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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その3~ 伊都国、侮り難し!

 
日本最古(?)の王墓、日本最大(?)の王墓
稲穂が実りコスモス咲き乱れる里の古代ロマン


三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡(前原市指定史跡)
平原(ひらばる)遺跡(国指定史跡)
BC1世紀頃~AD2世紀頃(弥生時代中期~末期)

こんばんは。
今週のミステリーハンターは、またもやGです。
今日は福岡市の西隣り、前原市(現糸島市)に来ています。
金印に目がくらんで奴国ばかり注目していましたが、実はこの前原市のあたりにあった伊都国がかなりすごいんです。
伊都国は奴国とともに魏志倭人伝(東夷伝)にその名が登場する、弥生時代のクニの一つですが、1世紀から200年ほどで衰退した奴国に対し、伊都国は紀元前1世紀から古墳時代まで続いているんですね。
また、一大率という、卑弥呼政権に任命された役人が常駐していたそうで、倭国の中でも重要なポジションにあったクニだったようです。


その伊都の国の最初の王の墓、これまでに日本で発見されている王墓の中でも最も古いとされている(注)のが、ここ、三雲南小路遺跡です。
見たところ、単なる小さな原っぱという感じですが、少し地面が盛り上がったところにひょうたん型にコンクリートのようなもので固められたところがあり、ここが王と王妃の甕棺が発掘されたところなんですね。
王の甕棺は江戸時代に発見されて、青柳種信とかいう学のある福岡藩士によって調査されたそうで、種信タダモノではないようです(もちろん私が知らないだけで、タダモノどころではない)。
それからはるかに後の昭和50年に本格的な発掘調査が行われ、すぐ隣からもう一つの甕棺を発見。アクセサリーなどの副葬品から王妃であろうということになったそうです。
日本最古の王墓(注)という割には前原市指定史跡というチンケな扱いですが、江戸時代の出土品で、どういう訳だか福岡市の聖福寺に収蔵されている銅鏡と銅剣が国の重要文化財に指定されています。
CMの後は、ここから2kmほど北西にある平原遺跡に行ってみましょう。

追記 (注)現在は、というかおそらく1980年代に別の遺跡に記録を破られてるようです。
追記2 2010年、お向かいの田んぼの発掘調査で、この王墓の周溝の続きかもしれない遺跡が見つかりました。


チャラチャチャ~
<CM>



平原遺跡は日本最大の王墓、もとい、日本最大の銅鏡が発掘されたことで一躍有名になった王墓です。
この銅鏡は内行花文鏡とか言って、銅鏡マニアのUくんも感動ものの46.5cmのどでかい国産銅鏡なんですね。
また、その他の銅鏡も合わせて全42枚と、一つの墓から出土した枚数でも日本一を誇り(注)、やはり当時としては日本最大級の王墓であると言っても過言ではないでしょう。
ここに埋葬されていたのは三雲南小路遺跡の後の代の王で、副葬品に勾玉やガラス玉などのアクセサリーが多いことから、女王であったと考えられています。
墳丘墓の周辺は広い原っぱになっていて、地元の人たちにはコスモスの名所としても有名らしく、家族連れがたくさんたわむれていました。

追記 (注)前原市が糸島市になった記念すべき2010年1月、こちらも別の遺跡に記録を塗り替えられてしまいました。

遺跡を発掘・研究した原田文六とかいう地元考古学者は、件(くだん)のどでかい鏡を天皇の三種の神器の一つ「八咫の鏡」と同じ鋳型で造られたものと考え、墓の主を太陽を祀る巫女王だったという持論を展開したそうです(それらしい伝説がこのあたりに伝わっていたのでしょう)。
そのためか、コスモス畑の前には「主墓に埋葬されました大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)の鎮魂のためのコスモス園です」と書かれた案内板が立っています。
テレビならここでコスモス園の主にインタビューを取るところでしょうが、面倒くさいのでやめておきます。
とにかく、糸島(糸島の糸は伊都からきてるそうな)の名所といえば海側ばかりが注目されていますが、秋にはぜひここいら辺りもドライブコースに加えてみてはいかがでしょうか。


ちなみに平原遺跡の主な出土品は国宝に指定されていて、三雲南小路遺跡の出土品などとともに伊都国歴史博物館に展示されていますので、ぜひお立ち寄りを。

三雲南小路遺跡

大きな地図で見る
前原市大字三雲
見学自由
駐車場:なし

平原遺跡(平原歴史公園)

大きな地図で見る
前原市大字有田1他
見学自由
駐車場:あり

関連スポット
伊都国歴史博物館(おまけ2)

つづく

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大王墓 最多81面超の鏡片 卑弥呼の銅鏡か (産経関西2010年1月8日)

 初期大和政権の大王クラスの墓とみられる奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)から銅鏡の破片が大量に見つかり、県立橿原考古学研究所は7日、81面以上が副葬されていたと発表した。古墳出土の鏡ではこれまで最多だった平原(ひらばる)1号墓(福岡県前原市)の40面を大幅に更新し最多。邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏から鏡などを贈られた「正始(せいし)元年」(240年)の年号入りの鏡と同じ鋳型で作られた三角縁神獣鏡の破片も確認された。大王墓の実態を解明する一級の史料になりそうだ。
 鏡の面数は、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川市)の37面、黒塚古墳(奈良県天理市)の34面の倍以上で、型も13種と最多。国内最大級の直径四十数センチに達する内行花文(ないこうかもん)鏡の破片もあった。桜井茶臼山古墳のような初期の大型前方後円墳は調査例が極めて少なく、他の古墳と比較して格段に豪華な副葬品の実態が明らかになった。
 鏡の破片は石室内や周辺の土中から1~11センチの331点が出土。昭和24、25両年の調査で確認された22面分のほかに59面分が新たに確認された。中国から輸入した鏡が大半だが、大型の内行花文鏡など、国産とみられる鏡もあった。
 新たに見つかった「正始元年」鏡の破片は1・5センチ大で、研究所が精密に解析した結果、蟹沢古墳(群馬県高崎市)など3古墳で見つかっている「正始元年」の年号入りの鏡と同じ鋳型製と確定した。
 正始元年鏡は、卑弥呼が魏の皇帝から金印とともに贈られたと中国の歴史書・魏志倭人伝に記された「銅鏡百枚」との説がある。このほか、中国産のガラスを加工した国内最長の管玉(長さ81ミリ)や石製品、�鉄斧(てっぷ)などの副葬品も見つかった。
 今回の出土遺物は、13~31日に橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)で展示される。

「予想以上の面数」
 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)の話
「予想以上の面数で大変驚いている。当初は100面以上あったことは間違いない。被葬者は、銅鏡をはじめとする中国の先進文物を取り入れた倭国の王であることがはっきりした」
 桜井茶臼山古墳 国史跡の前方後円墳で、全長200メートル。奈良盆地東南部に6基が集中する3世紀中ごろ~4世紀前半の大型前方後円墳の一つ。邪馬台国畿内説の邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡と近い。石室は盗掘されているが、碧玉(へきぎょく)製品や武具など豊富な副葬品が残っていた。6基のうち桜井茶臼山古墳と、近接するメスリ山古墳以外は宮内庁から陵墓指定され調査はできない。

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