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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~おまけ23~ 阿曇族の聖地、神話の舞台?


志賀海(しかうみ)神社 創建不明(弥生時代?)

今までほとんどノーチェックだったんだけど、夏にツアーの企画アドバイザーとして禅宗系茶道のお家元といっしょに伺って以来、たびたびお邪魔している志賀海神社がオモシロイ!

志賀島といえば博多湾の入口という古代の海上交通の重要な場所にあって、金印が出土したり、神功皇后が立ち寄ったり、元寇の戦場になったりと、たびたび日本史の舞台となったところでもある。

そして、志賀島を語る上で欠かせないのが阿曇(あずみ)
中国の江南地方から海を渡ってやってきた渡来系海人族で、日本に稲作や様々な技術を伝え、縄文人と混血して弥生人になったという説もあり、さらには徐福伝説と結びつけて語られたりもしている。
最初は志賀島を拠点とし、その後日本各地に広がっていったといわれ、長野県の安曇野にある穂高神社は山岳地帯の盆地にあるのに「御舟祭り」「御舟神事」など船形の山車が出るお祭りがあるそうで、安曇野は志賀島後の阿曇族の拠点と考えられるらしい。
このほか、滋賀県の安曇川、愛知県の渥美半島などアヅミの音に近い地名や石川県志賀町、滋賀県などシカの音をもつ地名は阿曇族が移り住んだ場所だともいわれている。
知り合いのカメラマン“志賀”さんは、安曇野のカメラマンと出会って阿曇族の話で盛り上がったと言ってたし。

この阿曇族の祖神とされる綿津見(わたつみ)三神を祀り、阿曇族の末裔・阿曇氏が代々祭司を務めるのが、志賀島の根元にある志賀海神社という訳だ。

参道の長い階段を登ると小さな太鼓橋があり、その向こうに山門が。

氏子が集う神事の朝の拝殿。拝殿の中は板間になっていて、山誉祭ではここで八乙女の舞が奉納されていた。

右手に大嶽神社(と見えないけど小嶽神社)、正面には打昇浜や立花山を望む遥拝所。鳥居の下には亀石がある。

鹿の角が奉納されている鹿角庫(ろっかくこ)。神功皇后が対馬で鹿狩りしたときの角を奉納したのを起源だそう(なんで対馬からここまで?)。
もともとは島の反対側、勝馬の海岸に
表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)と天御中主神(あめのみなかぬしのかみ/高天原に最初に現れた神)を祀る沖津宮
仲津綿津見神(なかつ以下同文)を祀る仲津宮
底津綿津見神(そこつ以下同文)を祀る表津宮
の三社が元宮としてあって、神功皇后の三韓出兵で船団を率い守ったた阿曇氏の祖(神)・阿曇磯良(いそら/「磯良丸」とも)が表津宮を今の場所に移し、三神まとめて祀られるようになったらしい。


沖津宮のある島には、大潮の干潮時に歩いて渡れるらしい。島のてっぺんに社があるのだとか。

仲津宮は仲津宮古墳という円墳の前にある(この小山全体が古墳かと思ったら違ってた)。7世紀ごろの勝馬を基地とした海人族(もちろん阿曇族のことだろう)の首長の墓と考えられるそう。
中津宮の社。

表津宮址は仲津宮入口の少し手前から森に入る。表津宮は移されて現在の志賀海神社になっているので、あるのは“址”だけ。
そして、龍の都と呼ばれる件。
神話の山幸海幸の話に由来していて、海幸彦(ほおり)の釣り針を失くした山幸彦(ほでり)が、塩椎神(しおつちのかみ)という潮流を司る神の導きで行ったところが竜宮=綿津見神の宮殿=志賀海神社ということのようだ。
ちなみに志賀島には東岸の二見岩にまつわる浦島太郎伝説があるけど、これとは関係なさそう。
雨乞いの話は後日談で、ある干ばつの年に朱雀天皇が雨乞いをしたところ、龍が天に昇って雨を降らせたという話で、裏手の天竜川(かつては竜天川とも)はこの伝説に因むもののよう。
神社には朱雀天皇ご宸筆と伝えられる「龍」の書があって、休暇村のしかのしま資料館には大きい複写が展示されている。
【2013.12.14修正】

まあ、そんな訳で、歴史とミステリーがてんこ盛りの志賀海神社。
神話や伝説の絡みを見てみると…

【日本神話】
イザナギが禊払をしたときに、
水底で生まれたのが底津綿津見神と底筒男命(そこつつのおのみこと)、
水中で生まれたのが仲津綿津見神と中筒男命(なかつつ以下同文)、
水面で生まれたのが表津綿津見神と表筒男命(うわつつ以下同文)。
前述の通り綿津見神の総称は綿津見三神、そして、男命の総称は住吉三神
どう違うのかはよく分からないけど、どちらも海の神様ですね。
(ちなみに住吉三神は阿曇磯良などともに、摂社の今宮神社に祀られています)
本社(と言うのか?)の隣りにあって、本社と似たようなの造りの摂社・今宮神社。山誉祭では本社での神事の後、ほぼ同じことを今宮神社でもやっていた。
綿津見三神が禊払で生まれたということは、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」は志賀島の沖津宮の近く、舞能ヶ浜あたりに波で泡が立つ小戸と呼ばれる瀬とも考えられる訳です。
ちなみにこの手前には「高天原」という浜があって、志賀海神社のお汐井はここからもってきているそう。
もしかしたら神話の舞台は志賀島だったのかもしません。

奇しくも(というか、必然かもしれないけど)博多湾を挟んで志賀島の東南の対岸には住吉三神を祀る住吉神社があって(古代の博多湾は冷泉津が住吉神社のところまで入り込んでいた)、住吉神社の立つ場所そのものや天龍池も禊祓の場所といわれています。
また、同じ博多湾岸の小戸大神宮の前の浜という話もあり、博多湾はやっぱ神話に関係する何かがあるんじゃないかという気がします。
沖津宮を右手に見るこちらがたぶん小戸(下馬ヶ浜)。
この浜はなかなか強力なパワースポットらしい。たまたま浜から見えた玄界島上空の妖しい光。


【神功皇后伝説】
前述のように神功皇后が三韓出兵の際に志賀島に立ち寄り、阿曇磯良(いそら)に先導させたという話があるんですが、この磯良さんが神だか人だかよく分かりません(伝説だからどっちでもいいんですが)。
遥拝所の立て札によると、遥拝所の正面に見える打昇浜(うちあげはま/海の中道のことらしい)の亀ケ池・亀住池のあたりで神功皇后が阿曇磯良を通じて無事凱旋できるよう祈願し、七日七夜の神楽を奉納したところ、つがいの黄金の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が現れ、船の舵と航路を守り導いたとか。
黄金の亀は後に石となって現れ、志賀海神社に奉納されたということです。
また、神楽を奉納しようとしたけど顔が醜いのを恥じた阿曇磯良が現れず、神楽を奏でながら7回呼んだところ、神楽好きの磯良は面を着けて鼓を提げてやってきたので無事神楽を奉納できたという話もあります。
さらには、神楽を舞った場所は打昇浜ではなく舞能ヶ浜(まいわざがはま)という話もあり、舞う目的が神功皇后の凱旋祝いという話もあって、何が何だかよく分かりません。
 神功皇后が、現れない阿曇磯良を呼ぶために志賀島を訪れ、舞能ヶ浜で八乙女(後述)に神楽を舞わせという伝承もあるらしい(この話は天岩戸の話に結びつくらしい)。
凱旋祝いは現在の志賀海神社で山誉の神楽を披露したとのこと(後述)。

ちなみに下馬ヶ浜は神功皇后が沖津宮に詣でるために馬を降りたところ。
志賀島には他にも三韓征伐の願いが叶って「叶の浜」、「我が心広し」で弘といった、いつもの神功皇后らしい地名も残っています。


沖津宮を左手に見るこちらがたぶん舞能ヶ浜。
遥拝所の鳥居の下に奉納されている亀石。


志賀海神社には、阿曇族の子孫である神職と氏子によって脈々と受け継がれてきた神事がある。
【御神幸祭】
隔年で10月の第2日曜(本来は旧暦の9月8日)に行なわれる、珍しい夜の御神幸。
以前は旧暦9月1日に占で祭の有無を決めていたらしい。
仕事で遅れてしまったので、お下りと龍の舞は拝見できず。
志賀の商店街にある頓宮(といってもただの空き地っぽかっただけど…)で披露される三つの舞の一つ「八乙女の舞」(この時は5人だったけど)。乙女といっても舞うのはおばあちゃん。志賀島では不浄を特に忌み嫌うらしく、女を終えたおばあちゃんなら不浄の心配もないということか。生娘はアテにならんからなあ。ちなみに老女なら誰でもいいという訳ではなく、八乙女を出す家は決まっていて、世襲制になってるらしい。
もう一つ、「鞨鼓(かっこ)の舞」。前述の阿曇磯良の伝説に基づく舞のようで、磯良の醜い顔を見せないように、白い布をかけている

この後、御神輿はさっさと本宮に引き上げる。

【山誉祭】
山誉祭は春と秋の2回あって、良い海は良い山によって作られるので山を誉めて豊漁を祈るという、今どきの環境保全的な考えが入った祭り。
春は「種蒔」がプラスされるらしい。
神功皇后が島を訪れた際に漁民が披露したのが起源だそうで、神功皇后はいたく気に入って「志賀の浜に打ち寄せる波が途絶えるまで伝えよ」と言ったそうな。
拝殿で八乙女の舞が奉納され、今宮神社でも神事が行なわれた後に、拝殿下の広場で神楽が奉納される。
11月15日に行なわれた山誉祭。左は神楽前半の山のシーンで鹿を射ているところ。
右は海のシーン。この冒頭で、「君が代」の歌詞がそのまま奏上される。ゆえに「君が代」のルーツではないかという説もあり。

志賀海神社
福岡市東区志賀島877


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