「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

山田方谷  誠に生きた藩政改革の巨人2 至誠惻怛、国家の為にする公念より出でん 

2011-04-06 17:33:38 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十七回(『祖国と青年』22年9月号掲載)

山田方谷  誠に生きた藩政改革の巨人2

  至誠惻怛、国家の為にする公念より出でん 


 山田方谷は、学問が自分の日常に結びつかない口先だけの人間を最も嫌った。「友人某に答ふる書」の中で、王陽明の「人となり」に学ぶ事の重要性を指摘し、王陽明の言葉を利用して他者を非難する軽佻浮薄な青年を戒めている。

●足下にしてまことに王氏の学に志すことあらんか、なんぞまたしばらく其の言を舎きて、其の人となりを学ばざるや。僕が此に来りて、一二の少年が口に王氏を籍る者を見る。高論雄弁、以て人を圧するに足る。而るに細かに其の人となりを察すれば、剛愎自ら用ひ、驕傲不遜、一として法度に合するものなし。此れ徒に弁論を務めて、其の人となりを学ばざるの患なり。(君が本当に王陽明の学問を志すならば、王氏の言葉は暫く置いて、その人となりに学ぶべきである。僕がここに来た時、一・二の少年が王陽明の言葉を借りて雄弁に語り他人を圧倒して居た。だが、事細やかに彼らの人間性を観察すれば、強情かつ傲慢で一つも尊敬出来る所が無い。彼は、弁論にばかり力を注いで他人に勝つ事のみを考え、王陽明の人間性に学び自らを省みる事が無いからそうなるのだ。)

山田方谷は、佐藤一斎の下で佐久間象山と勉学を共にしていたが、才能を誇り他者を見下す象山とは、性が合わなかった。後に方谷の下に弟子入りした河井継之助の旅日記『塵壷』には方谷の象山評が記されている。

●佐久間に、温・良・恭・倹・譲の一字何れかある。(佐久間には、孔子様が備えておられた五徳、温和さ・善良さ・恭しさ・つつましさ・謙譲さのその一つも無いではないか。)

方谷は、京都在住の陽明学者春日潜庵と親交を結んでいた。春日潜庵は薩摩の西郷南洲が尊敬し、門弟達を送り込んだ事で有名な学者である。潜庵は、佐藤一斎の下で学ぶ方谷に、陽明学の「致良知」について問い質す手紙を書き送った。それに対して方谷は返事を認めて居り、その中に方谷の陽明学観が表されている。

その中で方谷は、「致良知」ばかり強調する潜庵に対して、王陽明の学問の本質は「誠意」であり、「誠意」の本体を摑むのが「致良知」だが、「誠意」の実践は「格物」にあるから、王陽明は「致良知」に「格物」を必ず配している。双方が並び進んでこそ「誠意」が体得できるのだ。君が「致良知」ばかり言うのは王陽明から遊離していると思う。と書いている。

少し補足しよう。儒学の経典『大学』に君子修養の「八条目」として「格物(物を格す)・致知(知を致す)・誠意(意を誠にす)・正心(心を正す)・修身(身を修む)・斉家(家を斉う)・治国(国を治む)・平天下(天下を平らぐ)」が記されている。「致良知」とは「致知」であり、「格物」と相俟って「誠意」が実現するのである。王陽明は致良知に修養の要諦を見出したが、その言葉のみに捉われてはならず、「致知」「格物」を車の両輪として磨き上げて「誠意」を実現する事を、方谷は陽明学の真髄としたのである。

方谷は「格物」による実践を重視した。「格物」とは、物事に当って関係を正して行く事である。様々な事に直面してそれをより良き方向へと導いて行く事が「格物」である。その際に「致良知」が同時並行で現出されて行くのだ。その積み重ねの中で「誠意」、心の発動の機である「意」が誠になって行くのである。


  誠意の工夫・至誠惻怛、国家の為にする公念

 山田方谷は「学問の道は誠意のみ」と、「誠意」を重視し、その工夫について次の様に述べて居る。

●意を誠にするは、唯一念の動く処につき、省察して、自然に出づるか出でざるかを見るに在り。(心中の思いを誠にするには、ちょっとした思いが動く時に、考えを回らして、その思いが自然な心から出ているか否かを見る事である。)

●凡そ事は、何に限らず、詐り飾りて出来るものに非ず。唯我が一念の誠を以て推すのみ。(物事は何に限らず、偽ったり飾ったりして出来るものではない。唯、自分の心の誠を推していくだけである。)(以上二編『古本大学講義』)

●辞を修むるは、誠を立つるを尚ぶ。(言葉を修めるには誠を立てる事がその根本である。)(「唐の徳宗論の後に書す」)
方谷は、誠無き功業は意味が無い事を何度も述べている。

●自然の至誠より起こるは実物なり。作為のものは何程ありても、偶人造花の如し。(自然の誠を基礎として起こったものこそが本物であり、作為のあるものはどれ程であっても、人形や造花の様な偽者でしかない。)(『中庸講筵録』)

更に方谷は、「至誠惻怛」((誠意を尽して人を思いやる心)という言葉を好んで用いた。

前回、方谷の財政改革成功の事を記したが、その数々の改革実践の根底を貫いていたものは陽明学実践に裏打ちされた「至誠惻怛」の哲学だった。

●政の根本は、至誠惻怛の仁心より起こりて、功業の花やかなるには、初めより少しも目をかけざるを大切とす。   (政治の根本は、至誠惻怛の人を思いやる心から起って、為し遂げる功業の華やかさなどには初めから目もかけないことが大切である。)(『続資治通鑑綱目講説』)

●至誠惻怛、国家の為にする公念より出でずして、名利の為にする私念に出づれば、縦令驚天動地の功業あるも、一己の私を為すに過ぎず。(至誠惻怛、国家の為にする公の思いから出なくて、私の思いから出たならば、譬え天を驚かせ地を動かす様な大業を成し遂げたとしても、ただ一箇の私事を為した事に他ならず価値は無い。)(「方谷年譜」)


  幕末激動期、備中松山藩不動の中心として

 備中松山藩主板倉勝静は、財政再建を成し遂げた成果を背景に幕閣に昇進し、安政四年に寺社奉行、文久二年・慶応元年と二度老中に就任し、最後の老中として徳川幕府とその運命を共にするに至った。

実は、方谷は安政年間から幕府の崩壊を予測し、板倉公の幕閣就任には反対したのだった。安政二年、方谷は幕府を衣に譬えて、家康公が「材料を調え」秀忠公が「織り上げ」家光公「初着用」したが、吉宗公の時に「一度洗濯」し、松平定信公の時に「二度目の洗濯」を行った。三度目の洗濯は難しく「もう汚れと綻びがひどく新調せねばならぬ」と述べている。文久二年には、老中に就任し江戸城を自慢する藩主に、幕府は「荒海に浮かぶ大船」と答えている。だが、藩主が幕閣に立つ以上、忠義を尽すのが臣下である。方谷は、誠を尽して板倉公を支えた。

板倉勝静は、安政の大獄を断行する井伊大老に対し、その暴虐を諌めたが、逆に罷免されてしまった。慶応二年秋には、将軍家茂薨去後の長州処分について諮問を受けた方谷は、次の三策を老中の勝静公に上奏した。

●【大挽回の策】一橋慶喜を将軍、勅許を得た通商条約に従って政治を行う、長州藩の攘夷実行は勅を奉じて故表彰すべき。長州藩に更新の道を与え、幕府は大公至正の政治を行い、天下の耳目を一新する。
【小挽回の策】慶喜が将軍固辞の時、徳川慶勝(尾張)を将軍に、慶勝自身が広島に赴き、二年前の征長総督であった慶勝の寛大さでもって長州藩と休戦にもちこむ。
【一時姑息の策】長州藩に対しいたずらに寛大な措置をとるが、諸大藩の調整に任せる。天下の侮りを来たし、再乱を招き挽回は出来ない。
結局、幕府は挽回策を採用する事が出来ずに自らを崩壊へと導いてしまう。

方谷は、慶応三年八月に帰藩を許され、藩の重鎮として激動の舵取りに当った。

鳥羽伏見の戦いの結果、幕府側は「賊軍」となり、備中松山藩にも朝廷から征討令が出され備前岡山藩(家老の伊木若狭が総督)を中心に征討軍が迫った。藩主不在(江戸)の下、方谷には藩の存亡が託された。方谷は、自らが養成した近代装備の兵力を背景に和平交渉に臨んだ。松山藩から三名が使者として十二キロ南方の美袋本陣に向った。官軍からは、「謝罪書」(前もって官軍が作成)の提出を迫られた。

しかし、その中に「大逆無道」の四字が記されていた。それを受けて方谷は、「大逆無道とは子が親を殺し、家臣が主君を殺すこと、藩侯の尊皇の志は誰よりも篤く、一度たりとも朝廷に刃を向けたことはない。この四文字は自らの命に代えても受け容れられぬ。」と修正を要請し、それが受け居られない場合は腹を切る覚悟を定めた。

その気魄に推され、官軍側も「大逆無道」を「軽挙暴動」に書き換える事を認めた。言葉に命を賭けて来た学者方谷の面目が表された場面であった。かくて、慶応四年正月十七日に備中松山藩は無血開城した。

一方、藩主の板倉勝静公は幕府老中として最後の将軍慶喜に付き従い、江戸開城後は榎本武揚等と函館五稜郭に立て籠もって居た。方谷は、藩存続の為、藩主父子を捜索し、函館五稜郭に居る藩主の脱出を画策した。横浜在留プロシア商船長のウェーフに依頼して、函館迄慰問に行ってもらい、勝静公を船内に招き、そのまま出港して東京へ連れ帰った。そして、藩の家老達が藩再興の為に勝静公の謝罪自訴を説得した。

その努力が実って、明治二年九月、備中松山藩は五万石から二万石に降格するが、血筋の繋がる板倉勝弼を藩主として復興する事が許された。


  明治政府からの出仕要請を断り後進の指導に尽力
 
 この様な時代の変転を方谷は達観していた。明治五年六月廃藩置県の後、方谷は、「楽分洞の記」の中で「常を楽しむは易く、変を楽しむは難し。」「天理を明らかにする者よりしてこれを観れば、変もまた常なり。」「海内の覇政、隆を極むること数百年なり。物久しければすなはち変ずるは、すなはち天理の常なり。それ王道の大いに興るや、百度一新し、貧富貴賎は悉くその位を易ふ。これもまた寒暑昼夜の変のみ。奚んぞ以て怪しむに足らんや。」と幕藩体制の崩壊と新体制の誕生を天理であると見つめている。

 方谷は楠木正成公の「七生滅賊」を信じていた。方谷は『楠公七生伝』を書き記した。その「序」のみが現存しており、その中で方谷は次の様に記している。

ある人が楠公の画を持って来て感想を求めたので、日頃の思いを二つの詩で表した。

「賊運将に窮まらんとす二百春、忠魂正に値る七生の辰、雲飛び風起こり山河裂く。かくのごときの英雄はこれ後身(湊川の戦いから二百年が経って、足利幕府の運命は正に尽きはてた。楠公の忠魂が七度生まれ変わって滅ぼしたのだ。雲が飛び風が起こって山河が裂ける様な戦いが繰り返されたのだ。それを戦った英雄こそが楠公の生まれ変わりである。)」。

「人間果して七生の縁を諦す、牽き到る遥々永禄の年、姦賊の子孫誅殺し尽き、忠魂この日始めて天に帰る(縁によって七度生まれ変わり、終に永禄の年になって姦賊足利の子孫は滅び尽くされた。大楠公の魂はこの日に初めて安らかに天に戻って行かれたのである。)」。

詠じ終わって思うには、大楠公が七回生まれ変わられたその身は必ず天下の治乱に関わった方であろう。誠を尽してその人物を求めるなら、誰であるか見出せるはずだ。そこで一心に考えて捜す事数日に及び、終にその七人を見出す事が出来た。

だが、本当に正しいのか確信が持てず、精根尽き果てて机に寄りかかってうつらうつらしていた所、

●公忽然として前に立ち、余に告げて曰く、汝の考ふるところは是なりと。余大いに驚き、更に請ふところあらんと欲すれば、すなはち遽然として覚む。(中略)すなはち室町氏の滅びし所以、王室の全き所以は、皆な公の後身のなすところに係る者なるは、目下に瞭然たり。(たちまち大楠公が私の前に現れ、私に告げて言われた。お前の考える所は正しい、と。私は大いに驚いて、更に尋ねたいと思った所で、夢が覚めてしまった。(中略)室町幕府が滅び、朝廷が安泰なのは、皆楠公の生まれ変わりが為し遂げた事によるのは、明らかで疑いがないのである。)

 幕末期、最大の経世家として名をはせた山田方谷を、明治新政府が放って置くはずが無かった。

だが、維新時に六十四歳の方谷は、出仕要請を断り、地元で後進の為に学問を伝える道を選んだ。明治六年に再興された閑谷学校でも、春秋には教鞭を執った。方谷は陽明学を教学の中心に据えて講義した。弟子達は方谷の為に、岡山県東部の蕃山村の熊沢蕃山居宅跡近くに庵を建てた。

そこで方谷は熊沢蕃山を偲び漢詩を詠み「旧魂の故郷に還ることなからんや」「何ぞ怪しまん精霊の我が腸に感ずるを」と蕃山の魂がこの地に戻り方谷に向き合うとの実感を記した。方谷は蕃山とは生年が百三十五年隔てて居るが、共に陽明学を学び実学を実践し、時代の巨人として名を馳せている。

 明治十年六月二十六日、山田方谷は小阪部(現岡山県新見市大佐)の塾舎で、多くの弟子達に囲まれて七十三年の生涯を閉じた。臨終の枕元には、慶応三年八月に帰藩を許された時に勝静公から贈られた「短刀」と「小銃」、そして生涯の愛読書だった「王陽明全集」が置かれていた。
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