中津城 1588年(安土桃山時代後期)築城開始
先日またまた宇佐の田んぼに行ってきたので、帰りにニセ天守もとい模擬天守で有名な中津城に寄ってみた。
中津城は黒田官兵衛が手がけた城で、朝鮮出兵やなんやかやで築城が長引いてしまい、関ヶ原の後に黒田家は筑前に移ったため、完成させたのは代わって豊前に入った細川忠興。
肥後加藤家の改易で忠興が熊本に移った後は小倉小笠原氏の分家が中津に入り、その後奥平家が廃藩置県まで続く。
“ニセ天守”などと失礼なことを言ってしまったけど、実際、天守閣が存在したという確かな証拠はないらしく、天守台も忠興の時代に潰されたそうな。
しかし、「奥平家歴史資料館」という名の通り、鉄筋コンクリート製の模擬天守は昭和39年に奥平家の子孫が“天守閣風に造った資料館”だと考えれば別に文句はないし、天守が“模擬”なだけで、城址は官兵衛の頃から続く本物の中津城であることに違いはない。
ちなみに模擬天守のモデルは萩城天守だそうで、明治期に櫓など建造物のほとんどを潰させたのは福沢諭吉なのだとか。
そんな訳で中津城。 九州平定後の国分(くにわけ)で豊前8カ国中6カ国およそ12万石を与えられた官兵衛は、最初は現行橋市の山の上にある馬ヶ岳城に入ったものの、山奥であまりに不便なため、中津の山国川(高瀬川)河口近くに自らの縄張りで築城に着手。 当時はすでに堅牢な山城の時代は終わり(たぶん)、都市開発に便利な平城が流行の最先端。 まあ、平城というよりはむしろ海運に便利な水城で、秀吉の右腕だった官兵衛としては、周防灘から瀬戸内海を通じて大坂とつながっていたかったのではなかろうか。 よく秀吉は官兵衛の実力や野心を怖れて12万石しか与えなかったとか言われるけれど、もともとの大名ではない官兵衛に12万石(実質18万石とも)というのは決して不当ではないし、平定間もない九州の、国人衆がうるさい難しい土地には官兵衛の力量が必要だとも考えたんだろう。 しかも、近い将来には朝鮮出兵も控えている。 秀吉が山崎の合戦で明智光秀を倒すまでは、信長の下でのトップしか目指してなかった(と僕は思う)ように、秀吉という人間に惚れていた官兵衛も、少なくとも秀頼ボケが始まるまでは、秀吉の下で活躍したいと考えていたと思うんだけど、いかがでしょう? ちなみに官兵衛は「天守に金を貯め込んでいた」(それを関ヶ原のときに惜しげもなく使った)という話があるので、いちおう天守は造ってたんじゃないかと思われます。 | 大きな地図で見る |
中津駅の観光案内所で勧められた無料貸し自転車で中津城址へ。 本丸跡のまん中は中津大神宮になっていた。 |
こうして見るとなかなか存在感のある5層5階の模擬天守(奥平家歴史資料館)と模擬?櫓。左は奥平家の祖先を祀る奥平神社。 『軍師官兵衛』便乗キャンペーンに沸く?中津だけど、この辺りは奥平家一色で勘兵衛度低し。 ちなみに本来の天守は(あったとすれば)山国川側にあったもよう。 |
最上階から望む山国川と周防灘 |
黒田時代の石垣(右)と細川時代の石垣(左)の境。黒田の方が造りがていねいなのかと思ったら、山国川上流の古代山城にあった加工済みの石を持ってきたものらしい。 |
--CONTENTSへ--