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「アンテナ22」の感想を読んでいて思ったこと。

2006年05月24日 00時47分30秒 | ゲイ・コミュニティ
 例のアンテナ22について書かれている感想を読んでみて思ったことを補足しておきます。
 あの番組が取っている方向性は、ゲイ・アクティビズムがとってきた方法と同じだということです。感想文に「マジメなドキュメンタリーとして放映して欲しかった」というものが結構たくさんあるわけです。

 でも、ゲイ自身がパレードやクラブイベントやHIV啓発運動でとってきた方針と、あの番組の方針は基本路線は同じなんですよね。
 私たちは、女装をしたり、インディーズで音楽を発信したり、パレードを派手に盛り上げたり……と、ともかく衆目を引く方法を取ってきた。そこにそこはかとなくメッセージをこめたり、次の段階の興味を喚起させたりするようなしかけをしながら、まずは自分たちの存在に目を向けさせるために、どうすればいいのかを考えてやってきたわけです。
 そういった方法に対して懐疑的な人も多々いるわけですが、ともかく伝統的にはそういった手法によって、セクシュアル・マイノリティのビジビリティは増したわけだし、セクシュアル・マイノリティをエンパワーしてきたという事実は変りありません。

 このごろの若い子はもう知らないのだけど(…ということをこの間、若い子と飲んでいて確認したわけですが^^;;)、キャンプな感覚というのがあります。
 社会の間接はずしともいうべき戦略ですね。
 ゲイもGIDも一緒くたにオカマと呼ばれていた時代には、ゲイはなんとかして「ゲイ=女装」というイメージを払拭しようとしてきた。「ゲイ=ヘンタイ」という構図を壊そうとして、「ゲイも普通に恋愛をしているだけだ」というメッセージを発してきた。ところが、それを逆手に取る戦略が生み出されます。
 「オカマでなにが悪いの?」「女装で何が悪いの?」「アタシたちはヘンタイですが、なにか? そもそもアンタたちだって十分ヘンタイよ」というメッセージを発し始める。
 日本で先陣を切ったのが、1995年の伏見憲明さんのエッセイ集「キャンピー感覚」で、ある種の完成形をみせたのが貧乏女装集団アッパー・キャンプでした。(「キャンピー感覚」は、「ゲイという経験」にも再録されていますので、是非ごらんになってくださいね) 海外の例では黒人のゲイ・コミュニティがドラァグを発達させ、オネエ言葉を踊りに託していく過程で「ヴォーグ」が生まれていくという過程を追った秀逸なドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない』があります。
 
 そんな毒素にやられちゃった、ぼくも第三回目の東京でのレズビアン&ゲイ・パレードには女装で登場することになっちゃったわけです。一回目のパレードは、極めて遠巻きに見ているのが精一杯だったんですけどね~(^^;;

 ともかく世間で流通する価値観の逆を表現することで、一方で衆目を集めつつ、一方で閉塞した価値観に風穴を開けようとしてきた。当時は、セクシュアル・マイノリティは性別二元性という社会を覆う強固な価値観をぶち破る可能性だと考えられていたんですよね。

 こうした伝統は現在でもイベントなどでは垣間見られまして、たとえばNLGRなどのエイズ関係のイベントなんかは音楽イベントや女装イベントで人を集め、ゲイの共同性を構築しようとしつつ、そこでHIVの感染拡大の防御や、感染者受容のメッセージを発して大きな成功を収めているわけですね。

 「アンテナ22」も前半は、競パン・ナイトの映像などで、ゲイの共同性が下半身にしかないような表現もありました。それもかなり真実を言い当ててしまっているがゆえに、拒否反応を示す人もいたかもしれませんが、現実の一部ではあります。そういう「不真面目」な部分を問題にする人は、ゲイの世界から「不真面目」な部分を一掃できるよう努力をする必要も出てくると思うんです。でも、夜の遊びにその程度の「不真面目さ」がないというのは、あまりにつまらない。ノンケ向けのキャバクラだのピンサロだのストリップだのをなくせといっているのと同じです。「ゲイやレズビアンも、ノンケと同じように、性や快楽を消費しているんだな」というだけのことです。極めて、当然至極。

 そういったある種の「スキャンダリズム」からはじまって、人と人の関係性を(表面的ではありますが)描くにいたる過程というのは、実はぼくらが、ゲイのコミュニティに入っていく段階で経験する過程にほかなりません。あの番組で、ノンケオヤジが目に付くところから始まって、だんだん深い部分に目を向けていく過程は、とりもなおさずその過程をなぞることなんですよね。また、そうやって衆目を引き付けておいて、その次の段階を見せるというのもずっと行ってきた表現だった。
 行き過ぎがあっては困りますが、ある種の「スキャンダリズム」は、ともかく自分たちの存在をアピールしようとしてセクシュアル・マイノリティ自身が、「キャンピー」な感覚と称して選択してきた戦略でもあったわけです。「当事者が行うのと、部外者が行うことでは意味が違う」という声も聞こえてきそうですが、結果としてもたらす効力はほとんど同じなんじゃないかと思うんですよね。下手をすると生半可な女装やバンドなんかよりは、プロとしての表現が練りこまれている分、良い効果を生むかもしれないですよ。前半をみてチャンネルを変えてしまった人にはそういった微妙な実態は伝わらなかったかもしれないけれど、全編を見た人には伝わったんじゃないかと思います。
 そう思うと、別に、大げさに抗議をすることもないんだろうなあ、と思うわけです。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同性愛 (イオ)
2006-05-24 03:07:18
正直言いまして私は同性愛者や、バイセクシャルデは有りませんが、人を愛すると言う事に関して言えば

同性同士でも別に問題はないと思いますが

性交渉は別問題だと思っています

初めて同姓同士の性交渉を見たのですが引いてしまいましたというより驚きました

でもねw (玉野真路)
2006-05-24 03:26:56
そりゃあ、ゲイだってレズビアンだって、性交渉はしますよ。

イオさんも異性とはしたいでしょ。

同じことですよ。

指向が違うだけで…。