人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

骨のはなし

2005年09月25日 | ただの雑談
ぼくは性格も悪いし、手癖も悪いし、趣味も悪い、人間性最低だと思う。人付き合いも至ってキライだ。多くが父親に似ていると、いまも母親は嘆かわしそうにそう言う。ここでは遺伝について考えてみたい。わが父の話だ。

今まで自分が夢中になったものというのを幼稚園の頃から思い出してみると、クルマ、電車、プラモデル、鉄道模型、バイク、天体、自転車、スキー、ビートルズ、城跡、里山トレッキング、心霊、廃墟、グロ系死体系、等々色々あるのだが、これらは全て父も通った道なのだ。別に父に諭されてぼくもそうなったワケでは全くない。その時自分が興味を持っていたことに対して、父さんが色々とより深い知識を授けてくれたものだったっけ。当時は父さんは何でも知っててスゴイなと思ったものだが、偶然同じ道を辿っているだけとは中々気がつかなかった。父がぼくと同じで単なる変態なんだと気がつくのには相当の時間を要したものだ。父から受け継いだ遺伝子に確信を持ったのは、大学生のある時だ。大学生になってちょっとはお金も貯まり、カメラを買った。そしたら今度は白黒写真を自分で現像したくなって仕方なくなったのだ。そのために結構な設備投資をしないといけないはずだったのだが、父さんは普通にこう言った。

「ああ現像器ね、別に買わなくっても押し入れに入ってるよ」

なんでアンタそんなもん持ってるの?!
と同時に、なんでぼくはそんなものを欲しがるの?と自問自答した。
このとき初めて、ぼくは良くも悪くもこの父親のDNAを授かった息子だったのだと悟ったのだ。
例えば小学校2年生のとき。最寄駅前のフミキリで電車と路線バスが衝突するという大事故が発生した。父親は翌日仕事だというのをそっちのけで、夜中になってもカメラをかついで散々事故写真を撮りに出かけてたっけ。今でも壊れたバスの写真が忘れられない。いまのぼくはきっと同じ事をするだろう。
同じく、いつかは忘れたが、最寄の川で人が溺れて捜索隊が出たことがあった。同じく父親はカメラを担いで出かけ、その目でドザエモンを見るまで決して帰ってこなかった。ちなみに写真はなかった。写真屋に現像を拒否されたのではないか、とひそかに思っている。ぼくはというと、大学時代、山手線の飛び込み自殺があったのを、テスト前の授業をサボってまでホトケが引き上げられるまでの全部を目撃した。駅員が「ウンコ挟み」でもってカルビ肉みたいなホトケの破片を線路から拾っていたのが目に焼き付いて離れない。あれも駅員の仕事なんだな…素敵だ…と。すでに父さんと同じだ。

でもやはり完全には遺伝しない。むしろぼくへの遺伝は劣化した遺伝だった、まだまだ甘かったと思うできごとがあった。
昨年父方の祖父が他界した。荼毘に付された遺骨を箸で支えて骨壷へ納める時。職員は例によって「これがノドボトケで…」というあの説明を始めたわけだ。そこでぼくの父さんは、目の前に横たわる祖父(つまり父さんの父さんだ)の遺骨をしげしげと見て、職員に質問をしたんだ。

しかもさり気なくではなかった、
「今まで葬式のたびにずっと知りたかったんだ、今なら聞ける。聞かなきゃあ気が済まない!」
そんな勢いに見えたよ。

ああ、父さん、あなたはこんな質問をしたんだ!

「あの、この頭蓋骨のウラについてる赤いのは何ですか?」

そう問われた職員は真面目にこう答えたさ!!

「それは脳味噌の静脈の痕です」

さすがのぼくだってこれはできないよ、父さん。あなたはいつだってぼくには超えられない存在だった。そしてとうとう越える日は来ないだろうということを今知りました。あなたが亡くなる日まで、ぼくの永遠の目標です。そしてあなたの遺骨をぼくが拾う日が来ても、決して焼き場の職員に父さんの骨については何も聞かないよ。
それより何より、縁起でもありませんがいずれ祖母が亡くなった時、あなたが今度はどんな質問をするのかとても心配です。

しかし、かくいうぼくも既に自分の骨を晒して残せというムチャクチャな遺言を残そうとしている。今私のヒザの上でギャアギャア泣いている、この赤ん坊が、我が息子がやってくれるのかどうか。「やってくれるかもしれない!」という期待と、「ほんとうにやっちゃうかもしれない…」という不安が入り混じる…。

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