に参加した。
一坪反戦地主会は沖縄の反基地運動、さらには反戦平和運動の中核で、結成当時のメンバーには沖縄世論を動かすマスコミ幹部や県幹部職員、労組指導者、大学教授といったそうそうたる顔ぶれが並んでいる。その意味で反戦平和は沖縄知識人層を見事に縦断している。例えば佐久川氏の場合、「普天間基地包囲大行動」実行委員長を平成10年、16年と2度も務め、1万6千人(主催者発表)の大衆動員を成功させ、12年の「カデナ(嘉手納)基地包囲行動」でも代表だった。
では、沖縄の反戦平和が、その対極ともいえる核開発やミサイル実験に力を注ぐ北朝鮮をなぜ擁護しなければならないのか。この疑問に対して佐久川氏は次のように答えた。
「それは沖縄問題を考える上で(北朝鮮前国家主席の)金日成のチュチェ思想が非常に参考になると考えたからです。『沖縄と日米』『北朝鮮と日米』という類似性に気づくと非常にわかりやすい。北朝鮮は主体的に植民地支配を脱した。かつて大田(昌秀)知事は私たち学者を訪米団として派遣し、そんな北朝鮮はアメリカにとって脅威ではないと説明して回ったことがあるほどだ…」
◆共通した認識
大田氏は知事選で敗れた後、12年になって125人という大規模な朝鮮沖縄友好訪問団を組織した。まるで一国を代表するかのような大訪朝団には秘書長役として一坪反戦地主の元沖縄タイムス労組委員長や県幹部らも多数参加した。
当時の県教育文化資料センター事務局長の久高賢市氏は「敵は社会主義国北朝鮮にあらず、脅威論を展開し軍事的緊張関係を継続させようと喧伝(けんでん)し、沖縄の米軍基地を固定しようかとする輩(やから)にあるのだ」(月刊『日本の進路』12年6月号)と、訪朝報告を興奮気味に書いている。
沖縄が帝国主義の犠牲という位置づけ、さらには帝国主義国(日本)からの離脱(独立)の是非が問われている点はまさにチュチェ思想を信じる知識人層に共通した認識といえる。一坪反戦地主の一人で元沖縄タイムス論説委員の川満信一氏は昭和55年、「琉球共和社会憲法C私案」を発表、沖縄の日本からの自立を訴えて知識層に大きな反響を呼んだ。
だが、実際には独立運動が具体化したことはなく、問題はそうした機運が、緊急性を帯びる「日本の守り」から目をそらしていることだろう。(前田徹)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/269888/
革命勢力が工作する沖縄の実態
対馬問題で国境問題フォーラム「戦闘部隊配置を」
2009.6.25 21:56
韓国資本による不動産の買い占めが問題化している長崎県対馬市の国境問題を考えようと、「対馬フォーラム~にっぽんを守る!『防人の島』の集い~」が25日、同市で開かれ、安全保障問題に詳しい評論家、青山繁晴氏が講演。「国境を本当に守るのなら、国は対馬に戦闘部隊を配置すべきだ」と主張した。
社団法人「日本青年会議所」の主催。同会議所のメンバーのほか、市民ら約300人が集まった。
青山氏は、韓国資本による海上自衛隊対馬防備隊本部(同市美津島町竹敷)の隣接地買収について、「監視部隊しか置いていない日本は対馬を守る気はないと思われている」と指摘。「拉致被害者を本気で取り戻さない拉致問題と同じ構図」と危機感を示した。
フォーラムの冒頭では、対馬市の財部能成市長と、東シナ海の国境、沖縄県与那国町の外間守吉町長が対談。財部市長は「国は周縁部の島への意識が希薄」と訴え、外間町長は「外務省はなかなか動かないが、『国境』は国がやるべき仕事」と批判した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090625/plc0906252157014-n1.htm
「 日本で暗躍するロシア人スパイを描く『秘匿捜査』に実名で登場の鈴木宗男氏 」
2009年06月20日
『週刊ダイヤモンド』 2009年6月20日号
一見平和でのどかな日本で、日々、熾烈なスパイ活動が進行中だ。安全と水はタダなどと表現される日本人の思い込みとは裏腹に、情報工作員らを相手にした闘いの実態はきわめて厳しい。
その一端を描いた竹内明氏の『ドキュメント 秘匿捜査』(講談社)は、日本でうごめくロシア人スパイたち、彼らに取り込まれ情報提供する日本人たちの姿に焦点を当てる。
氏はテレビ局勤務の記者である。「諜報戦への国民の関心を喚起したい」との思いから、8年間、100人近くへの取材を重ねた。ノンフィクションとして完成させた同書だが、日本の情報機関で働く男たち、および彼らの監視対象となった人びとの多くが仮名で登場する。実名で登場するのはロシア人スパイたちとごく少数の日本人である。
日本外交のなかでも、ロシア外交にはとりわけ暗い影がつきまとう。日露関係自体が他のいかなる国との外交と比べても、多くの問題を含んでいる。
日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に攻め込んだ旧ソ連軍、日本人女性への蛮行、60万人とも70万人ともいわれる軍人ら日本人男性の強制抑留とおびただしい犠牲、北方四島の不法占拠。これらすべてについて、非も認めず開き直ってきたのがロシアである。
現在でも、サハリン2のプロジェクトのように、国際契約の条件を突然変え、経営権を奪い取る。国益追求に当たって、他国なら、それでも考慮するような表面的繕いや理論武装にさえ気をつかわず、力で押してくるのがロシアである。わかりやすいといえばわかりやすく、粗野といえば粗野である。
近年、そのロシアを日本の外交カードとして、対中国、対米国に活用すべしと主張する人びとがいる。むろん日露関係もよいほうがよい。だが、ロシアがどれほど信頼出来る国かについて冷徹な分析を忘れてはならない。日露関係緊密化を主張する人びとには、1945年8月の敗戦に至るまでの日ソ交渉、ソ連に終戦の仲介を頼った日本への回答が8月9日の対日参戦だったことを、忘れないでほしい。
『秘匿捜査』には複数のスパイ事件が登場するが、SVR(ロシア対外諜報庁)のボリス・V・スミルノフをめぐる「あまりにも不条理な出来事」(120ページ)には、思わず注目した。
ロシア人スパイで、東京から米国に亡命した人物にレフチェンコという人物がいた。有楽町の外国特派員協会のメンバーで、彼の亡命は、記者クラブの記者仲間でも大きな話題となった。スミルノフの名前はその「レフチェンコ証言」に登場する。彼は「レフチェンコの前任者として、政治家や新聞社幹部ら11人のエージェントを運営して、対日工作にあたっていた」のだ。
その大物スパイのスミルノフが98年9月、2度目の東京赴任を果たした。表向きは外交官だが、実質はSVRの東京「駐在部長」だったという。
警視庁外事一課は彼を「強制追尾」の対象とした。背後にピッタリと張り付く手法で、摘発された元KGB機関員のプレオブラジェンスキーが、回顧録で「ソ連のスパイなら誰でも夢にまでうなされる」と書いたほどの効果があったと、竹内氏は書いている。
だが、強制追尾は、突然、国会議員からの電話が発端で、中止された。竹内氏はこう書いている。
「オモテ班員(強制追尾をする警視庁外事一課の班員)はすぐにピンと来た。その国会議員の名も、そしてスミルノフと国会議員を仲介しているある人物のことも」
さらに、氏はこう記した。「電話の主は鈴木宗男だった」と。
ロシアスパイ、熾烈な情報戦、国益をかけた闘い。そのなかで、命を落とした人も、落としそうになった人もいる。竹内氏は、事実の記述にとどめ、それ以上の踏み込みはしていない。それは同書を手に取る読者一人ひとりの知的洞察に任されているということだ。
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/06/20/
新航路の第1便が境港に入港
鳥取県が地域経済の起爆剤として期待する境港と韓国、ロシアを結ぶ国際定期航路の第1便が境港に入港しました。
入港したのは韓国の海運会社、「DBSクルーズフェリー」が運航するおよそ1万4000トンの貨客船「イースタンドリーム」で、29日夕方、韓国のトンへを出港し、30日午前10時前に境港に到着しました。
岸壁では地元の和太鼓のグループが勇壮な演奏で歓迎し、鳥取県の平井知事や境港市の中村市長らが韓国の小旗を振って出迎えました。そして、カンウォン道のキム・ジンソン知事など韓国側の関係者らが降り立つと、平井知事や中村市長らが花束を手渡して歓迎しました。
平井知事は「この日を迎えるまで大変な苦労があり、本当にうれしい。これを機にさらに関係各国の交流が発展するよう期待したい」と話していました。
新しい航路は韓国のトンヘを拠点にして境港とロシアのウラジオストクを結び、境港にはトンヘから週2回入港します。
航路を利用した貿易など経済の活性化が期待されていますが、7月1日に境港からトンヘに向けて出港する便を利用するのは鳥取市の電気機器メーカーなど県内の3社だけで、新航路の定着には今後の貨物の確保が課題です。
http://www.nhk.or.jp/tottori/lnews/01.html
江原道知事に「名誉県民」
6月30日 17:38
30日に境港に入港した日韓ロ定期貨客船で来日した韓国・江原道の金知事に対し、鳥取県の平井伸治知事から名誉県民顕彰が贈呈された。
http://www.nnn.co.jp/today/090630/20090630154.html
韓国知事に名誉県民賞 : 鳥取 30日第1号授与 貨客船就航に尽力
反戦運動と結びつくスパイ活動 沖縄・嘉手納飛行場
2009/06/24
世界最強を誇る米軍の中で最大の戦闘航空集団とされる第18航空団が拠点にしている沖縄・嘉手納飛行場は、北東アジアから東南アジアにかけての安全保障の要としてつくられた。だが、いまや北朝鮮の核実験、さらには南シナ海における中国艦船を追う情報基地としてクローズアップされるようになり、それが反戦平和を旗印にした沖縄の反基地運動の監視対象となりつつある。そんな反戦機運の中で今度は中国など海外からのスパイ活動が活発化しようとしている。
記事本文の続き 「リムピース 追跡!在日米軍」と名付けられたウェブサイトが最近、大きな注目を浴びた。「リムピース」とはハワイ周辺海域で行われる、いわゆる日米合同軍事演習を意味する「リムパック」に対し、環太平洋平和活動という意味で命名されている。いわば基地撤去を求める反戦平和運動の延長線上にある。
そのリムピースが今年4月14日、嘉手納基地に駐機するWC135大気収集機、通称「コンスタントフェニックス」の機影を最初にとらえたからだ。
コンスタントフェニックスは旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故のさいにいち早く放射性物質を検出したことで知られる。放射性物質の観測でこれほど高性能な機能を発揮する偵察機は以前は複数あったが、いまは1機しかない。当然ながらその動向は極秘だった。
リムピースはそれをいち早く撮影し、リアルタイムで「ミサイル発射翌日にはすでにスタンバイしていた。北朝鮮の核実験あるいは核開発再開をかなり以前から予想し、準備していた」と解説して軍事専門家をうならせたのである。
実は、こうした撮影を可能にしていたのが基地そばにある「道の駅かでな」だった。「道の駅」は全国に900カ所近くあり、国土交通省が進める地域振興施設のひとつなのだが、嘉手納基地の場合、4階建ての道の駅施設屋上から広大な基地を見渡せるようになっている。結果、米軍基地が一望できる国際的な人気スポットになった。
そうした海外からの観光客の中に中国人基地監視グループも含まれていた。地元旅行社添乗員は次のように話している。「中国の団体客はかならず嘉手納基地をみたがるが、2年ほど前から5、6人の妙なグループが交じるようになった。普通の団体客とは別行動をし、タクシーをチャーターして嘉手納だけでなく普天間や那覇軍港、ホワイトビーチなどすべての米軍基地を連日、訪問する。日本語のやたらうまい通訳までつれており、基地監視が目的とすぐにわかった」
このグループは「道の駅かでな」屋上の軽食店員らにも目撃されていた。「機材が半端でない。5人ほどで完全に基地全域をカバーしている。なぜか偵察機の離着陸情報があるとかならず現れる」
気になるのはこうした“偵察”が日本の反戦平和グループとも連動している可能性がでていることだ。嘉手納基地周辺では次のような証言もあった。
「嘉手納基地の情報収集に熱心な男がいる。基地マニアの間ではよく知られた男で、革新政党事務所に出入りし、本土から来る反戦グループをときどき案内していた。その男が最近、どう見ても中国人要人とみられる外国人グループを案内していた」
似たようなケースは、中国の全国人民代表大会(全人代)代表団29人が3月に3日間にわたって沖縄を訪問したさいにも起きた。訪日団は当初、嘉手納基地が眺望できる「道の駅かでな」を強く要望していたのだが、直前に「沖縄石油備蓄基地」(うるま市)訪問に切り替えたのである。
石油資源のない日本は国家備蓄基地を全国に張り巡らしているが、米軍基地の多い沖縄の場合、有事の際に重要な戦略拠点になり得る。しかも備蓄基地近くにはホワイトビーチ米海軍基地があり、ホワイトビーチはかつての台湾有事で補給基地として活用された経緯がある。
全人代訪日団は日中議員友好を理由に訪日したが、当初から沖縄訪問に強くこだわった。理由は「歴史的、文化的つながりを背景とした経済交流」だったが、なぜか、石油基地見学に固執したのである。しかも代表団には人民解放軍幹部2人が含まれていた。
問題は、沖縄タイムスや琉球新報など地元マスコミでは経済界と訪日団の昼食会など経済交流ばかりが報じられ、石油基地訪問については沈黙が守られたことだった。(前田徹)
【侵食される守り 沖縄米軍基地】(中)
中国船出現に米軍機飛来 日本の海上保安の現状
2009/06/24
沖縄の本土復帰後、日本の南西海域を担当してきた第11管区海上保安本部は日本の海を守る上で最も厳しい現実に直面してきた。この海域には中国や台湾が領有を主張する尖閣諸島があり、さらには東シナ海の海底資源問題などで領海の最前線は一触即発の危険さえはらみつつある。
記事本文の続き 第11管区海上保安本部は平成4年3月、「南西海域の海上保安、20年の歩み」という活動記録を発刊した。その中に「新海洋時代における領海警備」という記述があった。
「本件は昭和53年(1978年)4月12日午前7時半ごろ、哨戒中の巡視船『やえやま』が魚釣島の北北西海域に約100隻の船影をレーダーでとらえたことから始まった…」
わずか21行、1ページに満たない記述は淡々と漁船による領海侵犯事件を記録しているが、「五星紅旗(中国国旗)を掲げ、機銃を装備した十数隻の漁船が退去勧告を受け入れず、領有権を主張した」という表現に目がとまった。つまり漁船ではなく武装船が事件を起こしていたのである。
「やえやま」は31年前、現場で孤立無援のまま300隻以上の武装船と対峙(たいじ)した。当時の海保隊員らの証言を総合すれば第二次大戦後初めて中国と日本が武力衝突する可能性があった。
「あの日の夜明け前、予定通り石垣島から尖閣諸島に向った時のことでした。レーダーが異常反応を示したのです。乗組員全員に緊張が走りました。最初はレーダーが濃い霧か何かをとらえただけの間違いだろうと考えたわけですが、現場に到着して目を見張った。優に300隻を超す漁船や貨物船風の船舶が五星紅旗を掲げ、自動小銃を抱えた人民服の兵士が乗船していたからです。(中略)」
「われわれには手に負えないと考えた。午前8時、管区本部に応援を依頼し、1時間後にはどこからか米軍機が飛来した。これで助かったと思いましたね。ところが、米軍機は上空を旋回するばかりで…。(中略)そのうち中国船は、どんどん領海内に入り込み、上陸の準備を始めた。阻止できるのは巡視艇1隻だけ。小型艇に5人ほどの隊員が乗り込み、退去勧告のため乗り込むことを決意したが、貨物船と見えた大型船は重機銃を備えつけた武装船とわかり驚いた。船内のあちこちから軍服を着た兵士とみられる男が自動小銃を構え、手が震えているのもはっきりと見えた。われわれはすぐにうつぶせになり、武器のないことを示そうとしたが、ひとつ間違えれば射殺されていた」
事件の深刻さに気づいた海上保安本部は中国武装船団の発見から2日後に尖閣諸島警備実施本部を設置、全国から集まった10隻の巡視艇、4機の航空機で船団を領海外に押し戻したと記述されている。事件は2カ月後、収束した。
だが、当時の海保隊員らは、実態は「押し戻したのではなく中国側が断念したからだ」と証言した。
「文化大革命直後の中国軍はまだ近代化にほど遠く、まともな艦船がなかった。周辺の海図さえなかった。それが断念の背景だ」
さらに武装船が重機銃を装備していたことについて「(沖縄駐留の)米軍機の反応を確かめる意味があったのでは」と話した。
あれからほぼ30年を経て中国軍の近代化は改革開放による経済発展とともに急速に進んでいる。米国防総省が今春、発表した「中国の軍事力に関する年次報告」では、「中国は2020年までに複数の空母を建造し、EEZ(排他的経済水域)の権益や領有権の主張を強めるだろう」と、警告している。
また、中国海洋調査船の活動についても海保幹部は、「この10年間、中国の調査船の航路に赤線を入れてみると、東シナ海は真っ赤になってしまった。沖縄近辺の詳細な海図をすでに持っているはずだ」と、話している。
昨年12月、その調査船2隻が尖閣諸島近くに停泊した。日本の領海内だ。だが、退去勧告に対して中国海洋調査船は「中国領海から退去せよ」と逆に厳しい口調で返答してきたという。(前田徹)
【侵食される守り 沖縄米軍基地】(下)
チュチェ思想と反基地運動
2009年6月24日
北朝鮮のミサイル発射準備で大騒ぎした今年3月、「日本チュチェ(主体)思想研究代表団」による訪朝報告会が沖縄で行われた。団長と研究会の全国連絡会長は実は沖縄で反戦平和運動を展開してきた一坪反戦地主だった。この報告会がどこかで反基地運動と結びついているか、どうかはわからない。が、いまや沖縄では反戦平和は表だった批判さえ許されなくなっている。
日本キムイルソン主義研究会が今年4月に発行した雑誌「キムイルソン主義研究」(129号)に「未来社会をさし示す朝鮮社会主義」と題する座談会が掲載された。
出席者は2月12日から3月4日まで21日間にわたって訪朝したチュチェ思想研究訪朝団(6人)団長の高良有政氏と副団長の仲村芳信氏。さらに司会役には沖縄チュチェ思想研究会員で同全国連絡会会長の佐久川政一氏の姿もあった。
その報告座談会を読むと、まず佐久川氏が「アメリカや日本は(人工衛星を)ミサイルと決めつけ、反朝鮮キャンペーンをあおっています。こういう状況の中でチュチェ思想を広め、日朝友好を進めるものです」とあいさつ、さらに「北朝鮮には失業者はいない。政治と人民が一体となった“理想国家”」「外国の侵略をはねのける武力が不可欠」(仲村副団長)、「世界中が不況の中で不況知らずの北朝鮮は100年に1度の奇跡」(高良団長)といった、かつて共産圏国家でよくみかけられたプロパガンダ(宣伝)が続いた。
◆北朝鮮擁護
佐久川氏は沖縄における反戦平和、そして反基地運動の中心的人物の一人で、自身が学長だったこともある沖縄大学公式サイトでは「憲法を専門としながら沖縄の地に根ざした平和運動を一貫して続けた」と紹介されている。昭和57年、基地撤去を目指す団体として「一坪反戦地主会」が結成されると即座に参加した。
一坪反戦地主会は沖縄の反基地運動、さらには反戦平和運動の中核で、結成当時のメンバーには沖縄世論を動かすマスコミ幹部や県幹部職員、労組指導者、大学教授といったそうそうたる顔ぶれが並んでいる。その意味で反戦平和は沖縄知識人層を見事に縦断している。例えば佐久川氏の場合、「普天間基地包囲大行動」実行委員長を平成10年、16年と2度も務め、1万6千人(主催者発表)の大衆動員を成功させ、12年の「カデナ(嘉手納)基地包囲行動」でも代表だった。
では、沖縄の反戦平和が、その対極ともいえる核開発やミサイル実験に力を注ぐ北朝鮮をなぜ擁護しなければならないのか。この疑問に対して佐久川氏は次のように答えた。
「それは沖縄問題を考える上で(北朝鮮前国家主席の)金日成のチュチェ思想が非常に参考になると考えたからです。『沖縄と日米』『北朝鮮と日米』という類似性に気づくと非常にわかりやすい。北朝鮮は主体的に植民地支配を脱した。かつて大田(昌秀)知事は私たち学者を訪米団として派遣し、そんな北朝鮮はアメリカにとって脅威ではないと説明して回ったことがあるほどだ…」
◆共通した認識
大田氏は知事選で敗れた後、12年になって125人という大規模な朝鮮沖縄友好訪問団を組織した。まるで一国を代表するかのような大訪朝団には秘書長役として一坪反戦地主の元沖縄タイムス労組委員長や県幹部らも多数参加した。
当時の県教育文化資料センター事務局長の久高賢市氏は「敵は社会主義国北朝鮮にあらず、脅威論を展開し軍事的緊張関係を継続させようと喧伝(けんでん)し、沖縄の米軍基地を固定しようかとする輩(やから)にあるのだ」(月刊『日本の進路』12年6月号)と、訪朝報告を興奮気味に書いている。
沖縄が帝国主義の犠牲という位置づけ、さらには帝国主義国(日本)からの離脱(独立)の是非が問われている点はまさにチュチェ思想を信じる知識人層に共通した認識といえる。一坪反戦地主の一人で元沖縄タイムス論説委員の川満信一氏は昭和55年、「琉球共和社会憲法C私案」を発表、沖縄の日本からの自立を訴えて知識層に大きな反響を呼んだ。
だが、実際には独立運動が具体化したことはなく、問題はそうした機運が、緊急性を帯びる「日本の守り」から目をそらしていることだろう。(前田徹)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/269888/
革命勢力が工作する沖縄の実態
対馬問題で国境問題フォーラム「戦闘部隊配置を」
2009.6.25 21:56
韓国資本による不動産の買い占めが問題化している長崎県対馬市の国境問題を考えようと、「対馬フォーラム~にっぽんを守る!『防人の島』の集い~」が25日、同市で開かれ、安全保障問題に詳しい評論家、青山繁晴氏が講演。「国境を本当に守るのなら、国は対馬に戦闘部隊を配置すべきだ」と主張した。
社団法人「日本青年会議所」の主催。同会議所のメンバーのほか、市民ら約300人が集まった。
青山氏は、韓国資本による海上自衛隊対馬防備隊本部(同市美津島町竹敷)の隣接地買収について、「監視部隊しか置いていない日本は対馬を守る気はないと思われている」と指摘。「拉致被害者を本気で取り戻さない拉致問題と同じ構図」と危機感を示した。
フォーラムの冒頭では、対馬市の財部能成市長と、東シナ海の国境、沖縄県与那国町の外間守吉町長が対談。財部市長は「国は周縁部の島への意識が希薄」と訴え、外間町長は「外務省はなかなか動かないが、『国境』は国がやるべき仕事」と批判した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090625/plc0906252157014-n1.htm
「 日本で暗躍するロシア人スパイを描く『秘匿捜査』に実名で登場の鈴木宗男氏 」
2009年06月20日
『週刊ダイヤモンド』 2009年6月20日号
一見平和でのどかな日本で、日々、熾烈なスパイ活動が進行中だ。安全と水はタダなどと表現される日本人の思い込みとは裏腹に、情報工作員らを相手にした闘いの実態はきわめて厳しい。
その一端を描いた竹内明氏の『ドキュメント 秘匿捜査』(講談社)は、日本でうごめくロシア人スパイたち、彼らに取り込まれ情報提供する日本人たちの姿に焦点を当てる。
氏はテレビ局勤務の記者である。「諜報戦への国民の関心を喚起したい」との思いから、8年間、100人近くへの取材を重ねた。ノンフィクションとして完成させた同書だが、日本の情報機関で働く男たち、および彼らの監視対象となった人びとの多くが仮名で登場する。実名で登場するのはロシア人スパイたちとごく少数の日本人である。
日本外交のなかでも、ロシア外交にはとりわけ暗い影がつきまとう。日露関係自体が他のいかなる国との外交と比べても、多くの問題を含んでいる。
日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に攻め込んだ旧ソ連軍、日本人女性への蛮行、60万人とも70万人ともいわれる軍人ら日本人男性の強制抑留とおびただしい犠牲、北方四島の不法占拠。これらすべてについて、非も認めず開き直ってきたのがロシアである。
現在でも、サハリン2のプロジェクトのように、国際契約の条件を突然変え、経営権を奪い取る。国益追求に当たって、他国なら、それでも考慮するような表面的繕いや理論武装にさえ気をつかわず、力で押してくるのがロシアである。わかりやすいといえばわかりやすく、粗野といえば粗野である。
近年、そのロシアを日本の外交カードとして、対中国、対米国に活用すべしと主張する人びとがいる。むろん日露関係もよいほうがよい。だが、ロシアがどれほど信頼出来る国かについて冷徹な分析を忘れてはならない。日露関係緊密化を主張する人びとには、1945年8月の敗戦に至るまでの日ソ交渉、ソ連に終戦の仲介を頼った日本への回答が8月9日の対日参戦だったことを、忘れないでほしい。
『秘匿捜査』には複数のスパイ事件が登場するが、SVR(ロシア対外諜報庁)のボリス・V・スミルノフをめぐる「あまりにも不条理な出来事」(120ページ)には、思わず注目した。
ロシア人スパイで、東京から米国に亡命した人物にレフチェンコという人物がいた。有楽町の外国特派員協会のメンバーで、彼の亡命は、記者クラブの記者仲間でも大きな話題となった。スミルノフの名前はその「レフチェンコ証言」に登場する。彼は「レフチェンコの前任者として、政治家や新聞社幹部ら11人のエージェントを運営して、対日工作にあたっていた」のだ。
その大物スパイのスミルノフが98年9月、2度目の東京赴任を果たした。表向きは外交官だが、実質はSVRの東京「駐在部長」だったという。
警視庁外事一課は彼を「強制追尾」の対象とした。背後にピッタリと張り付く手法で、摘発された元KGB機関員のプレオブラジェンスキーが、回顧録で「ソ連のスパイなら誰でも夢にまでうなされる」と書いたほどの効果があったと、竹内氏は書いている。
だが、強制追尾は、突然、国会議員からの電話が発端で、中止された。竹内氏はこう書いている。
「オモテ班員(強制追尾をする警視庁外事一課の班員)はすぐにピンと来た。その国会議員の名も、そしてスミルノフと国会議員を仲介しているある人物のことも」
さらに、氏はこう記した。「電話の主は鈴木宗男だった」と。
ロシアスパイ、熾烈な情報戦、国益をかけた闘い。そのなかで、命を落とした人も、落としそうになった人もいる。竹内氏は、事実の記述にとどめ、それ以上の踏み込みはしていない。それは同書を手に取る読者一人ひとりの知的洞察に任されているということだ。
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/06/20/
新航路の第1便が境港に入港
鳥取県が地域経済の起爆剤として期待する境港と韓国、ロシアを結ぶ国際定期航路の第1便が境港に入港しました。
入港したのは韓国の海運会社、「DBSクルーズフェリー」が運航するおよそ1万4000トンの貨客船「イースタンドリーム」で、29日夕方、韓国のトンへを出港し、30日午前10時前に境港に到着しました。
岸壁では地元の和太鼓のグループが勇壮な演奏で歓迎し、鳥取県の平井知事や境港市の中村市長らが韓国の小旗を振って出迎えました。そして、カンウォン道のキム・ジンソン知事など韓国側の関係者らが降り立つと、平井知事や中村市長らが花束を手渡して歓迎しました。
平井知事は「この日を迎えるまで大変な苦労があり、本当にうれしい。これを機にさらに関係各国の交流が発展するよう期待したい」と話していました。
新しい航路は韓国のトンヘを拠点にして境港とロシアのウラジオストクを結び、境港にはトンヘから週2回入港します。
航路を利用した貿易など経済の活性化が期待されていますが、7月1日に境港からトンヘに向けて出港する便を利用するのは鳥取市の電気機器メーカーなど県内の3社だけで、新航路の定着には今後の貨物の確保が課題です。
http://www.nhk.or.jp/tottori/lnews/01.html
江原道知事に「名誉県民」
6月30日 17:38
30日に境港に入港した日韓ロ定期貨客船で来日した韓国・江原道の金知事に対し、鳥取県の平井伸治知事から名誉県民顕彰が贈呈された。
http://www.nnn.co.jp/today/090630/20090630154.html
韓国知事に名誉県民賞 : 鳥取 30日第1号授与 貨客船就航に尽力