雑感録

鳳鳥至らず。河、図を出さず。已んぬるかな。

別にこの言葉が今回のキーではない。
とりあえずカッコいいので書いてみた(これはこれでとても重要な言葉なのだが)。
この後に、こう続く。

(略)
孔子が嘆じたのは天下蒼生の為だったが、子路の泣いたのは天下の為ではなく孔子一人の為である。
 斯の人と、斯の人を竢つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決まっている。濁世のあらゆる侵害から斯の人を守る楯となること。精神的には導かれ守られる代わりに、世俗的な煩労汚辱を一切己が身に引き受けること。僭越ながら之が自分の務だと思う。

引用が長くなってしまったが、中島敦が孔子と子路(季路)の関係を描いた短編『弟子』(「ていし」と読むらしい)の一節である。
子路とはもともと放蕩無頼の男だったのだが、孔子の人間的大きさに心酔し、その後半生を孔子に捧げた人だ。

ここで断っておかなければならないのは、私は孔子や子路についてはこの『弟子』と井上靖の『孔子』で読んだくらいなので、実のところ、どこまで史実なのかはよく分からない。あくまで史実をもとにした小説であって、史実ではないことも入っているかもしれないし、何より作者の意図によって史実もふるい分けがされているからだ。
ここでいえば、タイトルの言葉は孔子のセリフ(会話ではない)として書かれているので、実際にそう言ったことは間違いないだろう。
だが、その後の子路の心情は、モチーフに選んだ人物として、中島敦が
子路ならこう思ったに違いないとして書いたことであり、さらにいえば
子路ならこう思ってほしい、
子路がこう思ったことにしよう、てことかもしれない。

話はそれるが、司馬遼太郎が『峠』で描いた幕末の越後長岡藩の宰相・河井継之助。
司馬遼太郎の本なんざ読んだこともなかったのだが、入院中にこの本を見舞いでもらって読んだとき、こんなすごい漢がいたのかと感動してしまった。
まあ、実際すごい奴には違いないのだが、長岡を大乱に巻き込み多くの一般市民を巻き添えにしたとして地元での評判はあまり良くないらしいし(それと官軍が敗北の評判を広めたくなかったために歴史上では影が薄い?)、江戸城で福沢諭吉と会ったなんて話も創作らしい。
司馬遼太郎は継之助をモチーフに「武士の美」を描きたかったとかで、実際、別の短編では大量の最新兵器を手にしてしまったがためにとち狂ってしまった男として描いている。
そもそも『峠』というタイトルからして、これは小説に過ぎないと主張しているではないか。

ところで子路の話。
後年、衛の国に派遣された子路は、クーデターに巻き込まれる。
子路という人間を知りつくしている孔子は予言する。
「由(子路)や死なん」と。
子路は義のために戦い、「君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」と叫んで血の海に沈む。
く~~~~、たまらん。
この話に感動して『由や死なん』という曲まで作ったほどだ。
(子路の話を映画にするときはぜひ使ってください)

しかし、「濁世のあらゆる侵害から斯の人を守る楯となること。世俗的な煩労汚辱を一切己が身に引き受けること」を務めとするのは、「精神的には導かれ守られる」場合だけとは限らない。まあ、世の中には当事者しか分かり得ないいろんな事情があったりする訳で…。

もどるつづく

おまけ
例によって子どもに『仮面ライダー キバ』の映画に連れて行かされた訳だが、当然最後に『さらば仮面ライダー電王』の予告が。
しかし、そこにはなんと良太郎が出てこなかった!
まあ、制作上の都合かもしれないけど、ひねくれファンの心をくすぐる予告編のつくりに、一気に期待度急上昇!


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