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母方の先祖は那須与一

 母方の先祖はあの源平合戦で活躍された那須与一です。那須与一はもともと栃木の那須地方の豪族(元は藤原鎌足の子孫・藤原北家藤原資家が下向し那須地方に赴いたのがはじまり)で、11男でした。でももともと那須一族が平氏の味方であったところ、源の義経の東上に那須与一だけが参加してついていって屋島の戦いで扇の的を当てる武功をあげたということで、他の平氏に味方していた兄弟が追放されたため、那須家の2代目当主になったのです。
 ただ、屋島の戦いで扇の的を当てるということで、ひがみ、嫉妬というのは当然おきるものです。
 それが梶原景時で、源頼朝に、あることないこと告げ口して、那須与一を窮地に追い詰めたのです。梶原景時といえば告げ口が有名でかの源義経も梶原景時の告げ口によって源頼朝に敵対視されたのです。梶原景時については良く知らない方もいるかと思いますが、たとえて言えば源頼朝と梶原景時の関係は、豊臣秀吉と石田光成のような関係で
まさに「虎の威を借る狐」です。秀吉死後に光成が他の家臣に糾弾されたのと同様に、梶原景時も、頼朝の死後には真っ先に粛清されたのでした。
 その梶原景時の告げ口によって、那須家が取り潰されそうになったので、那須家では慌てて那須与一が死んだと報告し(そのため、史料では1189年に没したとされています)。でも、実際はその後、出羽地方、すなわち、秋田県の日本海側に逃げたのです。
ちなみに、羽後亀田には今でも那須与一の子孫たる「那須」の苗字の方が多いです。
その羽後亀田地方周辺に母親の親族が今でも住んでいます。
 日本史では源平合戦で活躍された那須与一として紹介されていますが、末路は頼朝から逃げるのに必死で、「梶原景時憎い頼朝憎い」と思いつつ、那須与一の一族は出羽地方を逃げ惑ったのです。「出る杭は打たれる」、で活躍すると嫉妬、いじめにあうものです。活躍すると自慢したくなりますが。謙虚さが大事ですね。
 ちなみに、源義経も梶原景時の告げ口によって、頼朝に誤解され追い詰められ1189年に死亡とされています。



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コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (Unknown)
2011-02-28 10:54:36
那須与一は教科書などにも出てくる有名どころですね。それにしても嫉妬や、やっかみというのはいつの世でもかわらないものですね。
 
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