寺本和生税理士BLOG

会計で会社を強くするTKC全国会会員 寺本和生税理士が運営するブログです。心温まる、ちょっといい話をどうぞ。

すべてを受け入れる

2009-09-28 22:50:01 | ひとつのいのち
すべてを受け入れるということは、

自分自身から目をそらせない

ということでもあると感じます。

一度限りの人生ですから、

偽物の自分のままで生きているのは

もったいないと感じます。

ほんとうの自分を、素直に生きたいと思います。

ご訪問くださったあなたのために、祈ります。

「ごめんなさい」

「ゆるしてください」

「ありがとう」

「あいしています」
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無限の可能性

2009-09-22 09:34:54 | ひとつのいのち
「私はこんな人間」
「私ってこんな性格」

そんな風に、自分を固定的に見ていませんか。

自分の両親や祖父母を見て、
自分の限界を自ら設定していませんか。

私たちは、母体の中で、進化の過程をたどってくる。
ということは、
DNAには、私たちの祖先の情報もすべて記憶されている。

私は、両親から生まれた。
両親は、それぞれの親、私の4人の祖父母から生まれた。
三代さかのぼると、8人。
20代さかのぼると、100万人を超える。

100万人の中には、飛びぬけて能力の高い祖先もいたかもしれません。
でも、同様に、盗人もいたでしょうし、
きっと、人殺しをした祖先もいたと思います。

明るい人もいたし、根っから暗い人もいた。
考えられうる性格は、きっと祖先の誰かが持っていたのです。
DNAには、その情報がすべて記憶されている。
そすべての記憶を、私たちは受け継いでいるのです。

きっと、私たちの心の持ちかた次第で、私たちは、
どのような人間にもなれる可能性を秘めているのだと思います。
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怒りは自分を破壊する

2009-09-22 09:22:13 | 今日のひとこと

じつにこの世においては、

怨みにたいして怨みを返すならば、

ついに怨みの鎮まることがない。

怨みを捨ててこそ鎮まる。

これは普遍的な真理である。

    ( 法句経 5 )



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天国と地獄

2009-09-20 01:23:30 | ひとつのいのち
天国と地獄

天国や地獄とはどんなところなのでしょうか。

天国には仏さまや神様がおられて、
幸せがあふれている。

地獄には、閻魔大王がいて、
針地獄なんかがあって徹底的に苦しむ。
何となくそんなイメージがありますね。

仏教の世界では、
ここが天国とかここが地獄という場所があるのではなく、
つまり、空の彼方に天国があり、
地の底に地獄があるのではなく、

一人の人間が日々暮らす中で、
天国や地獄や人間界を含め6つの世界を
行ったり来たりしているのだという
見かたがあります。

朝出勤して、「人間界」で仕事をしていた人が、
夕刻に仕事から解放され、
花の金曜日で楽しく飲み歌い、「天国」にいる。
翌朝、起きるのもつらいほど二日酔いで「地獄」に落ちている。

ありがちな話ですが、
今あなたがいるところは、
天国ですか?
それとも・・・・

こんなお話があります。

ある修行者が、
「天国とはどんなところですか
 また、地獄とはどんなところですか」
とたずねられました。

「よし、見せてあげよう」ということになり、
まず、地獄を見に行きました。

そこには、幅が2mぐらいで、
とても長い大きなテーブルがあり、
そのテーブルには、たくさんの御馳走が並んでいます。

テーブルの両側にはいすが並べられ、
人々がそこに座っています。

「これが地獄?御馳走がいっぱいあってまるで天国じゃないですか」
 
しかし、よく見ると、
人々は、それぞれ2mの長さの箸が渡されています。

御馳走を少しでも多く食べようと、
我先にと争っています。

箸の長さが2mもあるので、
なかなか御馳走がつかめません。
やっとつかんだと思うとまわりの人が、
先に食べられてなるものか、と邪魔をします。

テーブルは、御馳走を囲んで、殺気だっています。
まさに地獄絵のようです。

次に天国へつれていってもらいました。

天国に着くと、

そこには、幅が2mぐらいで、
とても長い大きなテーブルがあり、
そのテーブルには、たくさんの御馳走が並んでいます。

テーブルの両側にはいすが並べられ、
人々がそこに座っています。

「ここが天国?さっきの地獄と同じではないですか」

しかし、よく見ると、
人々は、やはり、それぞれ2mの長さの箸を持っているのですが、

御馳走をつかんでは、
向かいの人に差し出して
「どうぞお先に」と食べさせてあげている。

目の前の人においしいものを食べていただく事だけを考えています。

自分の事は心配していないのですが、
やはり,まわりの人が「どうぞ」といって、
お願いをしなくても、
食べ物は、自分の口の前に運ばれてくる。

すべての人に笑顔があふれ、まさに天国です。

あなたは、天国と地獄、どちらに居ますか。

同じ場所で同じ状況であっても、
地獄にも天国にもなる。

その場にいる人間の心がけしだいなのですね。
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幸せになるための 4つの祈り

2009-09-15 20:13:51 | ひとつのいのち
『ごめんなさい』

『ゆるしてください』

『ありがとう』

『あいしています』

ホ・オポノポノのヒューレン博士は、

幸せになるためには、

「すべての事象の責任が100%自分自身にある」

ということを受け入れ、その上で、

自分自身を「0の状態(空)」に保つこと

とおっしゃっています。

そのための祈りが、以上の4つだそうです。

あなたも試してみられてはいかがでしょうか。

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脚下の道・・・飯塚毅先生の言葉

2009-09-11 22:14:14 | 今日のひとこと
自分が二人いるんだ。
画く側の自分と画かれる側の自分だ。
この二人が問答をやるのだ。
これが脚下を照顧する初めである。
(飯塚 毅 著 「会計人の原点」TKC出版 より)

私が尊敬するTKC全国会創設者・飯塚毅先生の言葉です。

寂かに自分を見つめる瞑想の時間を持ちなさい。
それが脚下の道のスタートラインなのだという教えだと感じます。

「いま」を見逃しているから、過去にとらわれ、未来に不安します。
「いま」まさにたっている「ここ」を見逃しているから、
 こころは「そと」ばかり漂っています。

私たちは、いつまでも二人の自分に気づくことさえできません。
たとえ気づいても、
一方が他方を第三者として眺め
「ほんとうの自分」を見逃しています。
だからいつまでたっても、
脚下の道のスタートラインにも立てないでいるのです。

過去も未来も実在しません。
「そと」もありません。
画く自分も画かれる自分も本物ではありません。

「脚下の道」とは、
ほんとうの自分を知り、活かす、
実践の道なのだと感じます。

100年に一度の不況を乗り切りための、
大切なヒントだと感じます。
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あなたも私も花も鳥も、同じひとつの『いのち』の現れ

2009-09-11 22:11:07 | ひとつのいのち
私たちは、例外なく、
すばらしい『いのち』の輝きを
具えているのだと思います。
仏とも神とも言うべき、かがやくものを、
生まれながらにして具えているのだと思います。

ただ、日常の忙しさに、
その輝きに曇りがかかっている。
あるいは、様々な我欲にとらわれて、
その輝きに、固い殻をかぶせてしまっている。

本来、素晴らしく輝いているものなのですから
殻を破り、曇りを磨けば、
それは、燦然と輝きを発してくれるのだと思います。

私も、あなたも、野に咲く花も、さえずる鳥も、
生あるものは、すべて、
同じひとつの『いのち』の現れであると感じます。

『いのち』というものを、そのように実感できるか、
それとも、個体の生滅としてしか捉えることが出来ないか。
その違いは,あまりにも大きいのだと感じます。

このことが、私たち「命」の生かし方に、
大きくかかわっているのではないでしょうか。
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青蓮院の庭2

2009-09-05 18:09:27 | 日記
青蓮院の庭2
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青蓮院の庭

2009-09-05 18:08:48 | 日記
青蓮院の庭
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青蓮院の軸

2009-09-05 18:08:14 | 日記
青蓮院の軸
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青蓮院の軸 一隅を照らす

2009-09-05 18:07:37 | 日記
青蓮院の軸 一隅を照らす
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青蓮院

2009-09-05 18:05:33 | 日記
青蓮院
国宝「青不動」が9月18日より御開帳になります。
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幽霊

2009-09-05 18:01:00 | ひとつのいのち
青山俊董(あおやましゅんどう)という尼僧様がおられます。
愛知県にある曹洞禅の尼僧堂の堂長様です。
この方のお話に以下のようなものがあります。

「脚下照顧」という言葉にあたるたびに、思い出されるお話です。

日本の典型的な幽霊。
「うらめしや~」と出てくるといわれているあの「おばけ」
その幽霊はどのような姿をしているでしょうか。
うしろ髪が長く、手を前にチョコンとたらして、当然足がない。

青山俊董尼は、その理由を次のように解説されます。

「おどろおどろした髪を後ろへ長くひいているのは、
 済んでしまってどうにもならないことを、
 執念のように、怨念のように、いつまでも、
 ああすればよかった、こうすればよかった、
 ああするんじゃなかった、こうするんじゃなかったと、
 心が過去にばかりとらわれている姿を象徴しています。」

「反対に、来るか来ないか分からない
 明日のこと、来年のこと、未来のこと、
 ああなっては困る、こうなっては困ると
 取りこし苦労をしている心の状態を、
 両手を前へチョコンと出している姿で表しています。」

「そして、足がないというのは、
 現にいまここに両足を大地に踏ん張って立っていながらも、
 心が過去へ未来へと飛んでしまい、
 限りなく『いまここという時』を取り逃がし続けている姿を、
 足がないという形で表現しているのです」
     (『悲しみはあした花咲く』青山俊董著 光文社)
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如来蔵 無限の輝き 

2009-09-04 23:49:38 | ひとつのいのち
私たちは、例外なく、
すばらしい『いのち』の輝きを
具えているのだと思います。

仏とも神とも言うべき、かがやくものを、
生まれながらにして具えているのだと思います。

ただ、日常の忙しさに、
その輝きに曇りがかかっている。

あるいは、様々な我欲にとらわれて、
その輝きに、固い殻をかぶせてしまっている。

本来、素晴らしく輝いているものなのですから
殻を破り、曇りを磨けば、
それは、燦然と輝きを発してくれるのだと思います。

私たち一人一人が具えている『いのち』は、
形も無く、重さもないもの。
でも、真空、虚無ではないもの。

一種の光源のようなもの
と考えると分かりやすいかもしれません。

その明るさは無限大です。

でも、私たちが、自らの我欲で、
それを曇らせ、また、
自己限定をすることで、
殻をかぶせてしまっています。

殻を破り、曇りを磨けば、
燦然と輝きを発する。

その明るさは無限大です。
世の中を真っ白にしてしまう明るさ。

光がそれだけ強い時、
光源の特定は出来るでしょうか。

あなたの光源と私の光源が、
無限大の光を発する時、

あなたの光源と私の光源を
区別することが出来るでしょうか。

出来ないのですよね。

形も重さもない無限大の光源は
もともと「ひとつ」なのです。
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自己防御能力

2009-09-03 22:55:50 | ひとつのいのち
ショーペンハウエルという哲学者の言葉だそうです。

「人間は、40歳ぐらいまでに、自己防御能力を身につける」

人は、常に変化していて、
変わらないことなどできないのに、
どうしても自分自身を、
固定的にとらえてしまいがちですね。

変化することで傷ついたり、
変化することを不安に感じたり、
「自己限定」をしてしまいがちです。

変化を恐れる気持が、
「自己防御能力」を身につけさせるのだそうです。

幼児は、知識は少ないけれど、
人間が本来持っていた知恵はまだ発揮できている。
自己防御能力がまだ未熟なため、
周りで起こったことを素直に受け止めることができる。

大人になるにつれ、さまざまな経験から、
人は、殻をかぶり、自己の内面をさらさなくなる。
そんな自己防御能力は、40歳でおおむね完成するそうです。

年をとればとるほど、
経験(知識)を積めば積むほど、
人は行動を起こす前に、頭の中だけで理解をしてしまう。
変化を恐れ不安に感じ、
変化に対応できなくなってゆくのだと感じます。

ほんのわずかな勇気を発揮することができたら、
殻を破ることができるかもしれませんね。

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