青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

追憶のガッタン列車

2016年05月11日 19時00分00秒 | 山陽電鉄

(時の止まった午後@播磨町郷土資料館)

田の字に組まれた木製の窓枠から、昼下がりの高い日差しが差し込む車内。幾多の乗客を乗せ、長年働いて来た木製車両。ビニル張りの長いシートに、ちょっと背中の痛くなりそうな薄い背摺り。飴色に光る手すりとオイルのしみ込んだ床から、長い年月を経た木材特有の匂いがぷーんと鼻に漂ってきます。昭和の末まで現役で働いていたマッチ箱のような車両は、あの頃の時の流れをそっと包んだタイムカプセルのようです。


明石から電車に乗って15分、4つ目の土山駅で下車してみます。所在は兵庫県加古郡播磨町。駅前に立つ高床式住居みたいなのは、この町のシンボル的存在で、弥生時代の遺跡である大中遺跡をイメージしているものらしい。ここからどこへ行くかってーと、播磨町の郷土資料館まで行ってみたいと思います。

   

播磨町の郷土資料館までは、土山の駅から歩いて15分。解説では山陽電車の播磨町の駅からも歩いて行く事が出来るようなのですが、あえて土山駅へ出て来たのは、土山の駅から資料館までの遊歩道「であいのみち」が昭和59年までこの地を走っていた別府鉄道土山線の廃線跡を利用したものだからなんですね(土山からのほうが僅かに近いってのもあるけどね)。遊歩道のカーブに何だか鉄道の走っていた跡らしさが見えますけど、きれいに整備し過ぎと言う感じも(笑)。


別府鉄道と言われて「!」と膝を叩くのはかなりの鉄道好きな方であって、大抵の人が「?」と言う感じだろうと思いますが、別府鉄道は播磨町の臨海部に工場を持っていた肥料メーカーの多木化学が、主力製品である化学肥料を積み出すために大正時代に開設した鉄道でした。別府港から国鉄の土山駅に向かう土山線と、国鉄高砂線の野口駅に向かう野口線の2路線がありましたが、貨物主体の鉄道と言う性格上旅客の扱いはついで程度の取り扱い。特にこの土山線は、貨物列車の最後尾におもちゃのようなレトロ客車を付けて、昭和の末期まで播州平野を行ったり来たりしていました。


廃線跡の遊歩道を歩いて15分。播磨町の郷土資料館には、そんな別府鉄道の貴重な車輌が保存してあります。ディーゼル機関車DC302と客車ハフ5。こんな時代物のレトロな客車が昭和59年まで現役で走っていたと言うのだから驚きます。昭和59年ってロス五輪の年か…。子供の頃になんかの本で見た別府鉄道と加悦鉄道(京都の丹後地方を走ってた小私鉄)のあまりにもあんまりなレトロ感は物凄く印象に残ってますけど、思えばあの頃からこんな感じのレトロなもんが好きだったのかもしれないねえ。

   

ディーゼル機関車DC302の近影。多木化学の社紋である神代鍬(農業用具の鍬ですね)をクロスさせたエンブレムがカッコいいですねえ。また動輪もロッド式(動輪を連結棒で結んでる動力の伝え方ね。蒸気機関車みたいな)だよこれ。ロッド式のディーゼル機関車なんて廃線になった鹿島鉄道の最後の時にちょっと見たくらいだったけど、専用線のスイッチャーとかだったらまだ残っているのかなあ。運転席も機能重視の虚飾を排したシンプルな感じがいかにも仕事一徹!って感じ。運転席の足元にはギアとクラッチペダルがあったりするので、変速機は自動でなかったのかもしれません。正直大人一人が中に入って仕事をするには狭いスペースで、夏場はさぞかし暑くて大変な仕事だったんだろうなあと思われます。

   

2軸客車ハフ5の近影。スポーク車輪の2軸客車とか、ワールド工芸とかがやってる鉄道模型の世界だけだと思っていましたが(笑)。この車両、元々は神中鉄道(現在の相鉄)でガソリンカーとしてデビューしており、三岐鉄道を経て昭和34年に別府鉄道へ移籍してきた経緯があります。ガソリンカーって事は自走出来たって事か…完全に客車然としている現在のフォルムからはちょっとにわかには信じられないですけどねw


別府鉄道の概要が書かれた説明板。土山線はピーク時でも1日5往復の列車の運転しかなかったという事実。もとより旧播州鉄道の野口駅(国鉄高砂線)を経由するより、山陽本線の土山に直接持ってった方が出荷効率がいいと言う事で作られたのが土山線ですから、当時から貨物専業に近い運転形態であった事が分かります。

  

郷土資料館の中にもささやかながら別府鉄道のコーナーが作られており、郷土の産業を背負って走った鉄道の功績が展示されています。その走行音から「多木のガッタン」と呼ばれ、長きに亘り郷土の風景として親しまれた別府鉄道が廃止になったのは昭和59年の1月末。運転最後の日は播州地方にも珍しく大雪の降った日だったそうで、雪の中さよならヘッドマークを付けたDDが写真に残されています。


ちなみに、ハフ5と同様に神中鉄道に導入され、同様に三岐鉄道経由で別府鉄道入りした同僚のハフ7は、相鉄線「横浜駅乗り入れ50周年」の記念行事の一環として、廃線後すぐに昭和59年2月3日に相模鉄道に里帰りしました。現在は相鉄線民である我が家にほど近いかしわ台車両センターの入口に「ハ24客車」として保存されていたりするんだが、「ああ、あのかしわ台の客車って別府鉄道から戻って来たんだ!」と気付いたのは家に帰ってから(笑)。別府鉄道と地元相鉄の意外な繋がりにびっくり。

別府鉄道


今はYoutubeなんて便利なものがありますから、こうやって在りし日の別府鉄道を映像で見ることも可能だったりします。今の時代に残っていたら物凄い数のマニアが詰めかけていたでしょうけど、今と比べればごくごく少数のファンの方がこうして記録を残してくれた事が物凄く貴重で、ありがたく見させていただくしかない、と言った感じですよね。よく「今の機材を持ってあの頃に戻りたい」なんて事を鉄道マニアは言ったりしますけど、まさに別府鉄道に対してこそ相応しい言葉なんじゃないかと思うんだよなあ。
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