光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

塩谷定好展を見て

2016年09月17日 | アート 写真

9月16日(金)はアート鑑賞のはしごをした。  三鷹で「芸術写真の時代 塩谷定好展」

恵比寿で「杉本博司 ロストヒューマン」展、最後に上野の東京国立博物館、途中、東京国立近代美術館へ

忘れ物(傘)の受け取りもあり、約1万5千歩のアート旅。 

 

まず、「芸術写真の時代 塩谷定好展」のフライヤーから

主婦像のモデルは塩谷定好の奥さんでしょう。(展示に家族写真もあり、似ています)  写真としては、あざとさが鼻につき好きになれません。

 

 裏面

裏面の写真No1の《天気予報のある風景》は、焼付け過程で海を湾曲させ、No4の《三人の少女像》は

横方向に縮めて、顔を胡瓜のように長くしています。

ようやくカメラが普及しだした時代に、デフォルメを大胆にやっています。 しかし、ただそれだけという感じで

深味は感じないのです。

 

ほとんどの写真が、地元、鳥取の写真。 1枚だけ東京丸の内を撮った写真がありましたが

これは凡作に見えました。

 

動きを感じるスナップ写真が少ないですね。・・・当時のカメラでは難しかったと思います。

感じが良かった作品をWebから拾ってみました。 (会場内は撮影禁止でした)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下の《村の鳥瞰》は、当時の芸術写真の主要技法だった、軟調描写による作品。 

これは構図がいいので、軟調描写も似合う。

 

 

 

Webを見ていると、昨年(2015年)、東京ミッドタウンのフジフィルムスクウェアで

塩谷定好作品展が開催されていました。(見逃しました)

そのポスターが下の写真で、ポスターの上の写真が特にいいですね。(今回の展示には含まれていません)

 

今回は”芸術写真の時代”の副題にもあるとおり、定好がアートを意識して撮った 作品の展示

が主でしたが、私にはぐっとくるものがなかった。  ポスターの上の写真のような、面白い

作品とかを観たかったな・・・。

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「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展プレミアムトークに参加して(一部修正)

2016年09月06日 | アート 日本画

秋田蘭画って、 まったく知りませんでした。 

そのため、「秋田蘭画展」プレミアムトークの参加案内をいただいたとき

申し込みをためらったのですが、こんな時は、積極的に参加した方が良い

と、経験からの後押しで応募して当選。

 

当日、会場に貼ってあったポスター

プレミアムトーク概要は次の通りでした。

日時 2016826日(金)15:0017:00  
会場:サントリー美術館 6階ホール    
内容: 「秋田蘭画の魅力」
     秋田蘭画に造詣の深い 3 名により、謎の多い秋田蘭画の魅力と展覧会の見どころを紹介。
登壇者:高階秀爾氏(美術史家、大原美術館館長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長)
     河野元昭氏(京都美術工芸大学学長、静嘉堂文庫美術館館長、秋田県立近代美術館名誉館長)
     田中優子氏(法政大学総長)
進 行 役:石田佳也(サントリー美術館学芸部長)、展覧会説明:内田洸(サントリー美術館学芸員、本展企画担当)
 
無知の秋田蘭画について、錚々たる先生方のトークセッション、さぞ難しく、専門的な話しになるのかなと、腰が引け
気味でしたが、いやいや面白いこと!
 
最初に、登壇者の紹介。(写真はトーク終了後の記念撮影)
右から、高階秀爾氏、田中優子氏、河野元昭氏
この御三名の方々は、サントリー美術館の企画委員もされていて、秋田蘭画もこの先生方のプッシュで
実現したとか。
 
 
最初にお詫びです。  当日はサブカメラで撮りましたが、下の写真のように説明スライドに
縞模様が顕れ見苦しいので、白黒に変えました。
 
秋田蘭画の主役は小田野直武。
秋田、角館の生まれ・・・(角館は、私が22歳の頃、冬の旅をしたところで懐かしい)
小田野直武は、若い頃より画才を発揮して、絵馬などが残っています。
当時の秋田藩主、佐竹曙山や、角館城代の佐竹義躬も、直武と同年代で、秋田蘭画のコア
となる人たちです。
 
 
秋田蘭画は知らなくとも、解体新書は知っています。 この挿絵を描いたのが小田野直武。
 
安永2年(1773)7月に、本草学や戯作などで高名な平賀源内が、鉱山開発で秋田に招かれたのがターニングポイント。
3か月ほどで、源内は江戸に戻るのですが、小田野直武は藩主・佐竹曙山から銅山関係の調査役を命じられ、同年12月に
江戸に派遣され、源内宅に住み込み。
そこで、源内の多才な人脈と交友を持ち、「解体新書」の挿絵作者として抜擢される。
このとき、西洋の「遠近法」や「陰影法」をマスター 
 
 
一方、享保16年(1731)に長崎に来航した中国人画家・沈南蘋(しんなんびん)の写実的で華麗な画風が
全国に伝播し「南蘋派」として流行していました。
 
当時、江戸では、南蘋風花鳥画を広めた宋紫石がいて、直武も様々な技法を学んだと思われます。 
  
 
こうして、小田野直武のなかで、従来の日本画、西洋画、南蘋風絵画が混然一体となった秋田蘭画が生まれた。
 
 
この児童愛犬図も独特ですね。 30代女性に見える、左の女子児童など、ケチをつければ一杯あるのですが
従来の日本絵画にはない、面白さが魅力です。 
 
 
 
 
 
 
 
上図の右側、下部の部分アップ。 細密な花鳥、薄い遠景、枝葉の遠近と陰影・・・・確かに新しい画が誕生している。
 
 
 
 
小田野直武は、安永6年(1777)に一時、秋田に帰国し、翌年に藩主・佐竹曙山と再び江戸に上る。
この間に、秋田藩内に蘭画の技法が伝わったようです。 

 

藩主・佐竹曙山も幼少より画才で鳴らしており、蘭画の影響を受けた作品を残している。
直武の絵よりも、クールな感じを受けます。 
 
     

 

 舶載のプルーシャンブルーを用いた青空の色彩も特徴。  後の北斎や広重にも影響を与えている。 

 

 

 

 

 

安永8年(1779)、直武は秋田藩より突然、謹慎を命じられ帰郷。

同じ頃、平賀源内が人を殺めた咎で捕まり獄死。 そして安永9年(1780)5月、直武は数え年32歳で亡くなる。

直武の謹慎の理由や死因は謎のまま。  また、佐竹曙山もその5年後に亡くなり、主要な人物がいなくなって秋田蘭画の火が消える。

 

ただ、直武に学んだとされる司馬江漢が、更に銅版画や油彩画を用いて、新たなジャンルを切り開いていき、命脈は繋がった。

 

以上までが、展覧会の構成に沿った解説でした。

 

 

これからが、パネラーによるトークで、トップは高階秀爾氏。

当時のオランダは共和国で(王侯貴族はいない)商業が中心、東インド会社などから長崎を通じ、その文化が日本に入ってきた。

絵画はフランドル絵画と呼ばれ風景画や静物画が発達し、他の西洋諸国のような宗教画は少なかった。 また、1770年代に

大百科辞典ができ、知識を学ぶツールも揃い、日本に馴染みやすかったことが要因で、蘭学がブームとなり、江戸でもそうした

文化が沸騰した

 

 

 

 

 

 

二番目は田中優子氏、毎日新聞のコラム「江戸から見れば」を読んでおり、江戸文化に詳しい方で、法政大学の総長。

 

 

多才な平賀源内、秋田に行った理由など解説されていました。  源内は殖産興業の思いがあり、時の老中・田沼意次も気に入っていたとされます。

直武と源内が会ったという伝承が角館にあるが、どうも怪しく、藩主・佐竹曙山が銅山開発の名目で、蘭画を吸収するため直武を派遣した説が有力。

田中先生、もう一つの説、源内はゲイで、若い直武を気に入った・・・・というのもチラッといわれました。  確かに調べると、源内は、武士や

僧侶などで一般的だった衆道でも有名で、高級男娼茶屋の江戸案内本もつくっている。 源内47歳、直武23歳・・・・ウーンあるかも

 

 

源内は画才はないものの、洋書のコレクションが凄く、その中の挿絵などから、直武は西洋画法を学んだ。

 

 

 この絵の円窓も西洋画にはないものとか。

 

 

 

次に、河野元昭氏。  解体新書の挿絵で、原著との比較を示し、銅版画の絵を木版画でつくった技術の高さを指摘。

 

 

 

 

 

 

この後は、司会者から各パネラーにQ&A 

 

 

 

 

 

最後に、メインヴィジュアルである直武の「不忍池図」について

田中先生「以前、NHKの日曜美術館で、この絵の鉢の土の見え方はおかしいという指摘があった」 ・・・ 確かに

高階先生「日本の絵画では、複数視点のものは珍しいことではない」 ・・・ウーンそういえば

絵も大きいものらしく、実物を見たくなります。

 

 

細かいですが、花の蕾部分に蟻が描かれています。

 

 

 

 

 

1時間半のプレミアムトークも終わりに。

 

 

 

 記念撮影。 参加者はプレスの方と、ブロガー、カメラをみるとわかります。 

 

 

ぐっと身近になった秋田蘭画、三人の先生方も満足の笑みでした。

 

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