つらつら日暮らし

垂語と索語と釣語

4月の結夏 5月の結夏】の続きの記事と言うべきか。特に、現在の「結制祝祷上堂」の作法について、途中に「垂語」というのが出てくる。一応、軌範上の定義は以下の通りである。

垂語 住持は拄杖を卓てゝ垂語し、「何々底の漢あらば出で来て商量せよ」などゝ法問を促す。
    『昭和改訂曹洞宗行持軌範』「年分行持・五月十五日・結制祝祷上堂」項、138頁


問題は、この「垂語」という表現である。無著道忠禅師『禅林象器箋』巻11「垂説門 第十一」を見ると、「又た是れ垂示なり」(「垂語」項)とある一方で、「忠曰く、上堂の垂語、索話と称するは非なり。索話の処を見よ」(同)とあって、垂語と索話の違いについて論じている。実は、拙僧も、先に挙げた『行持軌範』の記述について、「垂語」の意味で係る範囲が何処までか分からないことがあった。もちろん、拙僧自身の現場での経験不足が一番の原因ではあるのだが、先の一節を虚心坦懐に読んだ時、「垂語」は、何らかの垂示を指すものであり、「何々底……」という問答を促す言葉とは別、とすべきか、それとも、問答を促す言葉を「垂語」としているのかが分からなかったのである。

この辺、最初の『洞上行持軌範』ではもっと曖昧で、「住持垂語問答了テ」(「結制祝聖上堂」項)とあるのみであった。よって、詳細は分からないというべきである。そこで、個人的に学んでみた、というのが今回の記事なのである。良くご存じの方は、以下の記事は余り役立たないと思う。

さて、まず、「垂語」については、道元禅師の著作にも数箇所確認されたが、先の無著禅師のように、おそらくは「垂示」の意味で用いていると思われた。少なくとも、上堂中の一作法として示された様子は無い。よって、問題はその後の歴史となるだろう。

 中秋の賞月の次いで、垂語に云く、正当恁麼時、如何。
 衆、下語す。
 師、示すに偈を以てす、
  正当恁麼時如何、指話以前に方に好看すべし、
  修行を費やさざるの供養力、南泉物外独り閑閑たり。
    『月舟和尚遺録』


このように、中秋の名月を観ていた時の月舟宗胡禅師の「垂語」は、ただ「正当恁麼時、如何」であり、それに対して、大衆が応えて「下語(一言ずつ言葉を述べた)」したのであった。そして、その「下語」を受けて、月舟禅師は一偈を詠まれた(なお、この偈の内容については、「馬祖玩月話」を元に論じられている。参照されたい)という流れである。つまり、ここから「垂語」は、やはり学人の言葉を促すものとして用いられていたことが理解出来よう。

そこで、最初に戻って、無著禅師が「上堂の垂語、索話と称するは非なり」について、確認しておきたい。

●索話 校定清規、住持受請に云く、次に索話問答し、提綱。
●索語 索話、又た索語と曰う。敕修清規の秉拂に云く、秉拂人、索語問答し了りて、提綱。
●釣語 索話、又た釣語と曰う。或いは釣話と曰う。蓋し学者を釣りて問話するの義なり。
    『禅林象器箋』同前節


確認してみると、まず、無著禅師は垂語と索話と混同するのは非であるとしている。そこで、索話というのは、問答の前の言葉となり、索語ともいう。一方、索話は釣語(釣話)ともいうが、これは「学者を釣りて問話する」とあるので、学人に問答を促す言葉として、「釣語=索話」としていることが分かる。

そうなると、先に挙げた『行持軌範』の「垂語」については、無著禅師の見解に依れば、やはり住持からの簡単な「垂示」があった上で、「何々底……」については、「索話(釣語)」と分けて理解すべきだといえよう。ただし、月舟禅師の事例に見るように、垂語として示された内容が、垂示なのか?釣語なのか?区別が付かないような場合も見られる。無著禅師はそういう同時代の様子を知った上で、「非」としているのだろうが、拙僧的にはやはり、「上堂の垂示」については、「釣語」の意味で用いた事例もあるのではないか?と思っている。

この辺は、逆に「釣語」で検討してみると、分かるのかも知れない。

 良超法印の為に陞座、江州に於いて、
 釣語、
 寒雲蜜々として、残雪漫々たり、混じて処を知り、類して斉しからず。若し衆中に箇の漢有らば、出で来て試みに挙して看よ、有りや有りや。
 僧問う……
    『永沢通幻禅師語録』


これは、通幻寂霊禅師の用例だが、ここでは「釣語」自体に一定の「垂示」が見られるが、その後に続いて、「若し衆中に箇の漢有らば、出で来て試みに挙して看よ」と問答を促している。つまり、「垂示」を含めた「釣語」が存在していたわけである。

 索語、
 払子を豎てて曰く、看て看よ、這裏に到りて、通方の眼を具うる底の人有らば、出で来て興化門頭に就いて通話して看よ。
    同上


また、同じ通幻禅師の用例として、「索語」もあったが、こちらも「垂示」に続いて、問答を促す言葉に繋がっている。つまり、洞門での伝統を見る限り、「垂語」「索語」「釣語」については、特段意図して使い分けされているわけではないといえよう。ただし、問答には一定の「ネタ」が必要となるわけで、「垂示」としてそのネタを示しつつ、学人に問答を促すという意味に於いて、混同されていると見なすことが可能である。

さて、以上の話について、敢えて、江戸時代の洞門僧の構築した清規を見ずに論じてきたのだが、何か分かるのだろうか。面山瑞方禅師は、『洞上僧堂清規行法鈔』巻4に見える諸上堂法に於いては、ただ「白槌・問答・提綱」とのみあって、「垂語」や「釣語」のことを示さない。それくらい、流れで自然に行うものだったからだろう。なお、ご自身の『永福面山和尚広録』巻1冒頭は、首先住職地となった肥後禅定寺での晋山陞座(当時は、祝国開堂をしない限りは説法についても「上堂」を用いずに「陞座」と称した)。

(晋山式終わって)
 即日陞座の垂語、
 虚山浪悟し、謾りに商量を許さず、真履実践ならば妨げず、一問を呈することを〈問答、録さず〉。
    前掲同著・巻1、『曹全』「語録三」巻・315頁上段


以上の通りあって、面山禅師は「垂語」に、先に挙げた「釣語」などの意味も持たせていたことが理解出来よう。巻2は若狭空印寺での語録だが、そちらでも「垂語」とあった。そうなると、面山禅師などの用法が、そのまま後代にまで採用されたということなのだろうか。しかし、ここまで調べて、拙僧自身が混乱する文脈を見出した。

【垂語】拄杖を卓てゝ「何々底の漢あらば出て来つて相見せよ」等と云ふなり、
    来馬琢道老師『禅門宝鑑』411頁下段


・・・これで振り出しに戻った感じがするが、例えば、面山禅師は「垂語」に於いて、簡単な垂示を含めた上で、学人に問答を促していたわけである。ところが、来馬老師の見解では、ただ問答を促す言葉として、「垂語」を使っているように思えてしまう。まぁ結局、宗門の伝統からすれば、問答の前には簡単な垂示を表し、それで学人の問答へと繋げていくのが良いのだろう。

当初の意気込みに比べると、かなり日和った結論になってしまったが、もしかすると、晋山や結制の上堂語が残る、これまでの祖師方の語録を全部見てみれば、この辺、もう少し別様な結論になるのかもしれないと思ったが、それはとても手間がかかるので、まずは簡単に以上の通りとしておきたい。

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