秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

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フランス革命と英雄①

2011-06-18 12:12:39 | 歴史と文化
6月18日(土曜 旧暦5月17日 八白 先負 甲辰)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。


今日も曇り空となっています。

来週に向けては、不安定な空模様ながらも気温は上がりそうです。


今年度から、小学校の学習指導要領が変わったそうです。

いわゆる「ゆとり教育」が原因と考えられる、若年層の学力低下傾向への反省として、学習内容の削減への見直しがなされたカリキュラムが行われるようになりました。

来年度からは中学校も同様の指導要領となるとのことで、子供を持つ親の方々の立場としては、こうした方針の急な変化に対して疑問に思うところもあるかと思います。


あくまで個人的な意見ですが、国の基としては国防や農林水産業と共に、教育というものはおろそかにすることができないことだと思っています。

とは言えど、義務教育の6年間で教えられることは限られていますし、現場の教師の方々や保護者の方々の苦労というものは、考慮に入れられるべきであることも確かです。

「学ぶ力」と「生きる力」を身に付けることの難しさというものは、一個人の想像をはるかに超えるものであるのかもしれません。


私も勉強が好きなほうではありませんでしたが、好きな教科も好きでない教科も、時間をかけて掘り下げて学んでいくことで、さまざまな気づきや考えることの楽しさを知ることができる「可能性」が広がるかと思います。

それは視野を広げていくことにもなり、昔は苦手だった科目も今の歳になって好きになったりすることもあり、幾つになってもやる気さえあれば学ぶことができる、ということを改めて認識しています。


他の国の教育については良く分かりませんが、日本では基本的な教科として、「国語」「算数(数学)」「理科」「社会」と、体育や芸術科目、そして「英語(外国語)」というものがあります。

社会科においては、歴史と地理、公民があり、高校へ進むとより分化した内容となって、テストで多くの生徒を苦しめる存在となります。

歴史には世界史と日本史があり、年号や人物名、国の名前といったものを暗記していく必要が出てきます。


個人的にはそれを暗記することよりも、時代の流れをつかむことや、その時代の出来事が他の地域にどういった影響を与えたかということ、あるいは歴史の教科書に詳しく書かれていない人々の暮らしや考え方はどうだったのか、ということを考えることのほうが、面白いのではないのかと思っています。

もちろん、信頼のおける史料を元に、年号や人物の名前をちゃんと学んでおくことは重要ですし、うろ覚えでは説得力も無く、テストの点数も伸びないことも確かです。

いつもの記事のごとく、どうでも良い前口上を長く語ってしまいましたが、今日は世界中の歴史の教科書にその名前が記されている人物の、一つの夢がその戦いの敗北と共に終わった日となっています。


その年号は1815年6月18日、場所は現在のベルギーにある「ワーテルロー」という町の近郊であり、戦争の当事者はフランス帝国軍と、イギリス・オランダ連合軍にプロイセンが加わった両陣営となっています。

フランスの指導者は、言うまでも無くナポレオン1世であり、フランスはこの戦いに敗れ、ナポレオン1世は退位してイギリスへ亡命しようとしました。

しかしそこで捕らえられ、彼ははるか南太平洋のセントヘレナ島へ流され、1821年5月5日、51歳の激動の人生をその孤島で終えました。


ナポレオン1世が席巻したヨーロッパは、その後「ウィーン体制」と呼ばれる新世界秩序の中で民族主義・自由主義が高まり、また産業革命が各国に波及して富の格差が生まれていきました。

さらに植民地をめぐる強国同士の争いも激しくなり、それは日本も巻き込んで、戦争の19・20世紀の時代へと向かわせることとなりました。

ナポレオン1世が登場したのは、「絶対王政」と呼ばれる国王を中心とした「封建主義」という権力体制が、市民らによる革命によってひっくり返った「フランス革命」を抜きにしては語れません。


フランス革命は1789年7月14日の「バスチーユ牢獄襲撃事件」によって始まり、1799年11月9日の「ブリュメール18日のクーデター」で終わったとされています。

「革命」とは、それまで支配されていた階級のものが、支配する階級から支配権を奪い、政治経済・社会体制を根本的に変えることをいい、フランスの場合は「ブルボン朝」という王家を中心とした政治体制が支配階級となっていました。


フランス・ブルボン朝の絶対王政は、「太陽王」ルイ14世の時代に最盛期を迎え、50年もの年月をかけて造営されたパリ近郊のベルサイユ宮殿と、前王宮であるパリ市内のルーブル宮殿を中心として宮廷文化も花開き、その王権の強大さを顕示するものとなっていました。

ルイ14世は各国と戦争を行い、フランスの領土を拡大させていきましたが、戦費をまかなっていた国家の財政は当然無限ではなく、次第に悪化していくこととなりました。

また、ルイ14世はナントの勅令(※)を廃止して、カトリックを優遇したため、プロテスタント教徒が国外に流出し、それが資本の流出を招いて、経済は弱体化していきました。

(※「ユグノー戦争」という、フランスでのカトリックとプロテスタントとの宗教戦争を終結させ、プロテスタント教徒にカトリック教徒と同様の権利を認めさせた法令)


続くルイ15世は5歳で即位しましたが、長じても前王に比べてはるかに凡庸で、政治は腹心にまかせっきりであり、ルイ14世の領土拡大路線と放漫財政を継続しました。

それはポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争への介入、またヨーロッパの7年戦争と、同時期に行われたアメリカでのフレンチ・インディアン戦争での敗北など、フランスの斜陽に拍車をかけることとなりました。

さらにそれらの軍事費は、市民らへの増税でまかなわれ、その重税に市民は苦しむこととなりました。


ヨーロッパにおいて、もう一つの強国であったイギリスでは、清教徒革命と名誉革命、権利章典によってすでに立憲君主制へと移行していました。

また、イギリスから始まった産業革命が本格化して経済力・軍事力が増強されていき、大量生産でイギリスの製品が大陸の各地に流通していくこととなっていました。

産業革命はヨーロッパの各地にも波及し、商機にうまく乗った商人や手工業者らは財力(=実力)を身に付けていきました。


当時のフランスの政治体制(権力構造)は、国王を頂点としたピラミッド上であり、大きく3つの身分によって構成されていました。

第一身分には聖職者(僧侶)、第二身分には貴族(世襲貴族など)がいて、その下位に位置する第三身分には、さまざまな職種の都市に住む市民と、各地で第一・第二身分の土地を耕作する農民が属していました。

この体制はフランス革命後に、「アンシャン・レジーム(旧体制)」と呼ばれました。


アンシャン・レジームにおいて、第一・第二身分は免税権が与えられた「特権階級」であり、彼らの土地は国土の半分近くを占めていました。

第三身分は税金の義務を負っていましたが、この中でも裕福なもの(上級ブルジョワ)は、国王から与えられる官職を買うこともでき、さらに第三身分の権利として代表者を「三部会」という議会に参加させることが出来るとされました。

この三部会という制度は14世紀にさかのぼりますが、王権が強固となる時代に入り、三部会は17世紀のはじめに開かれたのを最後に長らく開催されず、実質的に第三身分が政治に参加することは出来ませんでした。


すなわち、第三身分は特権階級を養うために税金を納めているようなものであり、産業の発展によって力をつけてきた上級のブルジョワ(大商人・法律家・大地主など)は、税負担の公平と利権拡大を求めました。

また下級ブルジョワ(自営農者・小商店主・職工親方)と、最下層の「サン・キュロット(小作農・労働者)」の人々は、その労働の報酬をほとんど税金に取られていたため、労働に見合ったより豊かな生活を望んでいました。


当時のヨーロッパでは、作家のボルテールをはじめとして、ルソーの『社会契約論(国家と人民との合理的な関係論)』や、モンテスキューの『法の精神(三権分立の提唱)』などに代表される、「啓蒙思想(宗教権威ではなく、人間の理性を基にした政治のあり方≒民主主義)」が、高等教育を受けていた人々などに広まっていました。

こうした啓蒙思想は、「人間が本来持っているべき権利」を求める根拠となり、それに合わせて国家が変わるべきという考え方に影響を与えることとなりました。

また、啓蒙思想はそうした一般人だけでなく、ヨーロッパのプロイセンやロシアなどで「啓蒙専制君主」と呼ばれる、あくまで絶対王政の範囲内でありながら、トップダウンでの政治改革を行おうとする君主が生まれる下地にもなり、よほど魯鈍でない限り、少なからず各国の君主に影響を与えるものともなりました。


日本では田沼意次が老中となり、杉田玄白らの『解体新書』が発刊されたころの1774年、ルイ15世の孫のルイ16世がフランスの国王へと即位しました。

その翌年、アメリカではイギリスに対して独立戦争が勃発し、フランスはアメリカ植民地側へ支援を行いました。

軍事費での協力と共に、フランス貴族の中には義勇軍として植民地側へ参戦するものもおり、後にフランス革命で名を挙げる自由主義貴族・ラファイエットもこの一人となっています。


前々代の国王から続いた軍事費の浪費に加え、農作物の凶作が続いたことも重なって飢饉が頻発し、国家の収入は激減しました。

市民・農民らの食糧事情は悪化し、財政における債務はなんと歳入の9倍にも及び、ついにフランスの国家財政は破綻状態となりました。


若き国王・ルイ16世は決して凡庸ではなく、国民のよき支配者となろうと努力し、国民からの人気も「ある事件」までは低くなく、革命直後には拷問を廃止するなど人権にも関心を示しており、ヨーロッパ初の「啓蒙専制君主」としての評価もあるとされています。

ルイ16世は財政再建のため、財務長官に学者のテュルゴーを任命し、特権階級への課税を行おうとしましたが、これは貴族らの猛反対によって頓挫しました。

これをきっかけとして、国王と貴族との関係は悪化し、両者の思惑は革命への導火線を短くする結果へとつながっていきます。


辞職したテュルゴーに次いで、スイスの銀行家・ネッケルが財務長官に任ぜられました。

彼はリストラと公債発行で赤字を補填しようとしましたが、逆に借金が増える結果となり、やはり特権階級への課税案を出さざるを得なくなりました。

テュルゴーと同様に、彼も特権階級からの反発に合い辞任に追い込まれましたが、後任者らも同様の税制改革を提案して反発に合い、破産状態の財政で時間のみがいたずらに過ぎていき、結局ネッケルは1788年に再度財務長官に就くこととなります。


困窮にあえぐ民衆と財政の危機にもかかわらず、遅々として税制改革が進まない中、パリ高等法院は、三部会の開催によって課税の是非を決めるべきという判断を下しました。

ルイ16世はこの判断に反発し、高等法院に「司法改革(ラモワニヨンの司法改革)」という方法で攻撃を行いますが、これには第三身分だけでなく、貴族らの中にも反発を生みました。

高等法院は、あくまで貴族の利益(免税の特権)の代弁者であり、厳密には第三身分の味方でなかったのですが、国王側と貴族の対立によって提案された三部会の開催は、皮肉にも民衆へ革命への希望を抱かせるものとなりました。


国王は高等法院を閉鎖し、軍隊を出動させましたが、6月8日に市民らは屋根に上り、王の軍勢に屋根瓦や石を投げつけました。

この日は後に、「屋根瓦の日」と呼ばれました。

結局1788年7月、全国三部会を開催することを約束し、翌年には各地で代表者選挙が行われ、ついに1789年5月にベルサイユで三部会が開催されました。


しかし、三部会は特権身分と第三身分の間で紛糾し、特に議決方法に関して堂々巡りが繰り広げられ、それは市民らの失望へとつながりました。

三部会に失望した第三身分の人々は、自分らによる議会「国民議会」を発足させました。


6月20日、国民議会の議員らはベルサイユ宮殿内のテニスコート(室内球戯場)に集まりました。

議長のバイイは、国王が自分たちの国民議会を正式な議会と認め、憲法を制定するまでの間は集会を解散しないと宣言し、公然と国王らに自分たちの意思を表しました。

これは「テニスコートの誓い」と呼ばれ、特権階級の身分の中でもアンシャン・レジームの矛盾から国民議会に賛同するものも小数ながらおり、ついに国王もしぶしぶながら、第一・第二身分を説得して国民議会に合流させ、国民議会を正式な議会と認めました。


次いで7月9日、国民議会は「憲法制定国民議会(立憲議会)」への名称変更を宣言しましたが、一連の流れに反発する特権階級の人々は、軍隊によって第三身分に圧力をかけようとし、その許可を国王へ強く要請しました。

その2日後、特権階級への課税を主張していた財務長官・ネッケルがクビになり、市民らの怒りは頂点に達しました。

1789年7月14日午前、民衆らはバスチーユ牢獄に集められていた武器・弾薬を得るために襲撃を行いました。


バスチーユは陥落し、翌日パリ市長にバイイが、国民衛兵隊司令官にラファイエットが選ばれました。

この事件はすぐに各都市に飛び火し、各地で民衆の暴動が起こりました。


バスチーユ襲撃から2日後、ルイ16世は立憲議会に軍隊の撤退を約束し、さらにその翌日、ネッケルが復職しました。

8月4日、立憲議会は封建制の廃止を決議し、8月26日に17か条からなる「フランス人権宣言」を採択しました。


フランス人権宣言には、絶対王政から憲法を基にした立憲君主制への移行と、所有権の不可侵、自由・平等・博愛の精神、国民主権、三権分立などを柱としたものとなり、1776年の「アメリカ独立宣言」の影響を受けたものとなっていました。

しかし、ルイ16世はこれらの議会の法案に反対して認めませんでした。


政治的な混乱の中の10月5日、食料の高騰に抗議する女性らは武装し、パリ市役所前に集合しました。

そのまま王の住むベルサイユ宮殿へと乱入し、国王と議会に食料を要求した彼女らの圧力により、ついに王は人権宣言を認めました(ベルサイユ行進)。

国王はさらに彼女らに引っ張り出されて、パリ市内のルーブル宮に隣するチュイルリー宮殿へ家族ごと移住させられ、また立憲議会もパリへと移ることとなりました。


その後ルイ16世一家は、市民によって監視される形となりました。

ラファイエットは、「青・白・赤(パリの紋章旗である青と赤に、国王を象徴する白が入る)」の三色旗を考案し、その旗は革命の象徴となり、現在のフランス国旗にも受け継がれることとなりました。

この時点では、市民の誰にも国王を排除しようと思うものはなく、あくまで国王を敬愛しながら議会によって穏健に改革を進めようとしていました。


革命の発生により、それまで支配者側にいた聖職者や世襲貴族らは相次いで国外へ逃れ、高等法院やギルド(同業者組合)は廃止され、革命を主導した最上級ブルジョワと貴族(自由主義貴族)に有利な形での改革が進んでいきました。

しかし、この頃から革命という一つの目的で結束していた立場(ジャコバン・クラブ)が、その信念や政策の違いから、主導権をめぐって対立する形となり、ジャコバン・クラブの中で「派閥」が形成されていくこととなりました。

また、自由主義貴族主導の議会運営は、農民層や労働者は無視される形となっていたこともあり、1790年秋には大規模な農民蜂起、翌年春には職工らの大ストライキが発生しました。


国王と議会の橋渡し役に、ミラボーという人物がいました。

彼はラファイエットと同じく、穏健的に立憲君主制を目指す立場であり、暴走しがちな革命においてそれを抑える立場でもありました。

しかし、1791年4月、ミラボーは急死してしまいます。


ミラボーの死により、国王と議会・民衆らをつなぐパイプ役がいなくなり、さらに革命が急進化していく恐れが出てきました。

不安を感じたルイ16世は、妻マリー・アントワネットの愛人で、スウェーデンの名門貴族であるフェルセンの助力を借り、妻の実家であるオーストリアのハプスブルグ家の庇護を受けるため、パリを脱走しようとしました。

6月20日にパリを密かに脱出した国王一家は、国境付近のバレンヌで逮捕され、パリへと連れ戻されてしまいました。


この「バレンヌ事件」によって、それまで民衆の抱いていた国王への敬愛は、一転して軽蔑へと変わりました。

さらに8月に、フランス革命の波及を恐れたオーストリアとプロイセンによって、ピルニッツ宣言(ルイ16世の地位を保証しなければ、フランスへ戦争を仕掛けるという宣言)が出されると、王制は維持されたものの、国王への支持は一気に失われてしまいました。


9月に憲法が制定されてフランスは立憲君主国となり、立憲議会は解散して選挙が行われ、「立法議会」が成立しました。

国王は議会を認めはしたものの、重要な議決に対しては拒否権を持ち、その行使によって議会との対立を深めていくこととなります。


立法議会においては、2つの派閥が力を持っていました。

一方はこれまでの革命を主導し、穏健的に立憲君主制を維持する立場の「フイヤン派」、もう一方は穏健的でありながらも、王を抜きにした共和政を目指す「ジロンド派」となっています。

前者が保守派とされ、自由主義貴族と最上層ブルジョワの支持を受けていたのに対し、後者は革新派で、上層・中層ブルジョワ(大商工業者)の支持を受けていました。


さらに、この2派がかつて属していたジャコバン・クラブは、そのまま「ジャコバン派(山岳派)」として、急進的な改革の継続を求め、彼らの派閥は労働者や小作農民の支持層となりました。

その主導者には、マラー、ダントン、ロベスピエールなどがおり、後に革命の段階において思わぬ方向で名を刻むこととなります。


1792年3月、ジロンド派は内閣を組閣し、立法議会は先のピルニッツ宣言による他国の干渉を非難し、4月20日、オーストリアに対して戦争を行うことを決議しました。

ルイ16世はこれに賛同し、オーストリアへ宣戦布告を行いました。

こうしてはじめは他国へ介入され、後にナポレオンが逆に他国の侵略を行う形となった、「フランス革命戦争」が始まりました。


国外に亡命した王族や貴族らは各国の君主へフランスの介入を求め、さらにはルイ16世本人も他国の介入による革命の打倒と、自らの復権を目指していました。

ジロンド派は、国王の反革命の意図を捉えていたため、戦争で勝利することで国王と諸外国を弱体化させ、政治的優位が確定することを望み、戦争での勝利を疑いませんでした。

唯一、こうした状況を冷静に判断して、戦争ができる状態にないとして明確に反対していたのは、まずは革命の一層の推進による国内の結束を主張していた、ジャコバン派のロベスピエールらでした。


7月には強国プロイセンも戦争へ介入し、フランス国境へと軍勢を進めました。

そのような中で立法議会は国家存亡の危機として非常事態宣言を行い、各地から義勇兵を募りました。

パリへと各地から次々に義勇兵が集まる中、マルセイユからやってきた兵士たちの歌が義勇兵全体に広まり、それは後に「ラ・マルセイエーズ」と名づけられました。


義勇兵とパリ市民は、戦争の劣勢と政治の停滞は、国王の非協力に原因があるとして、8月10日に国王一家の住むチュイルリー宮を襲撃しました。

翌日ルイ16世らは、パリのタンプル塔へと幽閉され、ついに王権は完全に停止されました。

これによって、フランス革命は新しい段階を迎えることとなっていきます。


参考 フランス革命大解剖

   フランス革命年表 

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