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中澤英雄 カフカの『万里の長城』における民族、国家、宗教

2020-01-09 05:22:35 | 市民国際交流協会

中澤英雄教授の言葉
・・・今日の私たちが私たちの努力を集中すべき目標は、イデオロギーの分断的な壁を築くことではなく、私たちの力を反対方向に転じて、古い壁を取り除くことでありましょう。私たちがすべての古い壁を取り除くことに成功したあかつきには、私たちは今度はまったく新しい壁、人類を破壊と絶滅から守ってくれる、地球全体を取りまくいわば「平和の長城」を築くことができるでありましょう。このことがおそらく、イデオロギーや政治体制の相違を越えて、今日の私たちすべてに課せられている使命でありましょう・・・

カフカの『万里の長城』における民族、国家、宗教

                中澤英雄
http://nakazawahideo.web.fc2.com/kafka/banri.htmより転載
カフカと中国

 本日は中国におけるドイツ語・ドイツ文学研究者の集いにちなみまして、ドイツ文学だけではなく、中国にも関係したテーマについてお話ししてみたいと思います(1)。それは中国に題材を採った『万里の長城が築かれたとき』というカフカの未完の小説についてであります。以下の私の発表におきましては、この作品のタイトルを略して『万里の長城』と呼ぶことにいたします。

 さて、「カフカと中国」というテーマ一般に関しましては、私どもはすでに中国のドイツ文学研究者・孟蔚彦(Meng Weiyan)氏の素晴らしい労作を持っております。彼の著書『カフカと中国』は、様々の中国関係の書物のカフカに対する影響について、数多くの詳細な事実関係を教えてくれます。私が本日取り上げる小説につきまして孟氏は、カフカの作品と、彼が執筆に際して利用した二冊の本との間の具体的な比較対照を行なっております。その二冊というのは、J・ディットマーによって著わされた『新中国にて』という小著と、ハンス・ハイルマンによって翻訳され、序文をつけられた『紀元前一二世紀から現代に至るまでの漢詩』という本であります(2)。

 この小説と密接に関連していると思われるもう一冊の中国関係の本は、 『中国の民話』でありますが、これはリヒァルト・ヴィルヘルムによって翻訳され、一九一四年にオイゲン・ディーデリッヒス書店から出版されました。著名なカフカ研究者ハルトムート・ビンダーは『一一人の息子』、『鉱山の訪問』、『学会への報告』という三つの作品、すなわち、『万里の長城』と同じ時期に成立し、のちに短篇集『田舎医者』に収録された三つの作品に、この民話集の影響を見出せると考えているのですが(3)、『万里の長城』には直接的な影響関係を指摘できる箇所はないようであります。つまりこの本はカフカの小説に、長城建設に関する具体的な素材や情報を提供したのではなく、ただ中国の世界の一般的な雰囲気や背景を教えただけだ、ということになります。

謎めいた献辞

 現在はカフカの蔵書の中に含まれておりますこの本は、元来は彼によって妹のオットラにプレゼントされたもので、そこには彼の献呈の辞が書かれております。その文章は

「オットラへ、

 《地団太を踏みながら小舟に飛び乗った船頭》より

 一七年三月二九日」(4)

というものです。このテクストでは「地団太を踏みながら」から「船頭」までの語が引用符でくくられております。これは実に謎めいた文章であるという印象を禁じえません。しかし、ドイツのカフカ研究者ヨスト・シレマイトは、この献辞をカフカの別の文章と関連づけることによって、その謎を解きました(5)。小説『万里の長城』に付属するある断片に、「地団太を踏みながら小舟に飛び乗る船頭」が登場するのです。その箇所を引用してみましょう。

「そのとき、私たちの前に一艘の小舟が止まった。船頭は父に、土手を降りてくるようにと手招きをし、自分でも父のほうに向かって登ってきた。真ん中で二人が出会うと、船頭は父の耳に何事かささやいた。父にもっと近づくために、彼は父を抱きかかえるようにした。私には話の内容は聞き取れなかった。私が目にしたのはただ、その知らせは信じかねるといった父の様子だけであった。すると船頭は本当のことなのだと力説したが、父がそれでもまだ信じられないでいると、船頭は船乗り特有のかんしゃくを起こして、それが本当であることを証明するために、着物の胸のあたりをほとんど引き裂かんばかりにした。父は黙って考え込んだが、船頭は地団太を踏みながら小舟に飛び乗り、漕ぎ去っていった。」(B 328<2:259>)(6)

 船頭が「私」=語り手の父の耳にささやいたのは、北方で始まった長城建設の知らせでしたが、この断片についてはまたあとで触れることにしたいと思います。いずれにせよ、カフカの断片とオットラへの献辞の間の対応は、カフカがそこでは自分の文学的テクストを引き合いに出していることを示しております。この関連は多くのことを示唆いたします。それはまず第一に、カフカが自分を断片の中の船頭と同一視していること、第二に、オットラがこの断片と、さらに『万里の長城』の作品本体をそれ以前に読んでおり、よく記憶にとどめていたに違いないということ――カフカは妹に対して自分の作品を時々朗読しておりました(7)――、そして第三に、彼女が兄の船頭との自己同一視を理解できたということ、を示しております。このような反駁不可能な推論にもとづき、シレマイトは『万里の長城』の中に特定の「現実的連関」を見出し、この作品をユーデントゥーム(この語はユダヤ民族、ユダヤ教、ユダヤ精神など色々なものを総体的に意味する)の現在と歴史に対するカフカの取り組みというコンテクストの中で考察しております(8)。私はシレマイトのこのようなテーゼに基本的に同意し、それを出発点にして私の議論を展開してみたいと思います。

社会に対する個人の責任

 『万里の長城』という断片的な作品は一九一七年三月にいわゆる第六の八折判ノートに書かれました(9)。その前の年の終わり、カフカは錬金術師小路の小部屋に引っ越し、そこで彼の第三回目の活発な文学創作期が始まりましたが、それは一九一七年の五月まで継続いたしました。この期間に彼は何冊かの八折判ノートに数多くの短篇作品を書きましたが、その一部はのちに短篇集『田舎医者』としてまとめられることになりました。カフカはこの短篇集に、元来は『責任』というタイトルをつけるつもりでありました。一九一七年四月、彼が最近成立したばかりの一二の短篇作品を、雑誌『ユダヤ人』に発表するためにマルティン・ブーバーに送付したとき、彼はブーバーに宛てて、「これらすべての作品と、それから他の作品は、あとで『責任』という共通のタイトルのもとで一冊の本として出版するつもりです」と書いております(10)。『ユダヤ人』はブーバーによって一九一六年四月から刊行され始めたシオニズムの月刊誌で、カフカはこの雑誌を熱心に読み、のちにこの雑誌に、彼が送付した作品の中から二篇『ジャッカルとアラビア人』(一九一七年一〇月号)と『学会への報告』(同年一一月号)が『二つの動物物語』という共通の題のもとで印刷されました。

 イギリスのドイツ文学研究者リッチー・ロバートソンは彼のすぐれたカフカ論の中で、短篇集『田舎医者』には「社会に対するカフカの責任感の高まり」が見出されると指摘しております。彼の解釈によれば、カフカは錬金術師小路で書いた短篇作品群において、社会に対する個人の関係とその責任を考察したのだ、というのであります(11)。『万里の長城』はその断片的な性格のために『田舎医者』には収録されませんでしたが、この作品もまた短篇集の主題と密接に関連しております。というのは、この作品においても「責任」というテーマが出現するからであります。作品の冒頭には、

「長城は幾星霜にも耐えうる堅固不抜の防塁に仕上げなければならなかった。そのためには、周到この上ない用意をもって工事に当たり、知られているかぎりのあらゆる時代と民族の築城知識を利用し、しかも建設に従事する人々の個人的責任感の持続的維持が、作業のための必須の前提条件であった」(B 68<2:56>)

という文章があります。その際、この作品において論ぜられている個人と社会との関係という問題は、エムリッヒなどが考えているような人類的、普遍的な問題ではなく(12)、きわめて具体的に特殊ユダヤ的な問題なのであります。しかし、このような主張を論証するためには、この時期のカフカの伝記をより詳しく見てゆかなければなりません。

ユダヤ民族ホームとの接触

 錬金術師小路における創作期の前には、彼のシオニズムに対する関係の新しい局面が先行しております。カフカは一九一六年に婚約者のフェリス・バウアーを介してシオニズムとコンタクトを取ろうと試みます。まず七月中旬に、彼女にベルリンにある「ユダヤ民族ホーム」の案内書を送ってくれるようにマックス・ブロートに依頼します(Br 141<9:158>)。そして同年八月、九月にはそこでヘルパーとして働くように彼女を励ましております(F 684, 693ff.<11:641, 650ff.>)。このホームはジークフリート・レーマンというシオニストによって、第一次世界大戦中、ロシア軍をのがれて西側に逃げてきた東ヨーロッパのユダヤ人難民の子弟を収容し、教育するために設立されました。カフカは民族ホームのことを、雑誌『ユダヤ人』一九一六年五月号に掲載されたザロモン・レーネルトによる「ユダヤ的民族活動」という紹介記事によって知ったものと思われます。この記事は最初に民族ホームの活動を、「青少年教育」、「学校卒業者のための職業援助」、「成人の親睦活動」、「ユダヤ的夜間学校」、「一般的社会援助」の五つに分けて説明し、そのあとには「ユダヤ的セツルメント」と題された、ホームの理念を解説する論文が続いております(13)。

 この頃までのカフカはシオニズムに対してはどちらかというと否定的で距離をおいた態度を取っておりました。彼の友人で、熱心なシオニストであったブロートが彼をシオニズム運動に勧誘しようとしたときには、しばしば口論になり、二人の間は一時的にすっかり冷えきってしまったほどでした(14)。シレマイトによれば、カフカのシオニズムに対する態度の肯定的な変化は、東ユダヤ人の宗教と文化との具体的な出会いと、それと同時に、シオニズム運動の内部における新たな展開によって引き起こされたものでありますが(15)、本日は時間がありませんので、それについて詳しく立ち入ることはできません。いずれにせよ、カフカがこの時期、彼の婚約者を通じてユダヤ民族ホームと、そしてホームを通じてシオニズムと接触しようとしたことが確認できるのであります。

 しかし、彼のシオニズムに対する態度は、友人のブロートや、また「ユダヤ婦女子クラブ」というシオニズム的な団体に加入していた妹のオットラ(16)のような明確で、積極的なものではなく、かなり複雑なものです。彼の態度を理解するためには、一九一六年九月のフェリス宛の手紙がたいへん重要でありますが、そこでカフカは次のように述べております。

「レーマン博士と、それに彼の講演について少しばかり。(・・・・)ところで講演に関しては、それが核心の問題を扱っているかぎり、あなたは特別に幸運だったようです。そして私の意見では、この核心の問題は決して休止に至ることはなく、いつも繰り返しよみがえり、いつも繰り返しシオニズムの基盤を揺るがすに違いありません。」(F 694<11: 650f.>)

 この箇所には、カフカがシオニズムに接近し始めはしたものの、そのイデオロギーをまだ無条件に受け入れることはできないことが現われております。それというのは、シオニズムがある重要な問題、つまり「核心の問題」をまだ決定的に解決していない、と彼が考えるからであります。そして、彼の見解によれば、シオニズムの「核心の問題」はレーマンの講演と関係しているのであります。レーマンがホームのヘルパーたちの前で行なった講演の題は知られておりまして、「ユダヤ的宗教教育の問題」といいます。その講演の中で彼は、マルティン・ブーバーの信奉者として、ブーバーの「宗教性」の立場を論じたのであります(17)。

ヘルツルの政治的シオニズムとブーバーの文化的シオニズム

 ここで私は、中欧におけるシオニズムの歴史について短かな補説を行ないたいと思います。このユダヤ人の民族運動はご承知のように、まずテーオドール・ヘルツルのイニシアティヴのもとで、パレスティナにユダヤ人国家を建設することを目標とする政治運動として出発いたしました。ヘルツルのシオニズムは「政治的」運動でありました。すなわち、彼が建設しようとした「古くて新しい国」(これは彼のユートピア的な小説の題名です)は、ドイツやフランスといった西欧諸国をモデルにした世俗的な国家であって、そこでは宗教は決して重要な役割を演じてはならないのでした。そして彼は様々な外交交渉によって、パレスティナの土地をユダヤ人の手に獲得しようと試みたのでありました。

 しかし、このような目標はそう簡単には到達できませんでした。一九〇四年のヘルツルの死後、中欧のシオニズムはマルティン・ブーバーの文化的シオニズムの強い影響のもとに入ることになります(18)。ブーバーの中心的な関心は、西欧の同化したディアスポラ・ユダヤ人のユダヤ民族的な意識の覚醒でありました。そしてこのような目的のために、彼はユダヤ的宗教性を革新しようとしたのであります。すなわちブーバーは、単なるナショナリズムだけではユダヤ人の共同体を建設するのには不十分である、なぜなら精神的、宗教的な基盤なしにはユダヤ人国家は不可能であるから、と考えたのであります。そこで彼は、東ユダヤ人の民衆宗教であるハシディズムの中に、個人と共同体との理想的な関係が見出せると信じ、ハシディズムを新たなユダヤ的宗教性の土台にすえることになります。しかしその際、彼は「宗教」と「宗教性」を注意深く区別いたします。彼の見解によれば、既成宗教というものは、宗教的生活の本来の核心である真の宗教的感情の硬直した制度化でありまして、すでに生命力に乏しくなっているものなのであります。このような「宗教」に対して、生き生きとした核心のほうを彼は「宗教性」と名づけます。

 彼が「宗教」という語のもとで考えているのは、まず第一に正統派の律法的ユダヤ教(ラビ主義)でありました。このユダヤ教におきましては、ガルート(離散)の中において、生き生きとした祝祭と戒律が「シナゴーグの中の祭式」と「形式的戒律」になってしまったのでありました(19)。しかし他方、その当時のハシディズムもまた一個の宗教として、彼の見方によればすでに迷信へと堕落しているのでありました。そこでブーバーは、ハシディズムという宗教からそのエッセンスを直観的に取り出し、それを宗教性と名づけ、それをショーペンハウアーやニーチェなどの西欧哲学と結びつけ、彼の数多い宗教哲学的著作の中で、重厚で難解な文体によって表現したのでした。このようにして彼は、東ヨーロッパに住むユダヤ人の迷信的な民衆宗教に、同化した西ユダヤ人でも受け入れることのできる近代的な衣装というものを付与したわけです。彼の文化的シオニズムのヘルツルの政治的シオニズムとの相違点は、ブーバーにおいては国家と宗教とが分かち難く結びあわされたところにあります。

    ユダヤ民族ホームとブーバー

 カフカがフェリスをヘルパーとして働かせようとしたユダヤ民族ホームは、このようなブーバー的なシオニズムの理念によって設立され、運営されていました。カフカが読んだと思われる「ユダヤ的民族活動」という論文を、レーネルトは次のような文章で結んでおります。

「永遠なる理念に奉仕してなされるすべての行為を聖化するアボダ、世界との一体感から生まれるシフルート、謙虚、愛、そして行為の目標を世界救済とし、我々ユダヤ人が世界と人間に対して感じる深い責任感から我々に訪れるカッヴァーナー――ハシディズムから採られ、マルティン・ブーバーによって新たな生命へと覚醒させられたこれら三つの概念が、ユダヤ的社会活動にいつの日か方向と意義を与えてほしいものである。」(20)

 この文章はまさにブーバーのハシディズム的宗教性の要約反復であります。ここで特に注意していただきたいのは、「責任」という言葉です。レーネルトは彼の論文の中で度々この言葉を用いております。別の箇所では彼はたとえば、「人々に対するこのような献身ができるようになるための前提条件は、我々ユダヤ人の心の中にある、民族に対する、世界に対する責任感であり、そしてこの責任感が、民族大衆への大いなる愛と一体となって、我々の活動の常に新たな原動力となるであろう」と述べています(21)。私の見るところ、この「責任」という語は、カフカが自分の短篇集の題として選んだ『責任』というタイトルと関連しているのであります。

 さて、民族ホームの設立者ジークフリート・レーマンもブーバーの信奉者でありました。したがって、フェリスへの手紙におけるカフカのレーマンに対する批判は、結局のところ、ブーバーの宗教性の立場に向けられていたことになります。カフカとブーバーの関係はかなり複雑です。カフカもまた単なる政治的シオニズムには満足できず、宗教をシオニズムの「核心の問題」と見なすかぎりにおいて、彼はブーバーと同じ立場に立っております。しかし彼は、ブーバーの指導のもとにある文化的シオニズムもまた、この核心の問題に対してまだ決定的な答を出していないと考えます。すでにロバートソンが示したように、『田舎医者』の多くの短篇作品には、シオニズム、特にブーバーのイデオロギーとのカフカの対決が見出されます(22)。

 ブーバーのシオニズム的な理念を広めるための機関誌は、これまでも何度か触れてきた『ユダヤ人』という月刊雑誌です。この雑誌の創刊号に掲載された「標語」という綱領的文章の中で、ブーバーはユダヤ人たちに、シオニズム運動に参加するように、次のように呼びかけております。

「そもそもこの世における生活を真剣に営もうとする者は、共同体との関係を真剣に確立しなければならない――責任を感じることによって。この大戦のユダヤ的体験によって震撼せられ、ユダヤ人の共同体の運命に対して責任を感じるユダヤ人の中には、ユダヤ民族の新たな一体性(Einheit)が生まれてくるのである。」(23)

 レーネルトの「責任」の強調は、まさにブーバーの理念の反映であります。ブーバーの呼びかけやレーネルトの記事を考慮に入れれば、カフカがなぜブーバーに対して、自分の短篇集を『責任』という題にするつもりだ、と書いたのかがはっきりいたします。すなわち、彼の短篇集はユダヤ的責任へのブーバーの呼びかけに対する彼の応答であったのです。責任というテーマを扱っている『万里の長城』もまたその応答の一つということになります。

作品のアレゴリー的性格

 それではこれから作品の分析に入ってゆきたいと思います。この小説は「私」という語り手の中国の社会に関する考察という形で構成されております。その考察は、「中国社会を統一している二つの社会的装置」、すなわち長城建設と皇帝への信仰をめぐって行なわれている、とロバートソンは言いますが(24)、これにはおそらく第三のものとして、謎めいた指導部の存在ということもさらにつけ加えなければならないでしょう。これら三つの社会的装置が同時にこの作品の三つの重要なテーマにもなっているわけですが、本日は時間もありませんので、私の議論は第一のテーマに限定したいと思います。

 語り手はこの作品の中で、長城建設に関する「歴史的研究」を行なっている、と称しております(B 74<2:60>)。しかし、カフカの関心は実際の万里の長城の描写に向けられているわけではありません。皆様がた中国人は、万里の長城の歴史的事実にそぐわない箇所をいくつもすぐに発見できることでしょう。むしろこの作品では、すでにギュンター・アンダースが指摘したごとく、「ユダヤ人」という語が「中国人」という語によってすっかり置き換えられているものと考えなければなりません(25)。すでにシレマイトやロバートソンが示したように、これはユダヤ民族の状況を取り扱った、アレゴリー的な性格をもった作品なのであります(26)。作品の中に二、三のユダヤ問題へのあからさまな隠喩的なほのめかしを見出すことは容易であります。たとえば作品の冒頭で語り手は、長城は「二大労働部隊」、すなわち「東部隊と西部隊」によって築かれた、と述べていますが(B 67<2:55>)、これは、ロバートソンが言うように、明らかに東ユダヤ人と西ユダヤ人を暗示しております(27)。

 長城(Mauer)のイメージもまた隠喩的です。壁(Mauer)というものはユダヤ人の歴史の中では、エルサレムの「嘆きの壁(Klagemauer)」としてばかりではなく、ゲットーの壁としても常に重要な役割を演じてまいりました。シレマイトはカフカのイメージの中に、ヤーコプ・クラツキンというシオニストによって書かれた「民族的ユダヤ主義の基盤」という、雑誌『ユダヤ人』に掲載された論文の影響を見出しております(28)。その中でクラツキンは、ユダヤ教を倫理的な理性宗教とするヘルマン・コーエンのユダヤ教解釈を批判しつつ、次のように書いております。

「我々の宗教戒律の中には民族的な支えがあるが、イデオロギーや、ましてや倫理的教説の中には民族的な支えはない。我々の宗教文化には、我々の固有の生活をあらゆる方面で取り囲む民族的な障壁、《防護壁(Schutzmauer)》や《垣根》が数多い。そうしてくれるのはユダヤ教の精神などではない。」(29)

別の箇所では彼は次のように書いています。

「ガルートの中での我々の民族的持続の謎を解くものは我々の宗教である。それが我々をすべての民族から区別し、あらゆる離散の中で我々を統一した力なのである。我々の敵たちによって作られた外的なゲットーの壁は、そのようなことを成し遂げることはできなかったであろう。しかし、我々の宗教に根ざし、我々が放浪の旅の途上に持参し、定住地でますます堅固に増築した内的な壁、運搬可能なこの《ヤコブの天幕》こそが、我々にいたるところで自分たちの故郷を保証してくれたものなのであった。ユダヤの宗教には、我々の共同体を周囲の世界と区別し、すべての異質な要素を遠ざけておく柵が豊富である。ユダヤの宗教には、我々をその本質においても外観においても一体のものとして結びつけ、特徴づける形式が豊富である。なぜかといえば、それが他の宗教とは違って、理念的な教説ではなく、戒律の教えであるからである。我々は戒律の中で民族自決の権利を実証してきたのである。」(30)

クラツキンの考え方によれば、ユダヤ教は単なる普遍的な倫理的教説や、具体的な形式や戒律から解き放たれた抽象的な「ユダヤ教の精神」に解消されてはならず、ディアスポラの中でユダヤ人がその民族的アイデンティティを保持することを可能にした差別的な力と見なされねばならないのであります。このような理由から彼は、「ラビ主義をユダヤ精神の硬直化、あるいはさらに堕落とすることは不当である」と考えます(31)。したがって彼の批判は、「宗教性」の立場からラビ主義を否定したブーバーにも向けられていることになります(ブーバーの著書の一つは『ユダヤ教の精神について』と題されております)。

 しかしながら、ユダヤ教、もしくはもっと具体的にはトーラー(ユダヤ教の最重要教典であるモーセ五書)やタルムード(律法学者の口伝・解説の集大成)を、外部の影響を排除する壁や垣根にたとえる隠喩は、なにもクラツキンだけに限られたものではなく、ユダヤ教の伝統の中ではきわめて一般的なものでありました。私は、カフカの長城のイメージは、たしかにクラツキンの論文や、ユダヤ教においてよく使われる隠喩によって影響されたものかもしれないが、しかし、それを、ロバートソンが行なったように、トーラーやタルムードそのものとすっかり同一視してはならないと思います(32)。そうではなく、あとでも見るように、このイメージはもっと具体的にパレスティナにおけるユダヤ人国家の建設というシオニストの試みとの関連で考察すべきだと考えます。すなわち、私はこの隠喩を宗教的なものではなく、政治的なものと見なします。

万里の長城とバベルの塔

 ここで私は、『万里の長城』という断片的な小説はきわめて具体的に、ブーバーと彼のシオニズム的理念に対決する作品である、という主張を行ないたいと思います。多くの箇所でブーバーに対する当てつけを指摘することができます。ブーバーはたとえば「標語」の中で、ユダヤ民族の「血による深い共同体」やそこから生ずる民族の「一体性」(Einheit)について語っていますが(33)、民族の一体性はカフカの作品の中でも強調されております。

「この国に住む者は、誰も皆兄弟なのだ。その兄弟のために防壁を築くのだ。そして兄弟は自分の全存在をあげてそのことに感謝するのだ。一致団結(Einheit)! 一致団結! 胸と胸をあわせて踊る民族の一大輪舞。血はもはや小さな五体の血管の中には閉じ込められておらず、広大無辺な中国の全土を喜々として駈けめぐり、また回帰してくるのだ。」(B 71<2:58>)

 この誇張された箇所に、カフカのブーバーの理念に対するイローニッシュな当てこすりを見出すことは容易であります。

 カフカがブーバーの信奉者であるレーマンの講演の中で、シオニズムの「核心の問題」が取り扱われていると考えたことは先に見てまいりました。ロバートソンが指摘するように(34)、この語さえも『万里の長城』に現われてまいります。語り手はこう言います。

「以上によって、分割工事の方式が理解されるのである。しかし、それにはどうやらまだ他の理由も存在したのであった。それに、私がこの問題にこんなにこだわっているのは、決して奇妙なことではない。これは最初はどれほど些細なことのように思われても、長城建設全体の核心の問題の一つなのである。」(B 71<2:58>)

 語り手は分割工事のやり方をこの事業の「核心の問題」の一つと見なします。フェリス宛の手紙ではカフカはこの語を宗教的な意味で用いていたのでありますが、この語は『万里の長城』では工事の方法を指しております。両方の箇所における意味連関は多少異なりますが、この語は小説におきましても直ちに宗教的な問題に結びつけられます。といいますのは、この「核心の問題」との関連で、語り手は長城建設をバベルの塔の建設と対比したある学者について報告するからです。バベルの塔というイメージはカフカの作品で時々現われてまいります。たとえば『万里の長城』と同じ頃に書かれた戯曲断片『墓守り』や、一九二〇年に成立した『町の紋章』などです。またカフカのアフォリズムの中にも、「バベルの塔の建設も、塔に登らないで建てることができたなら、許されたことであろう」(H 41<3:30>)という有名なものがあります(アフォリズム集一八番)。これらの箇所を互いに比較いたしますと、カフカにおいてはバベルの塔は、旧約聖書とは異なりまして、人間の神に対する不遜の徴として否定的に見られているのでは決してなく、ビンダーが述べるように(35)、現世的、この世的な生存領域から抜け出して、天、すなわち超越的あるいは神的な領域に到達したいという形而上的な努力のシンボルとして、むしろ肯定的に評価されていると言えます。カフカにおいてはバベルの塔のイメージは、人間の宗教的営みと密接に関連しているのであります。

 『万里の長城』に登場する学者は、ベストセラーになった彼の著書において、バベルの塔は「一般に主張されているような原因」のためにではなく、「土台の弱さ」のために失敗したのだと語り、彼はさらに、

「この長城こそ人類の歴史上初めて、新しいバベルの塔のための確固たる土台を造ることになるだろう、と主張した。つまり、まず最初に長城、次に塔というわけである。その本は当時すべての人に読まれたが、正直に言って、彼がこの塔のことをどのように考えていたのか、私には今もってわからないのである。」(B 71f.<2:58>)

 この学者の見解によれば、バベルの塔、つまり人間の形而上的、宗教的な努力は、まず万里の長城というしっかりとした基盤があってはじめて成功するというのであります。私のテーゼというのは、万里の長城はユダヤ人国家に、バベルの塔はユダヤ教に対応し、カフカはこの学者において、きわめて具体的にブーバーのことを念頭に置き、そのシオニズム的イデオロギーを批判している、というものであります。なぜならば、この学者の長城と塔との関係に関する見解は、ブーバーの国家と宗教に関する見解と非常によく似ているからであります。さらに、ブーバーは中欧のユダヤ人の間ではベストセラー作家であり、彼の本は文字通りすべてのシオニストに読まれていたからであります。

 ブーバーの考えによれば、ユダヤ民族は人類の歴史の中である特別な使命とある特別な地位というものを持っているのであります。ユダヤ民族のこの「世界史的な使命」は、「西洋のすべての知恵と芸術を学びとり、しかもその東洋的な本質を失わなかった仲介的民族として(・・・・)、東洋と西洋を実り豊かな相互補完関係へと結びつけ(・・・・)、東洋の精神と西洋の精神を新たな教えの中で溶融すること」にあるのであります(36)。しかし、ユダヤ民族はヨーロッパの中で同化し、分断されたガルート・ユダヤ人であるかぎり、この天命を完うすることができません。なぜなら、彼らは大地から切り離され、病的な存在へと堕落してしまっているからです。そこでブーバーはこう主張します。

「ユダヤ人が諸民族の間における彼の使命を真に完うできるのは、彼が新たに、その全体的な、損なわれていない、清らかな根源力をもって、彼の宗教性が太古の時代に教えたことを実現することにとりかかるときなのである。その宗教性の教えるものとは、故郷の大地に根をおろし、狭い国土の中での正しい生活を実証し、カナーンの細長い大地の上で模範的な人間の共同体を形成することである。」(37)

 雑誌『ユダヤ人』の協力者であったブロートは、その頃ブーバーの驥尾に付して、 「ユダヤ精神のこのようなルネッサンス」はユダヤ人にとってばかりではなく、「全人類に実りをもたらすであろう」、と考えたのであります(38)。シオニスト・グループに共通するこのような根本的確信をブーバーは、『ユダヤ人』の中のある論文で、

「我々はパレスティナを《ユダヤ人のために》欲するのではない。我々はその土地を人類のために欲するのだ。なぜなら我々はユダヤ精神の実現を欲しているからだ」(39)

という有名な文章で表現しております。つまり、ブーバーや彼の周囲にいた文化シオニスト、たとえばカフカの友人であるブロートやフーゴー・ベルクマンは、こう確信していたのであります――もしユダヤ人がパレスティナに民族国家を建設することができれば、彼らはそのときユダヤ教の真の宗教的生活を実現することができ、そしてそれは同時に全人類の精神的ルネッサンスに貢献することになるのだ、と。今日ではあまりにも自己礼賛的に思われるこうした見解は、長城によって安全保障された国土がバベルの塔を可能にするという、作品の中の学者の見解と正確に対応しております。したがって、長城建設というイメージはパレスティナにユダヤ人国家を建設しようとするシオニストたちの試みを暗示していることになります。しかし、ヘルツルはすでに死去し、一九一七年一一月二日のバルフォア宣言が出される以前であったその当時にあっては、その試みは未来の展望を失い、文字通り一貫性を欠いた「分割工事」と呼ぶほかはなかったのであります。

カフカのブーバー批判

 作品の語り手は「最初に長城、次に塔」というこのような見解は理解できない、と醒めた意識で告白します。彼には学者の計画は「曖昧模糊」に思われます。

「長城というものは円形にさえならず、せいぜい一種の四分円か半円にしかならない。そんなものが塔の土台になるのだろうか? それはただ精神的な比喩で言ったことなのかもしれない。しかしそれなら、具体的な建造物であり、何十万の人々の労力と生命の産物である長城を作るのは何のためなのか? この著作では、塔の設計図が、ただし曖昧模糊とした設計図が、幾通りも描かれており、国民の総力をいかにしてこの巨大な新規事業に結集すべきかという点に関して、微細な点に至るまで様々の提案がなされているのであるが、それはいったい何のためなのか?」(B 72<2: 59>)

 学者に対する語り手の意見は、ブーバーに対するカフカの印象と判断と正確に対応しております。たとえば彼は一九一三年のフェリス宛の手紙で、「(・・・・)私は彼(=ブーバー)の話をもう聞いたことがありますが、味気ない印象でした。彼の言うことすべてには、何かが欠けています」(F 252<10: 227>)と書いております。カフカはブーバーの書いたものを「生ぬるい」(F 257<10:232>)と見なします。一九一八年一月、友人オスカー・バウムから贈られて、「ブーバーの最近の本」を読んだとき、彼はそれらを「吐き気をもよおす」ほどで「いとわしい」と評しております(Br 224<9:247>)。

 作品の語り手は、長城建設にこれほど多くの人間のエネルギーと努力を傾注しなければならないその目的が何であるのか、それが理解できません。彼はむしろ、長城それ自体は建築工事の本来の目的ではなく、ナショナリズムの発揚のための手段として利用されているのではないか、という嫌疑をいだきます(40)。

「しかし、このような築城技術者を駆り立てていたのは、もちろんのこと、どこにも手抜かりのない立派な仕事をしたいという熱望であったが、それと同時に、長城の完成を早くわが目で見たいという焦燥でもあった。(・・・・)彼らをたとえば故郷から何百里も遠くはなれた、人里もない山岳地帯で、何ヵ月も、いやそれどころか何ヵ年も、石積みの仕事ばかりをさせておくわけにはゆかなかった。孜々として働きながらも、長寿の生涯をかけても目標に到達できないこうした仕事の希望のなさのあまり、彼らは絶望におちいり、何よりも仕事に役立たずになるかもしれなかった。そこで分割工事の方式が選ばれたのであった。(・・・・)これらすべてのことが彼らの焦燥感をやわらげた。しばらく時を過ごす故郷での静かな生活は、彼らの心身を強壮にした。築城に従事するすべての人々に与えられる声望、彼らの報告に信じきって耳を傾ける謙虚な態度、素朴で寡黙な村人たちが将来の長城完成に寄せる信頼感、これらのものすべてが心の琴線を強く張りつめさせた。永遠の希望に胸をふくらませる子供のように、彼らは溌剌として故郷に別れを告げたのであるが、そのとき、再び民族的大事業に参画するのだという喜びが、ふつふつとこみ上げてくるのであった。」(B 69f.<2:57>)

 長城建設の意義について懐疑的な考察を行なう語り手の立場は、おそらくカフカの立場と、まったく同一とは言えないにしても、かなり近いと思います。なぜなら、カフカもまたシオニズムは「核心の問題」をまだ解決していない、と考えるからであります。語り手はこう尋ねます。

「そういう事情であるならば、我々はなぜ故郷とその川や橋を離れ、父と母を、泣きぬれる妻と勉強させてやらねばならない子供たちを見捨てて、遠くの町の築城学校へと留学し、さらにもっと遠い北方の長城にばかり想いを馳せるのであろうか? それはいったいなぜであろうか?」(B 75 <2:61>)

 この疑問からは、近い将来の国家建設の展望がないのに、ユダヤ人がなぜ現在自分たちが住んでいる国を立ち去って、遠いパレスティナに行かなければならないのか、というカフカのシオニストたちに対する問いかけが読み取れるでしょう。しかし、カフカはただ単に現実的な立場からこの「築城」計画を批判しているのではありません。彼の批判はもっと本質的な、根本的な疑問から生じているように思われます。それは、結局のところ「せいぜい一種の四分円か半円にしかならない」長城、つまり決して「円」という完全性に到達するはずはないこの世的な構造物、換言すれば「民族国家」という名の政治的・現世的構築物が、そもそも宗教的生活の基盤になり、バベルの塔に象徴される人間の形而上的願望を満たすことが一体できるものなのか、という疑問です。

 カフカはこの疑念を捨て去ることはまだできませんが、しかしかといって、シオニズムを完全に否定するわけでもありません。カフカ自身のシオニズムに対する態度はおそらく、断片の中の「地団太を踏みながら小舟に飛び乗った船頭」の中に描かれているのであります。カフカはオットラへの献辞の中で、自分をこの船頭と同一視していたのでありますから。この船頭は小舟に乗って、語り手のいる村にやってきます。彼はこの地方では見慣れない船頭です。彼は遠い北方で始まった長城建築について人々に知らせたあと、小舟に飛び乗って漕ぎ去ってゆきます。この船頭、つまりカフカは、この偉大なユダヤ的事業の報告者であり、随伴的な観察者なのであります(41)。これがおそらく作家としてのカフカの、ユダヤ民族に対する彼なりの「責任」の取り方であったのであります。

 この作品におけるカフカのシオニズムに対する見方はかなり批判的、懐疑的なものと言わざるをえません。しかし、これが彼のシオニズムに対する最終的な態度であったというわけではありません。晩年にはドーラ・ディアマントと一緒にパレスティナ移住を計画したことにも現われているように、彼はもう一度シオニズムに大きく接近することになります。晩年の問題、それからここでは論ずることのできなかった『万里の長城』に関するその他の問題は、また別の機会に論じてみたいと思います。

  * *

 発表の終わりにあたり、私は、万里の長城が築かれた二千年以上も前から、そしてカフカがシオニズム運動のコンテクストの中でこの作品を書いた一九一七年から現代へ、これらの遠い過去の時代から現代へと長い跳躍を行なってみたいと思います。それといいますのも、ドイツ文学研究も今日の現実に対して何らかの意義をもたなければならないと考えるからであります。

 「長城=壁(Mauer)」というものは現代史の中でも、重要な政治的役割を演じました。私が意味しているのはベルリンの壁(die Berliner Mauer)のことであります。壁というものは、自分と他人を区別し、敵に対して自分を守ろうとするところに築かれます。外なる壁は、イデオロギーや、宗教や、人種的偏見や、エスノセントリズムや、国家的エゴイズムなどとして、世界の国々を分断している内なる壁の物象化であると言えましょう。過去の時代においては民族や、国家や、宗教的共同体や、文化共同体や、そのほかの集団としての自分たちの一体性やアイデンティティを保持するために、このような壁を必要としたことは私も認めたいと思います。万里の長城の建設は、中華の国を野蛮な北方民族から守ろうとする中国人の願望の現われでありますし、ユダヤ人国家の建設は民族的アイデンティティをつくり出そうとするユダヤ人の努力でありますし、ベルリンの壁は社会主義国を資本主義の侵入に対して防御しようとする共産主義者の試みであります。

 しかし、人々が互いに敵対することをやめ、これまでの民族的、イデオロギー的な境界を越えるもっと大きな共同体の中で生き始めるときには、このような壁はもはや不必要になります。そして事実、今日の人類は、とどまることを知らない相互依存の潮流に押されて、このようなより大きな、世界大の共同体の中で生き始めているのであります。今日の人類は、核戦争や、どこまでも進行する環境破壊による全面的滅亡という共通の危険に直面する、いわば地球的な規模の運命共同体の中で生きているのであります。ベルリンの壁の開放は、世界のすべての民族と国家が内なる壁も外なる壁も取り払い、相互の援助と尊敬、平和と友愛の中で生きなければならない、人類の歴史における新しい時代の到来を象徴的に告知しているように思えてなりません。そして実際に私は、この「日中ゲルマニスト共同シンポジウム」におきまして、日本側によって引き起こされた困難な過去にもかかわらず、日本人と中国人の学者の間にいかなる分断的な壁も見出さなかったのであります。

 親愛なる中国人研究者の皆様、皆様がたのご先祖は今から二千年以上も前に、巨大な建造物を構築いたしましたが、それは私たちに、もし人間がそのもてる力とエネルギーを一つの目標に集中すれば、どれほどの信じられないような偉大な仕事を成し遂げることができるか、ということを示し、教えてくれております。今日の私たちが私たちの努力を集中すべき目標は、イデオロギーの分断的な壁を築くことではなく、私たちの力を反対方向に転じて、古い壁を取り除くことでありましょう。私たちがすべての古い壁を取り除くことに成功したあかつきには、私たちは今度はまったく新しい壁、人類を破壊と絶滅から守ってくれる、地球全体を取りまくいわば「平和の長城」を築くことができるでありましょう。このことがおそらく、イデオロギーや政治体制の相違を越えて、今日の私たちすべてに課せられている使命でありましょう――中国人であろうと日本人であろうと、ドイツ人であろうとユダヤ人であろうと、ロシア人であろうとアメリカ人であろうと、それにかかわりなく。万里の長城の国においてカフカの小説から導き出したこのような教訓をもちまして、私の発表を終えさせていただきたいと存じます。

(1) 本稿は一九九〇年三月北京で開かれた日中ゲルマニスト共同シンポジウムにおいて、《Über Die Chinesische Mauer》と題して行なった研究発表に加筆した原稿の邦訳である。原文のドイツ語原稿はこのシンポジウムの論文集に掲載される予定である。なお、ドイツ語の原題には「《万里の長城》について」と「《万里の長城》を越えて」という二つの意味がこめられている。

(2) Weiyan Meng, Kafka und China, München 1986, S. 77f. Vgl. Hartmut Binder, Kafka-Kommentar zu sämtlichen Erzählungen, München 19772, S. 218ff.

(3) Hartmut Binder, Motiv und Gestaltung bei Franz Kafka, Bonn 1966, S. 149, S.163.

(4) Jürgen Born, Kafkas Bibliothek. Ein beschreibendes Verzeichnis, Frankfurt/M. 1990, S.86f.

(5) Jost Schillemeit, Der unbekannte Bote, in: S. Moses/A. Schöne (Hrsg.), Juden in der deutschen Literatur, Frankfurt/M. 1986, S. 269.ff.

(6) カフカの作品からの引用は文中に以下のような記号と頁数をもって表示する。

B = Franz Kafka, Beschreibung eines Kampfes. Novellen, Skizzen, Aphorismen aus dem Nachlaß, Frankfurt/M. 1954.

Br= ders., Briefe 1902-1924, 7.-9. Tausend, Frankfurt/M. 1966.

F = ders., Briefe an Felice, 6.-9. Tausend, Frankfurt/M. 1967.

H = ders., Hochzeitsvorbereitungen auf dem Lande und andere Prosa aus dem Nachlaß, 7.-9. Tausend, Frank- furt/M. 1966.

T = ders., Tagebücher 1910-1923, Frankfurt/M. 1951.

 またこれに対応する日本語訳は『決定版・カフカ全集』(新潮社)の巻数と頁を< >の中に示す。

 B=第二巻、H=第三巻、T=第七巻、Br=第九巻、F=第一〇、一一巻。

 たとえば、B 328<2:259>という表記は、ドイツ語版Bの三二八頁で、新潮社版の第二巻二五九頁であることを示す。ただし、邦訳は必ずしも新潮社版と同じではない。

(7) Hartmut Binder, Kafka und seine Schwester Ottla, in: Jahrbuch der Deutschen Schiller-Gesellschaft, Band XII (1968), S. 432.

(8) Jost Schillemeit, ibid., S. 271f.

(9) J. Born/L. Dietz/M. Pasley/P. Raabe/K. Wagenbach, Kafka-Symposion, Zweite, veränderte Auflage, Berlin 1966, S. 76ff.; Hartmut Binder, Kafka-Kommentar zu sämtlichen Erzählungen, S. 218.

(10) Martin Buber, Briefwechsel aus sieben Jahrzehnten, Bd. 1, Heidelberg 1972, S. 492(この手紙は『決定版・カフカ全集』第九巻一七四―五頁に訳出されている)。

(11) Ritchie Robertson, Kafka: Judaism, Politics, and Literature, Oxford 1985, S. 134ff.

(12) Wilhelm Emrich, Franz Kafka, Königstein/Ts. 19819, S. 188(エムリッヒ『カフカ論I』[冬樹社、昭和四六年]三一八頁)。

(13) Salomon Lehnert, Jüdische Volksarbeit, in: Der Jude, Heft 2 (Mai 1916), S. 104-111.

(14) Max Brod, Über Franz Kafka, Frankfurt/M. und Hamburg 1966, S. 100(ブロート『フランツ・カフカ』[みすず書房、一九七二年]一二五頁)。

(15) Jost Schillemeit, ibid., S. 273.

(16) Hartmut Binder, Kafka und seine Schwester Ottla, S. 439. また、『日記』の一九一四年一月二三日の「オットラのシオニズム」という記述を参照せよ(T 352<7:254>)。

(17) F 702<11:658>; Gershom Scholem, Von Berlin nach Jerusalem, Frankfurt/M. 1977, S. 102ff.

(18) 以下のブーバーの思想的立場については、拙稿「カフカにおける《ユダヤ人》問題」(『へるめす』[岩波書店]第二五号[一九九〇年五月])五八頁以下を参照されたい。

(19) Martin Buber, Vom Geist des Judentums, Leipzig 1916, S. 38.

(20) Salomon Lehnert, ibid., S. 111. 「アボダ」、「シフルート」、「カッヴァーナー」――これらはいずれもブーバーによって復活されたハシディズム的概念で、それぞれ「奉仕」、「謙譲」、「志向」を意味する。レーネルトがここで念頭に置いているのはおそらく、一九〇八年に発行されたブーバーの『バール・シェムの伝説』という本である。そこでブーバーはこれらの概念について説明している(vgl. Martin Buber, Die Legende des Baalschem, Umgearbeitete Neuausgabe, Zürich 1955, S. 30-72)。

(21) Ibid., S. 107.

(22) Ritchie Robertson, ibid., Chapter 4 "Responsibility".

(23) Martin Buber, Die Losung, in: Der Jude, Heft 1 (April 1916), S. 2.

(24) Richtie Robertson, ibid., S. 172.

(25) Günther Anders, Kafka. Pro und Contra, München 19724, S. 10(アンダース『カフカ』[彌生書房、昭和四六年]一九頁)。

(26) Jost Schillemeit, ibid., S. 279; Ritchie Robertson, ibid., S. 172ff.

(27) Ritchie Robertson, ibid., S. 174.

(28) Jost Schillemeit, ibid., S. 278.

(29) Jakob Klatzkin, Grundlagen des Nationaljudentums, in: Der Jude, Heft 9 (Dezember 1916), S. 610.

(30) Ibid., S. 613.

(31) Ibid., S. 614.

(32) Günther Anders, ibid., S. 103 (邦訳一七九頁)。Ritchie Robertson, ibid., S. 174.

(33) Martin Buber, Die Losung, S. 2.

(34) Ritchie Robertson, ibid., S. 173.

(35) Hartmut Binder, Motiv und Gestaltung bei Franz Kafka, S. 41.

(36) Martin Buber, Vom Geist des Judentums, S. 47.

(37) Ibid., S. 45.

(38) Max Brod, Streitbares Leben, Neuauflage, Frankfurt/ M. 1979, S. 56.

(39) Martin Buber, Begriffe und Wirklichkeit, in: Der Jude, Heft 5 (August 1916), S. 287. ブロートはブーバーのこの文章を彼の自伝の中で引用している(Max Brod, Streitbares Leben, S. 56)。

(40) この嫌疑は、それがシオニズム全体に対してではなく、ブーバーに対して向けられているものであれば、正当なものと言わなければならない。というのは、ブーバーは一九三八年、生命の危険を感じてパレスティナに移住するまでは、自分のシオニズムを「実現」するために、ドイツを去って、パレスティナでユダヤ人国家の建設に参画する意欲は持っていなかったようであるからである(この点についてはD・ビアール『カバラーと反歴史』[晶文社、一九八四年]一一五頁を参照せよ)。

(41) シレマイトはカフカのユーデントゥームに対する関係を、「内面的には関わりを持ちつつも、外面的・実践的には参加せず、自分自身では《築城》には協力しない報告者の関係」と見ているが(Jost Schillemeit, ibid., S. 272)、私もこのような見方に基本的に賛成である。ただし、彼はこの「築城」が何を意味しているのか、明確には理解していないようである。

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