「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

西郷隆盛 敬天愛人の思想1  生死何ぞ疑はむ天の附与なるを

2011-04-06 18:10:43 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十回(『祖国と青年』22年12月号掲載)

西郷隆盛 敬天愛人の思想1

  生死何ぞ疑はむ天の附与なるを



 西郷隆盛(号は南洲)が西南戦争で亡くなって百三十三年目の命日である九月二十四日、大西郷の精神の対極にある「屈辱外交」を民主党菅内閣は選択した。尖閣列島周辺の領海で、我国の海上保安庁の巡視船に意図的に体当たり攻撃を加えた中国人漁船の船長を逮捕して置きながら、中国の圧力に屈して無罪放免したのである。西郷南洲は、遺訓の中に次の言葉を残している。

●正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受くるに至らん。(外交に際しては自国の正義を国家の威信を賭して主張すべきである。相手が強大だからと言って、畏縮して事勿れ主義で相手の主張に媚び諂う様では、軽蔑侮蔑を招き、友好関係は破綻し、終には相手の思うがままの属国になってしまう。)

西郷南洲の生涯は、正道を真直ぐに貫き、日本人の理想を後世に指し示した民族の規範ともいうべきものである。


   西郷南洲との出会い

 私が、西郷南洲の事を師と仰ぐ様になったのは、大学二年生の秋に出会った『陽明学入門』の中に陽明学を実践した人物として西郷南洲が紹介されていたからである。早速、書店で林房男評注の『大西郷遺訓』と岡崎功著『西郷隆盛・言志録』を買い求めて読んだ。西郷南洲の人生に裏付けられた遺訓の一つ一つが驚きと衝撃であり、今日の私があるのは、この遺訓のおかげだと思っている。

その時に感動したものは、次の言葉である。

●男児は人を容れ人に容れられては済まぬものと思へよ → 心の広さ

●改むるにはばかる事なかれ → 真実を求める勇気

過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をば棄てて顧みず、直に一歩踏出す可し。過を悔しく思ひ、取繕はんと心配するは、譬へば茶碗を割り、其欠けを集め合せ見るも同じにて、詮もなきこと也。(過ちを改めるには、自分が過ってしまった自覚すれば、それで良い、その事に捉われずに、直ちに次の一歩を踏み出すべきである。過ちを悔しく思って過ちを飾ろうと取り繕ろおうとするのは、例えるならば、割った茶碗のかけらを寄せ集める様なもので、全く意味の無い事なのである。)

●西洋は野蛮じゃ → 日本文明への自信

●正道を以て斃るるの精神なくば外国交際は全かるべからず → 正義を貫く外交

●幾度か辛酸を経て志始めて固し → 人生の深さと困難受用の意義

●敬天愛人 → 人生哲学を確立する志

熊本と西郷南洲との関係には深い繋がりがある。西郷は奄美大島に流されていた時、菊池源吾と名乗っているが、西郷の祖先は、熊本の勤皇菊池氏の一族であり、菊池市には今も西郷という地名が存在する。

又、西南戦争の際、熊本からは士族約二千人(熊本隊・協同隊)が西郷軍に参加しており、その中の一人が、後に済々黌を創設する佐々友房である。現在の熊本県内の高校の多くが済々黌から枝分かれして生れたものであるから、佐々友房が仰いだ大西郷の精神こそが、熊本の気骨在る人々の魂に流れているのだ。


    西郷南洲遺訓の成立

 大西郷の言葉を伝える「西郷南洲遺訓」は、鹿児島ではなく、遠い東北山形県の荘内に於いて編纂され、出版された。詳しい事情については、本誌平成二十年七月号に記したので、ここでは、簡単に記す。

西郷南洲と荘内藩の繋がりは、戊辰戦争時に敗者となった荘内藩を占領者の薩摩藩が、武士の面目を尊重して極めて丁重に扱った事に起因している。感激した荘内藩の重役は、それが西郷南洲の指示で行われた事を知るに及んで、新しい時代に頼りとすべきは西郷であると確信し、明治三年の荘内藩主・酒井忠篤と多数の藩士が教えを受けるべく西郷の下を訪ねた事を皮切りに、定期的に代表が西郷の下を訪れる様になる。派遣された者は、荘内藩の代表として、西郷の言葉を記録して帰国後報告した。かくて、西郷南洲の言葉が、荘内の地に積み重ねられて行った。

西南戦争での西郷の死は荘内の人々を深い悲しみに陥れるが、明治二十二年大日本帝国憲法発布に際して、西郷隆盛の名誉回復がなされた事を好機と、荘内藩で「西郷南洲遺訓」の編纂が開始され、翌年一月に出版を見た。又、西郷亡き後、荘内では毎年慰霊祭が行われ、西郷を知らない若い藩士の為に西郷の俤を絵画に現す努力が為された。西郷の下で学び、絵画の心得があった石川静正が苦心惨憺して描き、それを元に、画伯黒田清輝門下の秀才佐藤均が西郷南洲未亡人など直接縁有る人々の教示を受けて完成させた。それが現在南洲神社などで頒布されている西郷南洲の肖像画である。


   西郷南洲の偉大なる人格を育んだもの

 西郷南洲は文政十年(1827)十二月七日、鹿児島城下の下加治屋町に生れた。六人兄弟の長男として、下級武士の貧しいが暖かい家庭で育った。

鹿児島には「郷中教育教育」という、城下を4~5町四方に区切って、その中(方限)で、年齢によって区分けされた四つのグループを作り、年長者が年下の者に対して責任を持って教え導く、独特の教育システムがあった。西郷南洲は二十歳で年長組のリーダーである「二才頭」に選ばれている。そして西郷をリーダーに仰ぐこの一角から大久保利通など明治維新と明治国家を担う多くの人材が生まれている。グループにはそれぞれに掟があり、質実剛健の薩摩武士の気風を育んだ。西郷は十三歳の時に友人との争いで右肱を負傷し、武道よりも学問での大成を志す。

若き日の西郷は朱子学・陽明学・禅などを通じて自らを高め上げて行く。山田準『陽明学精義』によれば、薩摩には、家老・秩父太郎(季保)→面高源之丞 →荒川秀山・松山隆阿弥(斉彬側近)→伊東猛右衛門 →伊地知季安・西郷隆盛、という陽明学の系譜が流れている。特に伊東猛右衛門(潜龍)は、純粋に陽明学を標榜した薩摩で最初の人物であり、西郷は二十三歳の頃に『伝習録』の講義を受けている。

又、西郷は終生、大塩中斎の『洗心洞箚記』を愛読した。佐藤一斎の『言志四録』も西郷を導いた書物である。『言志四録』に掲載されている箴言千百三十三ヶ条から西郷は百一ヶ条を選んで『手抄言志録』(椎原本)として自らの座右とし、子弟にも書き与えた。更に、その中から二十八ヶ条を精選したもの(川村本)もある。『言志四録』には「凡そ事を作すは、須らく天に事ふるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず。」「人は須らく自ら省察すべし。『天何の故にか我が身を生出し、我をして果して何の用にか供せしむる』と。」など「「天」に関する言葉も多く記され、西郷の「敬天愛人」の思想的な淵源となっている。

西郷の陽明学派たる「知行合一」の精神は遺訓の次の言葉に伺われる。

●予今日の人の論を聞くに、何程尤もに論ず共、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入るなり。聖賢の書を空しく読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち会へと申されし時逃ぐるより外有る間敷也。(今の人の言論を聞くに当って、それが行動に反映せず、口先だけの事ならば、少しも心に響かない。本当に実践している人に出会った時は実に感銘深いものだ。古代の聖人賢人の書物を紐解いて、ただ文字の解釈だけを行って、自らの心に問いかけ実際の生き方に反映しないならば、あたかも剣術に於いて人の稽古を眺めて居る様なもので、実際に立ち会えと言われた時は逃げるより他にはあるまい。)

 西郷は、十八歳から二十七歳まで郡方書役助・書役という地方農政を司る下役人を務め、農民の苦労を肌で実感している。その時代に記した「農政に関する上書」が藩主斉彬公の目に止まり、斉彬公の信頼を受け、抜擢されていくのである。

安政元年(一八五四)斉彬公の参勤に随って江戸へ上り、斉彬公の庭方役に抜擢され、斉彬公の命を奉じて、英明な一橋慶喜を現将軍の後継ぎとすべく、水戸藩や越前藩等の重役や志士達、朝廷との折衝の任に当たる。その中で水戸藩の藤田東湖との出会いは西郷に大きな影響を与えている。だが、大老井伊直弼は血筋を重んじるべきであると、第十四代将軍には紀州慶福(徳川家茂)を決定する。更に、幕府は日米修好通商条約の締結を、朝廷の反対を無視して断行する。

井伊の暴政を覆し幕政改革を行うべく、島津斉彬は薩摩藩兵を率いての上京を決意するが、その直前に急逝する。

京都にて斉彬公薨去の報に接した西郷は、悲しみの余り殉死を決意するが、清水寺の勤皇僧である月照から「斉彬公の遺志の継承」に生きるべきだと諭され死を思い止まる。更には安政の大獄が吹き荒れ、幕府を批判して来た尊皇攘夷の志士達に対する大弾圧が開始される。

西郷は、月照を匿うべく薩摩へと同行する。だが、斉彬公亡き後の薩摩は、幕府の嫌疑を恐れ「日向送り」として月照の処分を命じる。月照を守れなかった西郷は、錦江湾大崎ヶ鼻沖で日向に向う船から月照と相擁して入水した。旧暦の十一月十六日の事である。西郷は次の辞世を詠んだ。

●二つなき道にこの身を捨て小舟波立たばとて風吹かばとて

月照の辞世は「曇りなき心の月の薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる」「大君のためには何か惜しからむさつまの迫戸に身は沈むとも」だった。同行の平野國臣が海に浮かぶ二人を見つけ出し、沿岸の小屋で身体を暖め蘇生を計るが、月照は再び息をする事はなかった。だが、西郷は蘇生した。

薩摩藩は、西郷を幕府の追及から隠すべく、奄美大島に流し、名前も菊池源吾と称した。安政六年一月に大島についた西郷は文久二年二月まで大島の地で様々な書物を紐解いて自らを磨き上げて行った。西郷三十三歳から三十六歳の時である。

島津斉彬の後の薩摩の実力者は、藩主忠義の実父の島津久光だった。久光は斉彬の遺志を継ぎ幕府に改革を迫るべく、藩兵を率いての上京を意図し、他藩との人脈の太い西郷を呼び寄せた。だが、機が熟していない事を悟った西郷は、久光の「下関で待機せよ」との命を無視して、尊皇攘夷浪士の暴発を抑えるべく独断で上阪する。その事が久光の怒りを買い、再び西郷は島送りとなる。

今度は藩主の命に逆らった重罪人としてである。西郷は徳之島経由で沖永良部に流され、風雨吹き込む牢屋に繋がれる。体調を壊し日々衰え行く西郷を救ったのは、牢役人の土持政照だった。西郷の立ち居振る舞いに、常人と違うものを感じた土持は私財を投じて座敷牢を造り、西郷を保護する。西郷は死地を脱し、体力を回復して行く。当時西郷が「獄中感有り」と題して詠んだ漢詩がある。

●朝に恩遇を蒙り夕に焚伉せらる、人世の浮沈は晦明に似たり。 縦ひ光を回らさずとも葵は日に向ふ、若し運を開く無くとも意は誠を推さむ。 洛陽の知己皆鬼と為り、南嶼の俘囚独生を竊む。 生死何ぞ疑はむ天の附与なるを、願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ。(朝には主君の恩を被るが、夕方には罪を得て獄に入れられる。人生の浮き沈みは月の満ち欠けの様に変転する。葵の花が曇って光が射していなくても太陽の方向に向いている様に、運命が開かれる事が無くても、意思は誠を推して尽くしていこう。都で共に奔走した同志は皆、処刑されて亡くなり、南の島に流された私だけが一人生をぬすんでいる。人間の生死は天が定め与えられているに相違ない。ならば、与えられた命を尽くして朝廷をお守りする為に全心身を捧げよう。)

西郷は、後に「感懐」と題し「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、丈夫玉砕して甎全を愧づ。」と詠んでいるが、死を覚悟し、生死を踏み越えたこれらの体験の重みが、西郷をして不動の人生観を構築したのだ。『孟子』の中に「天は将にその大任を是の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を饑えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為す所を払乱せしむ。」という言葉があるが、天は明治維新の大業を為さしめんが為、西郷に尋常ならざる苦難を与えたのである。

 西郷が沖永良部に流されていた間、京都では長州が尊攘運動の中心となり、「攘夷実行」を幕府に迫り、幕府を追い詰め討幕を目指していた。だが、あくまでも公武一体となっての攘夷実行を願われた孝明天皇の意向を受け、中川宮が中心となり会津藩と薩摩藩が同盟を結んで、文久三年八月十八日にクーデターを断行する。「八・一八政変」である。長州藩は尊攘派の公卿七名を奉じて都落ちを余儀なくされる。又、七月には生麦事件の報復の為イギリス艦隊が薩摩湾に来襲し薩英戦争も戦われた。この様な中、薩摩藩にはどうしても西郷南洲が必要だった。元治元年二月に鹿児島に呼び戻され、三月には上京し、愈々西郷南洲の縦横無尽の活躍が始まるのである。
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 河井継之助  独立特行を志... | トップ | 西郷隆盛 敬天愛人の思想2... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

【連載】 先哲に学ぶ行動哲学」カテゴリの最新記事